バテレン追放令(2/2)秀吉が出したキリスト教制限令
バテレン追放令
- 関係する人物
- <6月18日の覚>
- キリスト教徒であることはそのものの心次第であるべきこと。
- 領地を大名に治めさせているが、彼らが領地内の寺や百姓などに対し、キリスト教を押し付けるのは理不尽なでけしからんこと。
- 大名に領地を治めさせているのは一時的なことであり、大名が交代しても百姓は変わらない。理不尽なことはあることで、大名がけしからんことを言えば、百姓を意のままにできてしまう。
- (知行地が)200町、2、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になる場合は公儀(=秀吉)の許可が必要。
- 知行地がそれ以下のものは仏教の各宗派と同じように、その本人の心次第でよい。
- キリスト教徒については、一向宗以上に申し合わせていると聞いているが、一向宗はその国郡に寺内町を置き、大名への年貢を納めず、さらに加賀一国については領民を一向宗の門徒にして、国主の富樫氏を追い出し、一向宗の僧侶に加賀を治めさせ、その上に越前国までも取ろうとし、(秀吉が)天下を治める障害になっていることは、隠しようのないことだ。
- 本願寺門徒の僧侶には、天満の地に寺を置くことを許しているが、一向宗のことは以前から許していない。
- 国郡や領地をもつ大名が、家臣達にキリスト教を押し付けることは、本願寺の門徒が寺領を置くことよりもありえないこと。天下を治める障害となるので、そういう分別のない者は処罰できるようにする。
- 下々の者がキリスト教徒になるのは志次第であり、仏教の宗派と同じで問題にならない。
- 大唐(中国)、南蛮、高麗(朝鮮)に日本人を売ることはけしからんこと。日本において人の売買を禁止する。
- 牛や馬を売買して食べることはけしからんこと。
キリスト教徒の信仰は容認しており、南蛮貿易については言及がありません。キリスト教徒への改宗については、大名は知行地の広さで制限があるものの、庶民については一向宗を例に挙げつつ、無理やりでなければ心次第、つまり思い通りにしても良いとしています。特筆すべきは最後の日本人の売買禁止で、秀吉が日本人の奴隷化を気にかけていたことが分かります。
その後、コエリョとの問答を経て6月19日に出したものが「松浦家文書」です。
- <松浦家文書>
- 日本は神国であり、キリスト教国が「邪法」を授けることはけしからんことだ。
- 土地の人間をキリスト教徒にして寺社仏閣を壊させるなどは前代未聞。領地が大名や武士に与えられているのは一時的なことであり、天下(秀吉)からの法律を守るべきなのにそうしないのはけしからん。
- キリスト教宣教師はその知恵の法をもって信者の自発的な改宗を得ていると秀吉は考えていたが、右のように日本の仏法を実力で破壊しているとは不届きなことだ。宣教師たちを日本に置いておくことはできないので、今日から20日間のうちに支度して帰国せよ。その間に宣教師たちに理不尽なことをしたものについては処罰する。
- 黒船(南蛮船)は商売で訪れるので別扱いし、今後も商売を続けること。
- 以後仏法を妨げないものであれば、商人でなくても、キリスト教国との往来は許可する。
まとめると、キリスト教の布教を禁止するとともに、キリスト教宣教師たちに対し、20日以内に国外退去するよう命じています。南蛮貿易は継続し、仏法を妨げない限りは往来もOK。ただし6月18日のものと異なり、キリスト教=「邪法」とかなり強い言い方をしており、さらに宣教師たちには20日間のうちに国外退去するよう命じています。なお、なぜか日本人の売買禁止については言及がありません。
わずか1日で秀吉がキリスト教に対する態度を硬化させたかのように見えますが、そもそも6月18日の覚書は国内向け、松浦家文書はイエズス会向けと出される対象が違っていたという説が定説になっています。この説に従えば、イエズス会向けに出された文書の内容が厳しいものとなったのは、直前のコエリョとのとの問答が要因の一つになったのかもしれません。
バテレン追放令の効果はあったのか
以上の経緯で豊臣秀吉が出したバテレン追放令ですが、結局効果はあまりありませんでした。なぜなら、秀吉は南蛮貿易を禁止しなかったからです。日本から退去すべきとされた宣教師たちは、貿易商人でもありました。このため宣教師たちは居直ることができたのです。
とはいえ、出された当初はさすがの宣教師たちも驚き焦りました。コエリョは船の来航の関係上、わずか20日間での国外退去は難しいことを秀吉に訴え、秀吉は宣教師たちの平戸での滞在を許します。宣教師たちは平戸に集結して今後の対応を検討。結局秘密裏に布教を続けることを決定しました。ちなみに、コエリョはキリシタン大名達に秀吉と敵対するよう働きかけたり、フィリピンに軍事的な援助を求めるなど、アグレッシブな動きを見せますが結局失敗しています。
一方、秀吉は京都の南蛮寺、つまり教会や関連施設を破却し、長崎を没収して直轄地化。しかし、南蛮貿易を重視していた秀吉はキリスト教を禁止するところまではいかず、結局なあなあな黙認状態が続いていくのでした。文禄2年(1593年)にはフィリピンからフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが秀吉と謁見して布教の許可を得ています。
その後、文禄5年(1596年)のサン=フェリペ号事件をきっかけに秀吉はキリスト教への態度を硬化。この事件は、嵐で漂着したスペインのガレオン船に対し、スペインと派を争っていたポルトガル人が「スペインは海賊であり、日本を征服しようと考えて、測量のためにやってきた」という讒言と、疑いをかけられた乗組員が「スペインはキリスト教を布教しながら各地を征服しており、日本も支配下にはいるぞ」と大言壮語を吐いたというものです。これを受けて秀吉はキリスト教禁教令を発令し、慶長元年12月(1597年2月)にはフランシスコ会の宣教師と日本のキリスト教徒、計26人を長崎で処刑しています(日本二十六聖人殉教)。
江戸時代に入ってからは、徳川家康は当初キリスト教を黙認していましたが、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて起きた、キリスト教徒が関わった詐欺事件「岡本大八事件」を契機にキリスト教禁止令を発布。布教を禁じるとともに宣教師を追い出そうとします。続く徳川秀忠もキリスト教禁止の姿勢を示し、キリスト教徒たちは厳しい弾圧と迫害を受けることになり、寛永14年(1637年)に島原と天草で発生した「島原の乱」につながっていくのです。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。