大久保長安事件(1/2)江戸初期の横領事件?それとも政変?「大久保長安事件」とは

大久保長安事件

大久保長安事件

記事カテゴリ
事件簿
事件名
大久保長安事件(1613年)
場所
山梨県
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いつの時代も政治の派閥争いはつきもの。とはいえ、現在は負けても命を落とすことはありませんよね。しかし、江戸時代は政権争いに負けた結果一族が滅ぼされてしまった例もあります。その一つが慶長18年(1613年)に起きた、大久保長安事件です。金銀山開発を担当していた大久保長安(おおくぼながやす)の死後、彼に不正蓄財や幕府転覆疑惑がかけられ一族は死罪、長安を庇護していた幕閣の大物も改易の憂き目にあいました。いったいどんな事件だったのか、今回は大久保長安事件を解説していきます。

大久保長安ってどんな人?

事件を紐解く前に、そもそも大久保長安がどんな人物だったのかを見てみましょう。長安は天文14年(1545年)、武田信玄に仕えていた猿楽師の大蔵信安の次男として生まれました。長安は武田家の家老で「武田二十四将」として名高い土屋昌続に仕え、このとき姓を大蔵から土屋に改めています。

土屋長安は武田領内の内政や農政、黒山金山などの鉱山開発などを担当。信玄が亡くなった後は武田勝頼に仕えました。天正10年(1582年)に織田信長と徳川家康による甲州征伐で武田家が滅亡した後は、徳川家に仕えることになります。

なぜ武田家の家臣が敵対する徳川家に仕えることに?と思いますが、甲州征伐の際に家康の仮館を建設した手腕が素晴らしかったことから家康が仕官を許したという説と、一時期武田家に仕えていた徳川家家臣の成瀬正一経由で自分の能力を徳川家に売り込んだという説があります。家康は武田家滅亡後、旧家臣たちを自分の勢力に引き入れていますから、その一環だったのかもしれません。

長安は徳川家の重臣、大久保忠隣の与力となり、この際に姓を「大久保」に改めました。その後、忠隣の庇護を受けて内政に関わり、次々に出世していくことになります。

徳川家の家臣として八王子を開発

天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が討たれたのち、甲斐は家康の所領になりました。当時の甲斐は武田家滅亡後の混乱で荒れ果てており、家康は本多正信と伊奈忠次に再建を命じます。ただし、実際に再建を手掛けたのは長安だったといわれています。

内政は長安の得意分野。釜無川や笛吹川の堤防を復旧させ、新田開発や金山の採掘などに尽力し、わずか数年で甲斐の内政を再建しました。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を下して天下を統一した小田原征伐の後、家康は関東に封じられました。関東250万国のうち100万国は家康の直轄領となりましたが、長安は青山忠成や伊奈忠次、長谷川長綱、彦坂元正とともに奉行(代官頭)に任命され、直轄領を支配することに。長安は関東に入った後の土地台帳を作成しましたが、後に家康が関東で家臣団に所領を分配する時にとても役立ったそうです。

長安自身は天正19年(1591年)、家康から武蔵国八王子に8000石(実際は9000石とも)の領地を与えられ、八王子宿(東京都八王子市)に陣屋を構え、八王子十八代官を置いて宿場の建設を進めました。また、多摩をはじめとした周辺地域の検地や、高尾山や景信山を水源に氾濫を繰り返していた浅川を鎮めるため、「岩見土手」と呼ばれる土手を築き、竹を植えました。

岩見土手は土手の各所にあらかじめ切れ目を入れ、浸水しそうな場所を遊水地として確保することで、堤防の大きな決壊を防ぐよう工夫がされていました。長安が以前仕えた信玄が考案したとされる「霞堤」と同じシステムです。こうして長安は武田家に仕えた経験を十分に活かし、活躍していきます。

また、家康に武蔵国の治安維持と国境警備のため、旧武田家臣たちを中心とした「八王子五百人同心」の創設を進言しました。慶長4年(1599年)には家康から同心を倍に増やすことを認められ、かの有名な「八王子千人同心」が誕生しました。

ちなみに八王子千人同心ですが、家康の死後は日光東照宮の警護などを務め、徐々に百姓化が進んでいきます。しかし、幕末には幕臣として復活。実は新選組とのかかわりが深く、局長の近藤勇が学んだ天然理心流は八王子千人同心が学んだ剣術。六番隊組長の井上源三郎の親は八王子千人同心の世話役を務めていました。

