文禄の役(1/2)秀吉の朝鮮出兵・前編

文禄の役

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
文禄の役(1592年〜1593年)
場所
佐賀県
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名護屋城

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熊本城

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織田信長の後を継ぎ、天正18年(1590年)の小田原征伐で北条家を滅ぼし、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。次は海外だ!とばかりに中国(当時の明)の征服をめざし、その足掛かりに朝鮮(李氏朝鮮)に出兵します。それが天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)までの「文禄の役」と慶長2年(1597年)から翌3年(1598年)、秀吉が亡くなるまで続いた「慶長の役」です。「文禄・慶長の役」とひとまとめにして語られることも多い朝鮮出兵ですが、今回は前半の「文禄の役」について、秀吉がなぜ海外への侵略戦争を計画したのかも含め、わかりやすく解説していきます。

文禄の役とは?名称がころころ変わったのはなぜか

「文禄の役」は天下人になった豊臣秀吉が、天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)まで李氏朝鮮(現北朝鮮・韓国)を攻めた国際戦争です。明を攻めるために明の属国だった朝鮮に出兵したもので、3ヶ国が関わっています。このため、戦の名称も相手国、特に韓国との政治的関わりの中で幾度か変更がありました。

「文禄・慶長の役」と呼ばれるようになったのは割と最近のことで、戦当時は「唐入り」「朝鮮陣」などと呼び、その後「朝鮮征伐」などと形を変え、明治43年(1910年)の韓国併合を機に呼称は元号に合わせたものに変更されました。戦後は「朝鮮出兵」と呼ばれており、特に昭和年間は教科書の表記がそのようになっていたため、割と現在まで残る呼称となっています。その後の日韓関係の変化から、現在は年号に合わせた「文禄・慶長の役」が定着しました。なお、韓国側では「壬辰・丁酉倭乱」、中国側では「萬暦朝鮮之役」などと呼ばれています。

文禄・慶長の役はなぜ起きたのか?

そもそもなぜ豊臣秀吉は「文禄・慶長の役」を起こして明を攻めようとしたのでしょうか。はっきりとした理由は分かっていませんが、研究ではいくつかの説があがっています。

①織田信長の遺志を継いだ説
イエズス会の資料によれば、秀吉の主君・織田信長はすでに中国制覇を検討していたとのこと。この遺志を引き継いだという説です。
②秀吉の功名心・名誉欲・野望説
日本を統一した次は、主君もなしえなかった海外征服へ、ということでしょうか。朝鮮に送った国書の記述からも「佳名を三国に顕さんのみ」と書かれており、名誉欲の強さが見て取れます。
③大名の力を削ぐと同時に功名心を満足させるため
朝鮮出兵という経済負担を大名に背負わせることで力を削ぐとともに、彼らの功名心を満足させることで、国内における豊臣家の支配を安定させるためというものです。
④領土拡張のため
領土を拡大し、その土地を武将たちに褒賞として与えることで豊臣家の支配を確実なものにしようという説です。そもそも秀吉は朝鮮半島=支配領域と考えていたという説もあります。
⑤明との勘合貿易復活のため
当時、日本と明の間には国交がなく、貿易もしていませんでした。このため秀吉は明を服属させて貿易しようと考え、朝鮮に明への仲介を依頼しましたが朝鮮は拒否。出兵につながったという説です。
⑥ヨーロッパ勢力の進出に対する反発
近年出てきた新しい説です。キリスト教の布教と共にポルトガルやオランダとの貿易がはじまり、徐々にヨーロッパ勢力が日本に進出。イエズス会がキリシタン大名から土地を寄進された例もあり、秀吉は日本を植民地化するのではと彼らを警戒していました。特にスペインは明と朝鮮を押さえて日本を彼らに攻め込ませようと計画しており、それを察知した秀吉が先んじて明を攻めようとしたという説です。

このほかにも、跡継ぎとしていた鶴松が死んだ鬱憤を晴らすため、元寇の復讐など、さまざまな説が出されています。個人的にはいくつかの複合的要因で秀吉は明攻めを決意したように思いますが、真相は闇の中です。

