箱館戦争(2/2)戊辰戦争最後の戦い、土方歳三散る

箱館戦争

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事件簿
事件名
箱館戦争(1868年〜1869年)
場所
北海道
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五稜郭

五稜郭

なお、武揚は蝦夷地に上陸する前、新政府に対して嘆願書を提出。新政府軍が徳川家を駿河・遠江70万石に減封したことで旧幕臣を養うことが困難になったため、武揚が旧幕臣を蝦夷地に入植させ、北海道の開拓と対ロシアの国防を担いたいという内容が書かれていました。武揚は12月1日にも新政府に蝦夷地開拓を求める嘆願書を出していますが、新政府はこれを却下しています。

そして12月15日、旧幕府軍は箱館政権を樹立します。いわゆる「蝦夷共和国」の成立です。総裁は榎本武揚。旧幕府軍のなかには元藩主や元幕臣などがおり、上下関係が複雑化していたこと、さまざまな考え方の小さなグループの寄せ集めだったことから、総裁は投票で決定しています。ただし投票者は旧幕府軍の士官以上で、箱館の住民は不参加でした。投票の結果、副総裁には元陸軍奉行並の松平太郎が就任。海軍奉行には荒井郁之助、陸軍奉行には大鳥圭介が選ばれています。ちなみに土方歳三は陸軍奉行並に就きました。

なお、蝦夷共和国については、旧幕府軍が名乗っていたわけではなく、英国やフランス、アメリカ人などの外国人が「共和国」という表現を用いていたことから、後に俗称として広がったもの。箱館は日米和親条約により開港後、国際貿易港として発展しており、箱館には各国の在留公館があり、外国人が駐在していました。

戊辰戦争中、英国やフランス、オランダなどの国は「局外中立」、つまり内戦中のどちらにも加担しないという立場を取っていました。これを維持するため、武揚はオランダ留学経験を活かしながら外交政策を展開。成果として、英仏2国から、中立と「事実上の政権として認める」という覚書を得ています。

箱館戦争②宮古湾海戦

一方、旧幕府軍の箱館占領を受けた新政府軍は、青森に兵を送って蝦夷地攻めの準備を進めます。トップは鳥羽・伏見の戦いをはじめこれまでの戦いで活躍してきた山田顕義。冬は雪がひどいため、青森で雪解けを待って北海道を攻めることを決定しました。そして3月9日、新政府軍艦隊の軍艦と運送船は品川沖を出発し、青森に向かいます。

これを知った旧幕府軍は、新政府軍の艦隊を奪おうと考え、3隻の軍艦で新政府軍の艦隊が入る宮古湾(岩手県中部)に向かいます。ところが暴風雨に遭遇し、1隻は行方不明、1隻は蒸気機関のトラブルが発生。残る1隻で奇襲をかけますが、新政府軍の反撃であえなく敗退しました。

そして新政府艦隊は青森に到着し、北海道に向かう準備を進めます。4月6日には山田顕義率いる新政府軍1500名が青森を出発。4月9日に乙部(北海道爾志郡乙部町)に上陸します。いよいよ箱館戦争の本戦ともいうべき、北海道での戦の始まりです。

箱館戦争③箱館上陸戦

新政府軍の上陸を知った旧幕府軍は上陸を阻止すべく兵を派遣しますが、上陸兵や新政府海軍からの攻撃により敗走。江差にいた旧幕府軍も新政府海軍の砲撃を受け、反撃するも敵艦に砲弾は届きません。武器のスペックの差は明らかでした。旧幕府軍は石崎村(北海道桧山郡上ノ国町)に退却します。

新政府軍は江差を奪取後、陸軍参謀・黒田清隆らの援軍の上陸を受け、軍を松前(海岸沿いに南下する)、木古内(少し南下して山を越えて西へ)、二股口(そのまま西に進む)の3つに分けて進軍させます。4月10日から25日にかけて、各地でそれぞれ激戦が繰り広げられますが、新政府軍の援軍や海からの艦隊による砲撃の被害を受けて旧幕府軍は後退します。4月17日には旧幕府軍が松前城を放棄して知内まで敗走。4月20日には木古内の旧幕府軍が新政府軍の総攻撃を受けて木古内から撤退しました。その後旧幕府軍の援軍が木古内を奪還しますが、結局地理的優位性を考えて木古内を放棄します。さらにその後、新政府軍の松前隊と木古内隊は合流し、4月29日に矢不来を攻撃。旧幕府軍は新政府軍の艦砲射撃などもあり、160名の戦死者を出して総崩れになり、箱館への敗走を始めます。