幕府の「金庫番」-金銀山を開発・発展

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いののち、豊臣家の支配下にあった佐渡金山や生野銀山などはすべて徳川家のものになりました。すると、家康は長安を大和代官に据えた後、石見銀山検分役、佐渡金山接収役に任命。武田家で銀山を管理していた手腕が認められ、長安は幕府の財源確保にまい進することになります。いわゆる「経理屋」「金庫番」として徳川家での活躍を期待されたわけですね。翌年には甲斐奉行、石見奉行、美濃代官も兼任することになります。

慶長8年(1603年)、家康が将軍になったとき、長安も従五位下石見守に叙任され、家康の六男である松平忠輝の附家老につくことに。ちなみにこの松平忠輝、今後も出てくるのでしっかり覚えておいてください。

同年、金銀山のある佐渡奉行や所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ、さらに年寄(後の老中)にもなりました。慶長11年(1606年)には金山開発が進む伊豆奉行に就任しています。ことごとく金銀山に絡む役職を兼任することになりました。武田家の旧臣出身といういわゆる「外様」なのに急激な出世ですが、それだけ家康に評価されていたということでしょう。

この結果、長安は家康から、金銀山の統括、関東における交通網の整備、旅人の指標となる一里塚の設置などを任されるようになりました。金銀山の統括では、佐渡金山の産出量を一気に増やしたほか、伊豆の鉱山を開発。西洋から学んだ新たな採掘法や精錬技術を取り入れることで、さまざまな鉱山の生産量を格段にアップさせました。長安が関わった鉱山は金銀がざくざく湧いて出る、と言われたほどです。

交通網の整備では、慶長6年(1601年)に東海道・東山道・北陸道に一里塚を作り、宿場町の整備などを実施しています。ちなみに、現在知られる1里=36町、1町=60間、1間=6尺という間尺を整えたのは長安です。

「天下の総代官」として派閥争いに参戦

さらに、長安は積極的な外交戦略でつぎつぎと人脈を広げていきます。息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ縁戚関係となったほか、松平忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚をまとめたことで、政宗と親交を持つようになりました。その権勢・諸大名につながる人脈の広さから、「天下の総代官」と呼ばれるようにもなります。長安にとってはまさにこの世の春が訪れた、と言えるでしょう。

ちなみに、長安は贅沢と女性が大好き。鉱山の視察に多くの女性を同行させる、視察先の城館を自分の好きなように勝手に改装する、などいろいろとやらかした逸話が残っています。死後は自分の遺体を黄金の棺に入れて甲斐で華麗な葬儀をおこなうとの遺言を残したそう。家康としては内心苦々しい思いだったかもしれませんが、有能な人物だったので大目に見ていた部分もあったようです。

幕府内では、長安は大久保忠隣とともに「武断派」として、本田正信・正純親子を中心とした「文治派」と権力闘争を繰り広げていました。そんななか、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)に岡本大八事件(おかもとだいはちじけん)が発生します。

これは、キリシタン大名の有馬晴信が、ポルトガル船を長崎で撃沈した褒賞として領地回復を望んでいることに本多正純の家臣だった岡本大八が付け込み、晴信から多額の金品をだまし取った(賄賂を受け取った)事件です。受け取った金品の一部が本田正純の手に渡ったという疑いから、武断派は文治派を攻撃します。岡本大八事件の裁断は長安が担当しており、対文治派の思惑もあってか大八は処刑、晴信は最終的には死罪となりました。本田親子はなんとか連座は免れましたが、文治派は大ダメージを受け、武断派が権勢を誇ることになりました。

権勢を誇った長安でしたが、晩年は金銀山の採掘量の減少などから家康の寵愛が薄れたことで、代官職を次々と罷免されていくことになります。そして慶長18年(1613年)4月25日、中風のために駿府で死去。享年69歳でした。

死後に横領や幕府転覆疑惑

幕府に重用され、出世し、最後は不遇だったもののおおむね満足のいく人生だったのでは?と思われる長安。本人はそれなりに幸せだったかもしれませんが、死後に発覚した不正蓄財などで関係者は酷い目にあってしまいます。それが今回の本題である大久保長安事件です。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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