伏見城の戦い(2/2)関ヶ原の戦いの「前哨戦」というべき激戦
伏見城の戦い
三成挙兵の可能性を十分見据えていた鳥居元忠はすでに1800の兵と伏見城に籠城していました。7月12日には島津義弘が伏見城に援軍として入城しようとして、鳥居元忠から断わられています。義弘は4月に徳川家康から伏見城の守備を命じられていたため元忠のところに行きましたが、元忠は義弘が西軍と通じているのではと疑い、家康からの命令書を持参していなかったことを理由に入城を拒否します。実は義弘、4月に家康の命を受けてから国元(薩摩国、現鹿児島県)に兵を送るように要請していましたが、島津家内の争いの影響で兵が集められず、伏見城に行くのが遅れてしまったのです。その後、義弘は西軍の調略をうけ、結局西軍に与することになりました。ただし、この義弘の伏見城行きは一次資料にないため史実ではない、という説が有力です。
7月17日、西軍の総大将である毛利輝元が大坂城に入ります。そして元忠に城を明け渡すよう命じましたが元忠は拒絶。使者を切り殺して徹底抗戦に徹します。西軍は総出で伏見城を攻めることを決意し、こうして伏見城の戦いが始まります。西軍は宇喜多秀家を総大将に小早川秀秋、大谷吉継、吉川広家、長曾我部盛親、毛利輝元など主力メンバーを投入し、総勢4万の軍で城を攻めます。一方の元忠をはじめとした伏見城籠城組はわずか1800(2300とも)の兵力でした。
伏見城の戦い②甲賀者の裏切りで城が陥落
伏見城は徳川家康の前は豊臣秀吉が城主で、秀吉はこの城で没しています。天下人が住んだ城ですから天守閣、二の丸、三の丸に数々の曲輪を持つ巨大な城郭であり、防備もしっかりしていました。4万の大軍を率いた西軍ですが、死に物狂いで戦う鳥居元忠達の力もあり、なかなか城を落とせません。
そこで西軍側で五奉行の一人・長束正家が考えたのが、城内の甲賀衆の調略でした。正家は近江国・水口城(滋賀県甲賀市)の城主で、部下に甲賀衆を抱えていました。伏見城のなかにも元忠に従った甲賀衆がいたため、その妻子を捕縛して内通するよう脅迫したのです。甲賀衆は寝返らざるを得ず、伏見城に火を放ちました。
そして8月1日、13日に渡る攻防戦の結果、元忠は先発隊で雑賀衆鈴木家当主の鈴木重朝との一騎打ちの末に討ち死にします。享年62歳でした。その首は大坂の京橋にさらされますが、伝説によれば元忠と親交のあった京の商人・佐野四郎右衛門が首を盗み出し、百万遍知恩寺(京都市左京区)にひそかに葬りました。その後、慶長10年(1605年)、元忠を弔うための塔頭・龍見院が設立されており、現在も龍見院内に墓があります。
こうして伏見城は落城。伏見城勢は最後まで抵抗を続け、松平家忠など800人が討ち死または自刃したと伝わっています。その遺骸は関ヶ原の戦いが終わるまで、約2ヶ月間にわたって放置されました。
伏見城の戦いは西軍の勝利で終了しましたが、西軍は13日間も足止めを食らうことになり、進軍速度が落ちました。その後、西軍は美濃(岐阜県)に進出して岐阜城近くの大垣城を本拠地に据え、東軍に備えます。一方、徳川家康は三成の挙兵を知ると上杉征伐をストップ。下野国(栃木県)の小山城で軍議を行った後、西に引き返して尾張国(愛知県)清州城を拠点に据えました。そして9月15日、関ヶ原で両軍が激突。小早川秀秋をはじめとした西軍武将の裏切りにより、わずか6時間で天下分け目の戦いは東軍の勝利で終結したのでした。
関ヶ原の戦い後の鳥居元忠の評価
関ヶ原の戦い後、鳥居元忠は「三河武士の鑑」と評価されることになります。徳川家康も元忠の忠義に応じようと、嫡男の鳥居忠政に磐城平(福島県いわき資市)藩10万石を与えました。忠政は後に出羽国山形藩(山形県)22万石(24万石とも)に加増されています。
また、家康は伏見城にあった血染めの畳を江戸城の伏見櫓の階上に設置し、伏見城で戦った精鋭たちをねぎらいました。この畳は明治維新で江戸城が明け渡された後、栃木県下都賀郡壬生町にある精忠神社に埋納されており、上には畳塚が立っています。
神社によれば、元忠の子孫である、下野国(栃木県)壬生藩を治める鳥居忠英が元忠を祀ったことが神社の始まり。忠英は父の忠則が部下の不祥事に巻き込まれて自殺した後、家督相続を認められず一度所領を没収されてしまいました。しかし、元忠の功績により能登1万石として復活。正徳2年(1712年)に壬生3万石に封じられたのです。元忠への感謝は並々ならぬものだったでしょう。
このほか、元忠にまつわるものとして知られるのが、彼がまとっていた具足です。元忠と一騎打ちした鈴木重朝が所有していたと伝えられるもので、関ヶ原の戦い後、徳川家に仕えるようになった重朝は忠政に鎧の返還を申し出ましたが、忠政は深く感銘して重朝に鎧を譲りました。そして2004年、鈴木家の子孫が大阪城天守閣に鎧を寄贈しており、その鎧は今も私たちが見ることができます。
伏見城の遺構「血天井」
伏見城関連の遺物として有名なのが「血天井」です。戦の際に燃えた伏見城でしたが、焼け残った廊下は供養のために京の複数の寺院に納められています。有名なのが京都の三十三間堂近くにある養源院の「血天井」。血で染まった廊下を踏まないよう天井に上げて弔っているものです。
実は養源院は文禄3年(1594年)に淀殿が父である浅井長政の追善のために創建しましたが、元和5年(1619年)に火災で焼失。妹のお江が再建を試みますが、徳川幕府に「豊臣家のたてた寺院を再建するとは」と反対されます。このため、お江は伏見城の戦いで自害した徳川家の武将を供養するという理由で伏見城の遺構の移築を提案。これが認められ、2年後に養源院の再建が叶いました。この血天井には人の形が残されており、元忠が「自害」した跡だといわれています。
血天井は京都の他の寺院にも納められており、例えば京都北区の禅寺・源光庵の血天井には血で染まった足跡がはっきり残っています。伏見城の激戦は当時の人々にとって印象深いものであり、あちこちの寺院で供養がなされるほど有名なものだったということでしょう。
伏見城の戦いの記事を読みなおす
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。