バテレン追放令(1/2)秀吉が出したキリスト教制限令
バテレン追放令
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天文18年(1549年)にキリスト教が伝来して以来、日本のキリスト教徒、いわゆるキリシタンたちは数々の弾圧に苦しめられてきました。日本で最初にキリスト教に対し大きな制限をかけたのが、天正15年(1587年)に九州で豊臣秀吉が出した「バテレン(伴天連)追放令」です。それまでは織田信長と同じくキリスト教を容認していた秀吉が、なぜキリスト教の布教を禁止し宣教師たちを追放しようとしたのか。その内容とともにわかりやすく解説します。
バテレン追放令とは
「バテレン追放令」は1587年(天正15年)6月19日、時の天下人・豊臣秀吉が筑前国箱崎(現福岡県福岡市東区)で発令した、キリスト教を規制する文書です。なお、「バテレン」というのはポルトガルのpadre(宣教師・神父)が由来の言葉で、日本におけるキリスト教宣教師たちのことを指します。
バテレン追放令を書いたとされるのは、秀吉の側近中の側近である医師の施薬院全宗。内容は5か条からなる文書で、原本は当時平戸を治めていた、松浦氏の史料を集めた松浦資料博物館(長崎県平戸市)が所蔵する『松浦家文書』内に残されています。加えて、昭和8年(1933年)に伊勢神宮の神宮書庫で見つかった『御朱印師職古格』のなかにある、6月18日に記された『伴天連門徒の儀、その者の心次第』とする「覚(おぼえ)」の11か条(6月18日の覚書)も含まれる場合もあります。この2つの資料は異なる部分があり、現在までさまざまな議論が続けられています。
バテレン追放令はなぜ出されたのか?
そもそも日本におけるキリスト教は、織田信長の時代は容認されていました。信長はキリスト教の布教を認めており、キリスト教徒は九州や畿内などでどんどん増えていきます。これはキリスト教を布教したイエズス会が、キリスト教と南蛮貿易をセットにしてアピールしていたため。信長の後を継いで天下人となった豊臣秀吉も当初はキリスト教を容認しましたが、その背景には南蛮貿易がありました。
そんな秀吉の考えを変えるきっかけとなったのが、天正14年(1586年)7月から翌4月までに秀吉がおこなった、九州平定です。日本全国統一のために、九州統一を目指して秀吉と敵対していた薩摩国(鹿児島県)の島津義久を討つための戦いでしたが、九州を訪れた秀吉はキリスト教に侵食されつつある九州の現状を知り愕然とします。キリスト教徒が急増するばかりか、なんと九州のキリシタン大名達がイエズス会に土地を寄進していたのです。肥前国(佐賀・長崎県)大村領の領主だった大村純忠は長崎などをイエズス会に寄進。肥前国日野江藩(長崎県島原市)の有馬晴信も浦上を寄進しています。日本の土地がイエズス会のものになるということは、いわばキリスト教国による日本の植民地化のようなものでした。
さらにキリスト教徒たちは寺社仏閣などを破壊するなど他宗教を弾圧。キリシタン大名が領民を強制的に改宗させるケースもあったほか、キリスト教徒が日本人を奴隷として海外に輸出しているケースもあったようです。一説によれば5万人の日本人が奴隷として輸出されたとのこと。こうした現状を知り、秀吉は驚くとともに憤ったに違いありません。
バテレン追放令のきっかけ?ガスパール・コエリョ
バテレン追放令のキーマンというべき人物が、ポルトガル出身のイエズス会宣教師・ガスパール・コエリョです。コエリョは日本におけるイエズス会の代表(準管区長)として豊臣秀吉に謁見し、秀吉から布教の許可を得ていた人物で、積極的に政治に介入していました。九州征伐の際も秀吉に軍事的援助を申し出ています。
さらにコエリョは筑前国箱崎に到着した秀吉を、大砲を積み込んだフスタ船に案内。博多湾を巡るとともに「自分ならいつでもスペイン艦隊を動かせるぞ」とスペインの軍事力を誇示しました(※秀吉が勝手に船に乗り込んだ、という説もあり)。これに秀吉は「南蛮が日本を蹂躙するのでは」と警戒を深めました。ちなみに、こうしたコエリョの行動は同時代の宣教師からは日本での布教を妨げるものとして批判されています。
秀吉がバテレン追放令を発令した理由としては、他にもキリシタン大名の団結を恐れたため、キリスト教徒たちが一向一揆衆のように反乱を起こすことを恐れたため、好色な秀吉が女性を得ようとしたところキリスト教徒であることを理由に拒否されたため、など、さまざまな説がありますが、大きな要因の1つは、秀吉がポルトガルやスペインのようなキリスト教国の侵略を恐れたからだといえるでしょう。
なお、バテレン追放令が発令される前、秀吉はコエリョに対し使者を派遣して現状の釈明を求めています。秀吉は3つの問いかけをコエリョにおこないました。イエズス会側の史料などによれば、秀吉は(1)日本人を強制的にキリスト教徒にする理由(2)宣教師が労働力である馬や牛を食べる理由(3)日本人を買ってポルトガルに連れていく理由、について詰問したようです。
ただし、秀吉は3点について詰問するだけでなく、イエズス会側に提案もしています。(1)については、神道や仏教のような穏やかな布教をしない場合は日本から追放する、ただし帰国費用を出すとしており、(2)については野生の豚や鹿の食用を代案として提案。馬や牛の食用禁止を守れない場合は出ていくようとしています。(3)については売られて海外に行った日本人の返還と、現在買い取っている日本人の解放を求め、解放する場合は銀を支払うとしています。
これに対し、コエリョは提案を無視して言い訳じみた回答を行います。(2)については宣教師たちは積極的に食さないし、ポルトガル商人には注意喚起すると許諾しましたが、(1)の布教については強制的な改宗を否定し、各地への布教活動を継続することを強調。(3)については「ポルトガル人が日本人を買うのは、日本人が人を売るからだ。我々は人身売買と領民の奴隷への転落を防いでおり、そのおかげで被害は九州だけで収まっている。そちらの各大名による厳重な監視と禁止体制が必要では」と、日本側にも原因があると示唆しつつ他人事のような回答をしました。これに対し、秀吉は怒りを覚えたのか、再度使者を送りだめ押しの質問をしましたが、同じような回答が返ってきました。それを受け、秀吉はバテレン追放令を出したのです。
バテレン追放令の内容とは?
では、実際にバテレン追放令とはどのような内容だったのでしょうか?先にも述べた通り、追放令に関する資料は2種類あります。まずは前日の6月18日に記された『御朱印師職古格』内の覚書について、現代語訳をもとに見ていきたいと思います。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。