島原の乱(1/2)鎖国のきっかけとなったキリシタンたちの反乱
島原の乱
江戸時代初期、キリシタン農民たちによる大規模な反乱が発生します。それが寛永14年(1637年)10月25日から翌寛永15年(1638年)2月28日まで、約半年間にわたって続いた「島原の乱」です。「島原・天草の乱」「島原・天草一揆」とも呼ばれるこの戦は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣以来の大戦であり、江戸時代の一揆としては最大規模でした。乱の総大将である少年・天草四郎の名は有名ですよね。今回は鎖国の原因の1つになったことでも知られる島原の乱について見ていきます。
キリスト教が九州を中心に拡大
島原の乱について見ていく前に、そもそもキリシタン弾圧はなぜ起こったのか、背景を確認しておきましょう。日本にキリスト教が伝来したのは天文18年(1549年)、カトリックのイエズス教会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルによるものでした。イエズス会は織田信長の庇護を受けて布教し、キリスト教は農民から戦国大名まで幅広く信仰されるようになりました。キリスト教徒、つまりキリシタンは爆発的に増加し、「キリシタン大名」と呼ばれる大名も現れます。キリスト教の布教と南蛮貿易がセットだったことが大きな要因で、特に九州の大名たちは貿易のために領民ともども入信するケースもありました。
キリシタン大名として有名なのは、豊後国(大分県)を中心に東九州を治めた大友義鎮(宗麟)や畿内の高山右近などですが、島原の乱の舞台となる肥前国(佐賀県・一部を除いた長崎県)を治めていた有馬晴信も天正8年(1580年)に洗礼を受けています。
ところが豊臣秀吉の時代になるとキリスト教の布教は禁止されることになります。天正15年(1587年)、秀吉は「バテレン追放令」を発出し、キリシタンへの改宗の強制や神道・仏教への宗教弾圧などを禁止しました。さらに大名の改宗には秀吉の許可が必要。宣教師たちの国外退去も命じました。キリスト教が一向一揆のように反乱を起こす存在になることを恐れたからとも、キリシタン大名達がイエズス会に長崎を寄進したことで日本の植民地化の危険性を恐れたからだとも言われています。
とはいえ、キリスト教の布教や信仰は保たれており、国外退去するはずの宣教師たちは貿易商人の立場を盾に国内に居座ることで、バテレン追放令は失敗に終わります。その後、キリスト教の布教は一部の迫害はあったものの黙認されるようになりました。
岡本大八事件でキリスト教が禁教に
江戸幕府を開いた徳川家康もキリスト教については、海外との貿易のメリットを考えたからでしょうか、当初は静観していました。しかし、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて起きた「岡本大八事件」をきっかけにキリスト教弾圧に乗り出します。
岡本大八事件のきっかけはポルトガル領マカオで起こった、日本の朱印船とポルトガル船のもめ事でした。朱印船を派遣していた肥前日野江藩(後の島原藩。現長崎県島原周辺)の藩主・有馬晴信が、もめ事を武力鎮圧したマカオ総司令のアンドレ・ペソアに報復しようと、家康に許可を求めたのです。家康は当時スペインやオランダとの交易が活発化していたこともあり、長崎に来ていたペソアへの報復を許可します。これを知ったペソアは逃げようとしますが、晴信は船を砲撃。ペソアは爆薬庫に火を放ち自決しました。なお、ポルトガルとの交易はこの事件により一時ストップしますが、その後の両国の交渉の結果、再開することになります。
さて、報復の際に晴信の監視役として派遣されたのが、家康の側近・本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八です。晴信は事件の成果をもとに、鍋島領となっていた旧領の回復を期待していました。大八はそこにつけこみ「私が本多正純様に領地が戻るよう仲介しましょうか?でしたら・・・」と賄賂を要求。家康の朱印状を偽造し、晴信から約6000両をだまし取りました。晴信が本多正純に事情を問いただしたことで詐欺は発覚し、大八は罪を問われて火刑に処されます。一方、晴信も大八の密告で長崎奉行の暗殺を企てた疑いをかけられ、切腹。キリシタンだった晴信は自殺ができないため家臣に自らの首を切らせました。
