島原の乱(2/2)鎖国のきっかけとなったキリシタンたちの反乱

島原の乱

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
島原の乱(1637年〜1638年)
場所
長崎県
関連する城・寺・神社
島原城

島原城

宇土城跡

宇土城跡

関係する人物

島原での動きを受け、数日後には天草・大矢野(熊本県上天草市)で天草四郎を旗印に一揆が発生。大島子の戦いや町山口川の戦い(両方とも熊本県天草市)の戦いに勝利した一揆勢はついに富岡城(熊本県天草郡苓北町)を攻め、落城寸前まで追い詰めます。

一方、幕府が一揆発生を知ったのは11月に入ってからのことでした。徳川家光は一揆を鎮圧するため、討伐上使として板倉重昌を派遣。重昌は九州諸藩による討伐軍を率いて島原・天草に向かいます。こうした動きを察知した天草の一揆勢は富岡城を落とすのを諦め、有明海を渡って原城に入り籠城しました。こうして島原と天草の一揆勢が合流し、四郎を中心に幕府と戦うことになるのです。一揆勢の総数は島原・天草の領民合わせて約3万7000人にまで膨れ上がっていました。一揆勢は城を修復するとともに、藩から奪った武器や食料を運び入れ、半地下式の住居を作って籠城に備えました。

島原の乱②決戦・原城の戦い

原城で籠城している一揆勢のもとに板倉重昌率いる討伐軍が到着したのは12月に入ってからのことでした。重昌は同月中2度にわたり総攻撃を行うも失敗。諸藩の寄せ集めの軍だったこと、九州の大大名達が小禄の重昌になかなか従わなかったことなどが敗因でした。焦った幕府は2人目の討伐軍上使として老中の松平信綱を選出。功を焦った重昌は翌年の1月1日に総攻撃を開始しますが、結果は4000人の死者を出す惨敗に終わり、重昌自身も戦死しました。この知らせを受けた幕府はさらに水野勝成と小笠原忠真を増援として派遣します。

最終的には12万人以上にまで膨れ上がった討伐軍は、原城を包囲します。そして信綱は一揆勢や原城の内部の様子を甲賀忍者などを使って詳細に調査し、兵糧攻めを決意します。さらに一揆勢の士気低下を狙い、オランダに協力を求め、船から城に向かって砲撃させました。プロテスタントとはいえ同じキリスト教徒からの攻撃に一揆勢は動揺したことでしょう。

そして2月末、食料や弾薬が尽きかけ、弱った一揆勢に向かって討伐軍は最後の総攻撃を仕掛けます。当初は2月28日の予定でしたが、鍋島勝茂が抜け駆けをしたことで27日から戦闘が開始。28日には原城が落城し、天草四郎は討ち取られました。幕府軍は四郎の顔を知らなかったため、母に首実検をさせ、母親が泣き崩れたことから四郎の首だと判断したという、今考えれば残酷な話が伝わっています。

原城の戦いは壮絶なものでした。一揆勢は南蛮画家の山田右衛門作1名を除いて皆殺しにあい、城とその周辺は死体が累々と積み重なる事態に。虐殺の結果、約3万人の首が原城などにさらされたそうです。こうして島原半島南部と天草地方のキリシタンは、戦に関わらず隠れていた者を除きほぼ根絶やしにされ、一揆は終了したのでした。ちなみに、この戦いにかの剣豪・宮本武蔵も幕府軍として参加しています。

ところで、なぜ右衛門作は生き残ったのでしょうか。実は、一揆に参加したキリシタンのなかには、親や妻・子を人質に取られたり、周囲に強制されて無理やり参加させられたりした人たちもいました。右衛門作もその一人で、副将でありながら幕府と内通していました。しかし、最後の総攻撃の前に内通が発覚。総攻撃の際に牢から救い出され、命を救われました。

そして鎖国へ

島原の乱後、幕府は原城を徹底的に壊します。再度一揆の拠点となることを恐れたためで、死体と共に城の残骸を埋めました。近年原城の発掘調査が数回にわたり行われていますが、大量の人骨が出土しています。

島原藩領主の松倉勝家と唐津藩主の寺沢堅高は一揆の責任をとらされることになります。勝家は所領没収の上、切腹ではなく、江戸時代としては唯一の斬首刑に処せられました。一方の堅高への処分は天草4万石の没収のみでしたが、出仕は許されず、失意のまま自殺してしまいます。その後、島原藩は譜代大名の高力忠房が治めます。天草は富岡藩として山崎家治が統治し、その後幕府領になりました。なお、島原・天草ともに人口が激変したため、幕府は移民令を出し、周辺諸藩に農民を移住させるよう命じています。

一方、幕府は島原の乱をきっかけに、キリスト教徒は幕府の統治を危うくするものとの認識から、布教を禁止。これまでも段階的に海外諸国との貿易を制限していましたが、1639年(寛永16年)、第五次鎖国令により、これまでキリスト教を布教してきたポルトガルの貿易船の来航を禁止します。ただしキリスト教を広めずとも貿易が可能なオランダと中国との貿易については、長崎で幕府が独占的に実施。諸藩が貿易による利益を得られない体制を構築しました。こうして鎖国は1853年(嘉永6年)のペリー来航まで、約200年間続くことになるのです。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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