信貴山城の戦い(2/2)梟雄・松永久秀の最期
信貴山城の戦い
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久秀の2度目の裏切りにもかかわらず信長が下手に出ているという異例の事態が起きていますが、当時は第3次信長包囲網の真っ最中。石山本願寺、上杉謙信、毛利輝元、武田勝頼などが包囲網に参加し信長を苦しめていました。信長が石山本願寺と戦い続けるなか、北では上杉謙信が能登国(石川県)を平定しようと信長方の七尾城を攻めています。信長は七尾城を救援するため、柴田勝家を大将に豊臣秀吉、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、佐々成政などを北陸に派遣していました。そんな敵が一斉に攻めてきている状態の中で久秀が裏切ったわけですから、信長としてはさらに面倒なことにならないよう、謀反を何とか防ぎたかったのかもしれません。
また、この時信長は今回の裏切りを許す代わりに名物の茶釜「古天明平蜘蛛(こてんみょうひらぐも)」を差し出すように久秀に迫ったという話もあります。古天明平蜘蛛は信長が執心した名物で、幾度か久秀に譲ってほしいと願っていたものです。ところがこれらを久秀は無視し、交渉は決裂。信長は人質を処刑するとともに久秀を討ち取ることを決意します。信貴山城の戦いの始まりです。
信長は松永久秀を攻めるための先発隊として筒井順慶や明智光秀、細川藤孝を派遣します。10月1日には先発隊が信貴山城の支城となっていた片岡城(奈良県北葛城郡上牧町)を約5000の兵で攻めました。これに対して松永軍は海老名友清、森正友らが1000の兵で城を守っていましたが、あえなく落城。戦いは激戦だったようで、松永軍は友清・正友を含む150名が討ち死しています。
松永久秀はなぜ信長を裏切ったのか
なぜ松永久秀はこのタイミングで織田信長を裏切ったのか。その理由の1つが、久秀が治めていた大和国にあります。久秀の支配を離れた後、大和守護は塙直政を経て筒井順慶が就任しました。順慶は久秀にとって大和国の支配権を長らく争っていた宿敵です。しかも、久秀の自信作である名城・多聞山城は順慶により破却させられてしまう始末。多聞山城といえば4層の櫓を持った豪華絢爛な城として有名で、信長が安土城を築城する際に参考にしたともいわれています。そんな城を宿敵に壊されてしまい、久秀はさぞ悔しかったことでしょう。
タイミング的には石山本願寺と上杉謙信が信長と戦っている真っ最中。柴田勝家ら織田軍の主力部隊は謙信を抑えるために北陸に出陣中。さらに毛利輝元が本願寺をサポートしており、7月の第一次木津川口の戦いでは毛利水軍が織田水軍を破り、織田軍の包囲網のなかにあった本願寺に兵糧や物資を運び込むことに成功したばかりでした。信長を裏切るなら今!といったところだったのでしょうか。
ところが、謙信は北条氏政の関東出陣などの影響からか10月には進軍をストップ。これを見た信長は北陸軍から織田信忠、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹波長秀などを呼び戻して信貴山城攻めに加えます。これにより織田軍は4万にまで膨れ上がりました。
裏切り者に負けた信貴山城の戦い
そして10月5日、いよいよ信貴山城での戦いの始まりです。織田軍は4万の兵で信貴山城を攻めますが、松永久秀率いる8000の兵たちの必死の抵抗により攻め切れません。しかし、久秀が窮地にあることは変わりませんでした。そこで久秀は石山本願寺の顕如に援軍を要請しようと森好久を石山本願寺に派遣しました。
10月8日、好久は鉄砲隊200を引き連れて城に無事に帰還。さらに援軍が来るとの報を聞き、久秀はこれで勝機が見えたと大喜びしましたが、実は好久、もとは織田方の筒井順慶の家臣でした。彼は信貴山城を出発した後、本願寺に行かずに順慶の家臣である松倉重信のもとに行き、信貴山城の情報をリークしていたのです。そう、好久は裏切り者だったのです!城に連れて戻った鉄砲隊は重信の兵士、つまり敵兵でした。
10月9日夜から織田軍と松永軍は再び戦闘は開始します。筒井順慶は先頭に立って松永軍を攻めたてました。織田軍は一時撃退されかけて撤退した場面もありましたが、好久が寝返り鉄砲を活用して城内に火を放ったことで松永軍は大混乱に陥ります。そのすきを逃さず攻める織田軍。結局松永軍は総崩れになり、久秀は10月10日に久通と自害します。享年68歳でした。なお、偶然にもその日は東大寺大仏殿の戦いで大仏殿に火がかけられた日だったことなどから、当時の人々は神罰(神仏習合のため)だと噂したと『信長公記』に記されています。
「平蜘蛛ごと爆死」は嘘だった!?
松永久秀の死についてよく知られている通説というのが、名物・古天明平蜘蛛とともに爆死した、というもの。久秀は「日本史上初の爆死した大名」として有名になっていますが、実はこれは後世の創作です。当時の人々の日記によれば、実際は切腹・または自身の放火により焼死したようで、安土城にはその焼け焦げた首が送られています。平蜘蛛については『信長公記』によれば死ぬ際に打ち砕いたようです。
爆死はどうやら江戸初期の『川角太閤記』に、「久秀の首は平蜘蛛と同じように、鉄砲の火薬でみじんに砕けた」とある逸話が徐々に拡大解釈されていったようです。研究者によると爆死説は第2次世界大戦後発生した比較的新しい説とのこと。先に述べた三つの悪事や爆死説から三大梟雄の1人として腹黒い極悪人のような存在で描かれることが多い久秀ですが、近年の研究では評価が見直されてきています。「新しい」久秀が物語や小説で普通に描かれるようになるのも遠い話ではないのかもしれませんね。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。