文禄の役①明攻めの拠点、名護屋城を築城

ではいよいよ文禄の役について解説していきます。秀吉は明を攻める足掛かりとして、李氏朝鮮に協力を求めました。当時の日本船は陸沿いでの移動が主だったため、九州から朝鮮経由で明に入る必要があったからです。秀吉は朝鮮に対し服属と明への遠征軍の先導を命じます。この時点で秀吉は完全に朝鮮を下に見ていましたが、朝鮮はいつのまにか属国扱いされていることに抗議。結局折り合いはつかず、秀吉は明の前に朝鮮を攻めることになったのです。

そして天正19年(1591年)1月、秀吉は明攻めの準備を進めます。船を作り資金を集め、8月には諸大名に翌年春の実施を改めて発表。遠征の本拠地として、肥前国松浦軍の名護屋(佐賀県唐津市)の地に名護屋城を築城させます。名護屋城は平山城で、面積や約17万㎡と大坂城に次ぐ広大なもの。周囲には130以上の諸大名の陣屋が並び、約20万人が集まったといいます。また、秀吉は12月には養嗣子の豊臣秀次を跡継ぎとして関白の位を譲り、明攻めに集中していきます。

文禄の役②ほぼオールキャストで朝鮮へ

文禄の役には五大老・五奉行などそうそうたるメンバーが参加します。総大将は明攻めに最初に賛成した、五大老の宇喜多秀家。全国から兵が集められ、総勢25万人から30万人が明攻めに参加することになりました。このうち名護屋城に詰めていたものが約10万人、予備軍が7万人、実際に朝鮮に渡ったのが15万人から20万人と言われています。朝鮮を攻めた日本軍は9つの部隊に分かれていました。主な武将は以下の通りです。

第一軍(朝鮮国先駈勢・1~6番隊)
小西行長(先鋒)、有馬晴信、加藤清正、黒田長政、島津義弘、福島正則、長曾我部元親、小早川隆景、毛利輝元、立花宗茂など
第二軍(朝鮮国都表出勢衆・7~9番隊)
宇喜多秀家(総大将)、石田三成(総奉行)、増田長盛、大谷吉継、豊臣秀勝、織田秀信
日本水軍
九鬼嘉隆、藤堂高虎、脇坂安治など

ちなみに五大老のうち徳川家康・前田利家・上杉景勝は「予備軍」として参加しており、朝鮮には出兵していません。

文禄の役③序盤は日本軍が優勢、首都・漢城陥落

天正20年(1592年)4月12日、いよいよ明攻めのための朝鮮出兵がスタートします。釜山から上陸した日本軍は最後の通告と言わんばかりに朝鮮側に書状を送り、明征服に協力するよう今一度呼びかけました。しかし黙殺されたため釜山鎮を攻撃して制圧。すぐさま北上して各城を撃破していきます。隊ごとにルートは別ですが、全軍首都の漢城(ソウル)をめざして進みました。そして朝鮮軍の抵抗はあったものの、5月2日に漢城を落としました。約半月のあっという間の早業です。その後、小西行長などが率いる1番隊は開城を占領しています。

一方、この間朝鮮側は李氏朝鮮第14代国王の宣祖が漢城を放棄し北上。平壌に朝廷を移動させるとともに、明に援軍を要請しています。

その後、日本軍は朝鮮半島の8つの道ごとに隊を分けて各方面を制圧する「八道国割」の方針に従い、朝鮮半島の各地で朝鮮軍と戦闘。1番隊は6月15日に平壌を落とす快挙に出ます。このように上陸した日本軍は快進撃を続けていましたが、一方で日本水軍は朝鮮軍の武将・李舜臣率いる朝鮮水軍に苦しめられていました。

文禄の役④李舜臣の活躍と明軍の援軍

李舜臣は明歴・嘉靖24年(1545年)に漢陽に生まれ、32歳の時に武科(科挙)に合格して国に仕えます。文禄の役のときは全羅左道水軍節度使として水軍を率いていました。李舜臣は5月7日、釜山西方にいた藤堂高虎などが率いていた船団を襲撃。上部を板で覆った亀甲船に乗り、火矢を使って日本軍の船を次々と焼き払います。そして反撃される前にすぐ撤退。この「玉浦海戦」と呼ばれる戦いは朝鮮にとって初の勝利でした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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