慶長の役(2/2)秀吉の死で終わった朝鮮出兵・後編

慶長の役

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事件簿
事件名
慶長の役(1597年〜1598年)
場所
佐賀県・長崎県
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これに対し、朝鮮軍も日本軍を迎え撃つ準備を進めます。文禄の役で活躍した李舜臣は、講和交渉のさなかに日本軍を攻めたり、加藤清正の朝鮮上陸を阻止する命令に背いたりといった度重なる命令違反などにより罷免されたため、元均が朝鮮水軍の指揮権を握っていました。

そして7月、いよいよ日本軍と朝鮮軍の戦いが始まります。海戦がメインとなった漆川梁海戦は藤堂高虎らが率いる日本水軍が活躍。日本軍が圧勝し、元均は戦死しています。その後も日本軍は快進撃を続けていき、海上では再び地位を得た李舜臣が日本軍を苦しめますが、日本軍は9月までには当初の目標通り、全羅道と忠清道の制圧に成功。京畿道まで進出した後、当初の予定通りに大名が常駐するための倭城づくりを開始しました。文禄の役にあった城に加え、新しく8つの城を建設することになりました。これに対し明・朝鮮軍は城を早々に潰そうと攻撃を仕掛けます。

慶長の役③第一次蔚山城の戦い

そして起きたのが、慶長の役のハイライト的な戦い「蔚山城(うるさんじょう)の戦い」です。二度に渡る戦いの舞台は蔚山倭城(大韓民国蔚山広域市)で、倭城としては最東端に位置していました。縄張りは加藤清正が、築城は毛利秀元や浅野幸長が担当しています。一度目の戦いは慶長2年12月22日、築城中に起こりました。明・朝鮮軍約5万7000人が、清正を討ち取るために攻めてきたのです。清正は文禄の役で大活躍しており、明や朝鮮は「清正は日本最強の武将。討ち取れば日本軍の士気は大いに下がる」と考えたのです。

蔚山城が攻められた時、加藤清正は西生浦倭城を訪れており不在でした。不意をつかれた日本軍は苦戦。未完成の城に篭城せざるを得ず、十分な兵糧もない状態で必死に防衛します。清正も慌てて城に戻り、数度は明・朝鮮軍を退けたものの、翌慶長3年(1598年)1月にはそろそろ限界に。籠城から10日後、「もう城は落ちるのでは…」という危機的状況にやってきたのが毛利秀元と黒田長政、蜂須賀家政らが率いる1万3000の援軍でした。援軍の大活躍により明・朝鮮軍は約2万の損害を出す大敗を期し、指揮官クラスも多くが死亡。漢城までの後退を余儀なくされました。

明・朝鮮軍を退けた日本軍でしたが、第一次蔚山城の戦いを踏まえ、宇喜多秀家や毛利秀元など13将が蔚山・順天・梁の3城を放棄する戦線縮小案を秀吉に上申します。援軍の送りにくさなどが理由でしたが、小西行長や立花宗茂などは反対。秀吉は提案を却下するとともに13名を叱責しました。

さらに、石田三成が派遣した軍目付のうち、福原長堯・熊谷直盛・垣見一直が黒田長政と蜂須賀家政について「最初は戦っていなかった」などと秀吉に報告。特に蜂須賀家政は「追撃しすぎた」と非難されています。秀吉は怒り2名を処罰しました。ちなみに戦で奮闘した加藤清正や浅野幸長、毛利秀元などはあまり評価されず仕舞いだったようです。

この軍目付からの評価を秀吉に伝えたのが石田三成。また、戦線縮小案を却下した小西行長は石田三成と同じ文治派(豊臣政権で主に政務を担当)でした。文禄の役から清正と三成の関係は悪化していましたが、この蔚山城の戦いをきっかけに石田三成ら文治派と清正ら武断派(主に軍務を担当)の対立は激化していき、関ヶ原の戦いにつながっていくのです。

慶長の役④秀吉の死後に起きた明・朝鮮軍VS蔚山・泗川・順天倭城

朝鮮で日本軍と明・朝鮮軍の戦いが続く中、慶長3年(1598年)5月から豊臣秀吉は病に伏せるようになります。そして8月18日に死亡。その後、豊臣政権の中心である五大老や五奉行は朝鮮からの撤兵を決定し、秘かに準備を進めます。ただし、秀吉の死は秘匿され、朝鮮出兵中の諸将には知らされませんでした。

そして9月、「第二次蔚山城の戦い」が起こります。第一次蔚山城の戦いで敗戦した明は本国からさらに増援を得て10万の大軍になりました。それを陸軍3軍と水軍1軍に分け、陸軍が日本軍の拠点を攻撃し、水軍が退路を絶つ「四路並進策」で、蔚山倭城、泗川倭城、順天倭城の3城を同時に攻めはじめたのです。

蔚山城には約3万の明・朝鮮軍が投入されました。大軍ですが、前回と異なり蔚山城は完成済みで籠城の準備もばっちり。加藤清正がしっかりと守りを固めており、明・朝鮮軍は撃退され、慶州へ撤退しました。

9月末から10月頭にかけて起こった泗川倭城での戦いは、日本軍は数的に不利だったことから最初は苦戦したものの、島津義弘率いる島津軍の活躍により日本軍が圧勝。9月中旬から10月上旬に発生した「順天城の戦い」は、明・朝鮮軍の陸軍と李舜臣率いる水軍計5万5000が、順天倭城の小西行長や有馬晴信などが率いる1万3700人の日本軍と激突しています。明・朝鮮軍の水陸両面の一斉攻撃に日本軍は苦戦しますが、城の守りを固めて明・朝鮮軍を撃退。こうして明・朝鮮軍の「四路並進策」は失敗に終わりました。

慶長の役⑤撤退、そして関ヶ原へ

戦いが落ち着いた10月15日、日本からの使者が五大老からの帰国命令をもって到着し、各武将は日本に帰国することになります。これを受けた小西行長は明側と無血撤退の約束を取り付けますが、明・朝鮮水軍がこれを妨害。行長を助けようと島津義弘を中心とした日本海軍が激突したのが11月18日の「露梁海戦」で、慶長の役最後の戦いです。島津軍は大きな被害を出しながらも行長を撤退させることに成功。一方明・朝鮮側は日本軍に多くの損害を与えたものの、李舜臣などをはじめとした多くの将官が戦死しました。

このように一部で戦はありましたが、日本軍はおおむね順調に釜山に集結し、11月中旬には日本に撤退。こうして慶長の役は豊臣秀吉の死により集結したのでした。なお、朝鮮との講和については、徳川家康の時代を待つことになります。

2度にわたる朝鮮出兵は豊臣政権に大きな影を落としました。遠征費用は自身で賄う必要があったことから、主に朝鮮に渡った西国の武将達のダメージは大きく、政権内での力も徐々に低下していきました。一方朝鮮に兵を出さなかった徳川家康など東国の武将達の力はまし、特に家康は五大老の筆頭にのし上がりました。これに慶長の役で悪化した文治派と武断派の争いが絡みあい、天下分け目の戦いである関ヶ原へと続いていくことになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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