二股口には土方歳三が300名の兵と共に布陣しており、新政府軍500と戦いました。4月14日には激戦の末、新政府軍を撃退。土方隊は雨の中小銃をひたすら撃ち続け、16時間で3万5000発もの弾丸を撃ったと伝わっています。その後も新政府軍の度重なる攻撃を退ける土方隊でしたが、矢不来で旧幕府軍が新政府軍に敗れたことを契機に、退路を断たれる危険があったため、箱館に向け撤退します。

箱館戦争④箱館総攻撃で五稜郭が陥落

箱館の五稜郭に退いた旧幕府軍に対し、新政府軍は総攻撃の体制を整えます。旧幕府軍は夜襲などを行いますがいずれも失敗。そして5月11日、新政府軍による陸と海、両方からの箱館総攻撃が始まりました。

陸からの攻撃では、新政府陸軍が五稜郭を3方面から包囲。さらに未明に箱館山の裏手に秘密裏に上陸していた黒田清隆率いる部隊が奇襲をかけて箱館山を占領します。一方の旧幕府軍は箱館湾に面した弁天岬台場を拠点に、南下して箱館山を奪還しようとしますが苦戦。箱館湾からの新政府軍艦隊の援護射撃もあり、弁天岬台場はほぼ壊滅状態になってしまい、旧幕府軍のほとんどは一本木関門まで退却後、五稜郭まで後退しました。

こうして箱館市街地を制圧した新政府軍は一本木関門に攻撃を仕掛けます。一方、旧幕府軍は土方歳三が一隊を率いて弁天岬台場の救援に向かいました。しかし、一本木関門を入り、異国橋を通過するあたりで新政府軍の銃弾に倒れて落馬し命を落とします(諸説あり)。享年34歳でした。その後、副総裁の松平太郎が箱館奪還を試みましたが結局叶わず、五稜郭に引き上げました。

なお、同時期、五稜郭の北東約2kmに設置していた四稜郭にも新政府軍が攻撃を仕掛けており、旧幕府軍は敗走して五稜郭に撤退しています。

海での戦いでは、旧幕府軍の艦船3隻と新政府軍の艦船6隻が争いました。旧幕府軍は艦船「千代田形」を幕府側に拿捕されながらも、「回天」を瀬に乗り上げさせて浮き砲台として活用。さらに「蟠竜」が新政府軍の「朝陽」を撃沈しましたが、その際蟠竜は損傷を受けて使えなくなってしまいます。こうして海戦は新政府軍の勝利で終結しました。

制海権を得た新政府軍は5月12日から五稜郭への砲撃を開始します。五稜郭から艦船への砲撃は届きませんでしたが、艦船からの砲撃はかなり強力で、その砲弾は五稜郭内の奉行所庁舎の太鼓櫓に命中するほどでした。その後、5月15日には兵糧が尽きたことで弁天岬台場が新政府軍に降伏。五稜郭の前哨地である千代ヶ岱陣屋も、箱館奉行並だった中島三郎助が決死の抵抗をするもかなわず討ち死にしてしまいます。

新政府軍はおおよその趨勢が見えた5月12日から、榎本武揚に対し降伏を勧告しています。武揚は徳川家の蝦夷地開拓が認められない限り降伏でいないと拒絶しますが、弁天岬台場の降伏などを受け、5月16日に降伏を決意。このとき敗戦の責任を取るとともに部下の助命嘆願のために切腹しようとしますが、部下に止められています。

そして5月17日、武揚と松平太郎たちは五稜郭近くの亀田の斥候所へ出頭し、新政府軍の黒田清隆らと会見して降伏に同意しました。18日昼には五稜郭が開城。これにより箱館戦争は集結し、2年にわたる戊辰戦争が終了したのでした。

なお、箱館戦争後、榎本武揚は東京で投獄されますが、1872年(明治5年)に特赦により出獄が許されます。開拓使として黒田清隆の下で北海道の開拓に尽力した後、海軍中将を得てロシア特命全権公使として外交に注力。樺太・千島交換条約を締結しました。内閣成立後は逓信、文部、外務、農商務の各大臣を歴任しています。そして1908(明治41)年10月26日、病により死去。享年73歳でした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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