この事件をきっかけに、幕府は慶長17年(1612年)キリスト教の禁止令を発布し、直轄地を対象に教会の破壊と布教の禁止を命令。大名に棄教を迫るとともにキリシタン大名を処罰しました。翌年は全国に禁教令を拡大し、バテレン追放令を出して宣教師の追い出しをはかります。禁教令は岡本大八事件の当事者2人がキリシタンだったことが要因の一つですが、徐々に勢力を拡大するキリシタンが一揆化することを恐れたとも、南蛮貿易で大名がこれ以上力をつけることを避けようとしたとも言われています。家康が貿易と布教をセットにするカトリックを忌避し、プロテスタントで貿易のみを求めるオランダと接近していたことも一因でした。
こうしてキリシタンの弾圧は徐々にエスカレートしていきます。元和2年(1616年)には徳川秀忠が「二港制限令」を出し、キリスト教禁止を再度強調。密告制度や踏み絵、棄教のための各種拷問などが行われ、キリシタンへの迫害はさらに強まりました。
島原・天草での圧政とキリシタン弾圧
岡本大八事件で改易となった有馬晴信に代わり、島原藩の藩主になったのが晴信の嫡男の有馬直純でした。直純はキリシタンでしたが禁教令にしたがって改宗し、領内のキリシタンに棄教を迫り、従わない者たちを弾圧しました。その後、直純が慶長19年(1614年)に日向国延岡藩(宮崎県延岡市周辺)に転封されたことで島原藩はしばらく天領になりますが、松倉重政が元和2年(1616年)に移封されます。重政と寛永8年(1631年)にその後を継いだ息子の松倉勝家は徹底的にキリシタンを弾圧。特に勝家は棄教しないものに対し、残虐な拷問を実施しました。
さらに、江戸城改築の公儀普請役を請け負ったり、独自にルソン島の遠征を計画したり、島原城を新築したりと精力的に活動。そのために領民への課税を強め、厳しい年貢の取り立てをおこないます。寛永11年(1634年)は悪天候で凶作でしたが、待ったなしで税を取り立て、米ばかりか農作物も徴収し、人頭税や住宅税など次々に課税。逆らうものには厳罰を与え、農民たちは苦しめられました。こうした勝家はキリシタンと、キリシタン以外の領民から恨まれていくことになります。
一方、もともとキリシタン大名の小西行長の領地だった天草藩(熊本県天草郡)は、関ヶ原の戦い後に唐津藩(佐賀県)領となり、寺沢氏が治めることに。寛永10年(1633年)に就任した2代目藩主の寺沢堅高はキリシタンを激しく弾圧し、実際の石高の2倍にあたる年貢を領民に課し、住宅税などの税金を設定し、納められないものを拷問しました。こうした圧政とキリシタンへの弾圧が、島原の乱へと繋がっていくのです。
島原の乱の総大将・天草四郎とは
圧政に苦しむ島原の領民たちは、旧有馬氏の家臣を中心に秘かに反乱を企てます。ここで総大将として選ばれたのが、16歳の少年・天草四郎(益田四郎)でした。諸説ありますが四郎は小西行長に仕えた益田甚兵衛を父親に持ち、カリスマ性が高く、学問にも秀でており、旗印としてはぴったりの人物だったようです。ただし、四郎は一揆のシンボル的な存在で、実際は父や浪人などが乱の指揮をとっていたようです。
四郎の生前、天草でキリスト教を布教していた宣教師のママコス(マルコス・フェラロ)がある預言書を残していました。それには「これより25年後に東西の雲が焼け、国中が鳴動し、民家や草木が焼け落ちる。その際に神童があらわれ、人々を救うだろう」という内容で、人々はこの予言の子が四郎だと考え、四郎をあがめるようになりました。
四郎は数々の軌跡を起こします。その一つが、空から舞い降りた鳩が四郎の手のひらで卵を産み、その卵を割ると聖書が出てきたというもの。海の上を歩いたというものまであります。プロパガンダのための創作のようなエピソードが、実は四郎は長崎で奇術を学んでいたという説もあるのだとか。どこまでが真実かはわかりませんが、四郎はこうして神格化されていったのです。ちなみに、実は豊臣秀頼の落胤だったという伝説まで残っています。
島原の乱①島原・天草で一揆が発生
寛永14年(1637年)10月、口ノ津(長崎県南島原市)で年貢を納められなかった妊婦が水牢で拷問死させられ、領民の反感はピークを迎えます。そして10月25日に島原の有馬村の村人が代官を殺害したことを皮切りに、各村で代官を襲う一揆が起こりました。島原の乱の始まりです。一揆はどんどん広がり、ついに島原城(長崎県島原市)を包囲します。島原藩の一揆討伐軍は一揆を抑えきれず、城下町は焼き払われてしまいます。しかし、島原城の守りが強固だったこと、後述する幕府の追討軍が迫っていたことから、一揆勢は城攻めを断念し、廃城となっていた原城(長崎県南島原市)に向かいます。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。