大坂夏の陣(2/2)豊臣宗家、ついに滅亡

大坂夏の陣

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事件簿
事件名
大坂夏の陣(1615年)
場所
大阪府
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大阪城

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郡山城

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まずは豊臣軍・長宗我部盛親隊が徳川軍・藤堂高虎隊と対峙します(八尾の戦い)。萱振村(大坂府八尾市)にいた盛親隊の先鋒を高虎隊が攻撃したことを知った盛親は、長瀬川で高虎隊を待ち伏せしようと策を練ります。全兵士を馬から下ろし、川の堤防の上に槍を持たせた状態で伏せさせ、高虎隊が接近するやいなや一斉に立って槍で攻撃しました。この攻撃に高虎隊は混乱し、藤堂高刑を始めとした武将たちが死亡しました。戦いは盛親隊が優勢でしたが、後述する若江の戦いで豊臣軍が敗走したため、孤立を恐れた盛親は大坂城に退却します。

一方若江(大坂府東大坂市)に布陣したのは豊臣軍の木村重成。高虎隊の攻撃を受けましたが勝利します。豊臣軍の有利かと思いきや、徳川軍の井伊直孝率いる軍勢が重成隊を攻撃。重成隊は壊滅状態になり、重成自身も戦死してしまいました(若江の戦い)。

大坂夏の陣③天王寺・岡山の戦い

そして5月7日、大坂夏の陣のハイライトともいえる「天王寺・岡山の戦い」が起こります。事実上の最終決戦です。

豊臣軍は徳川軍を迎え撃つべく、大坂城の南側(大坂府大坂市阿倍野区から平野区)に軍勢を集結させました。そこに攻め込んだのが徳川軍で、天王寺口と岡山口から大坂城に向かって攻め寄ります。ここで各軍の布陣を確認しておきましょう。

豊臣軍
真田幸村ら真田一族(茶臼山・3500)
毛利勝永(天王寺口・6500)
大野治房(岡山口・4600)
大野治長(後詰め・詳細不明(1万5000とも))
明石全登(別動隊・300)
このほか、茶臼山周辺などに兵を配し、合計約5万の兵で徳川軍を迎えました。
徳川軍
浅野長晟(茶臼山・5000)
松平忠直(茶臼山・1万5000)
本田忠朝(天王寺口先鋒・5500)
榊原康勝(天王寺2番手・5,400)
酒井家次(天王寺3番手・5300)
前田利常(岡山口先鋒・2万)
井伊直孝・藤堂高虎・細川忠興(岡山口2番手・7500以上)
このほか、茶臼山には大和路勢3,500を配しています。

徳川家康は1万5000の兵と共に天王寺口の後方に、秀忠は2万3000の兵と共に岡山口の後方にそれぞれ本陣を置き、ツートップで攻めます。このほか、本陣の後詰めなどを含めると合計15万の兵を動員しており、豊臣軍とは大きな兵力差がありました。

大坂夏の陣④家康危機一髪!?真田幸村の突撃

こうした状況で真田幸村が主張したのが、総大将である豊臣秀頼自身が出陣し、総力戦で徳川家康を討ちに行くこと。しかし、淀殿の反対により秀頼は出陣しませんでした。また、当初は茶臼山に徳川軍を引き寄せ、別動隊の明石全登を迂回させて家康のいる本陣に突入させて家康を討ち取る作戦でしたが、毛利勝永隊が先走って天王寺口の本田忠朝隊に銃撃をあびせてしまい、なし崩しに戦がスタート。作戦を行うことができなくなってしまいます。

とはいえ、毛利隊の活躍により徳川軍は大混乱に陥り、天王寺口の後方にいた家康の本陣が無防備になります。すかさず真田幸村は「味方が豊臣軍に寝返った」という嘘を徳川軍に伝えてさらに混乱させながら家康本陣に突撃。3回にわたり攻めました。家康の本陣は大坂冬の陣で苦しめられた幸村の突撃にパニックです。家康の馬印が倒れるほどの勢いで、家康自身も必死で逃げるとともに切腹を覚悟し家臣に諫められ、何とか脱出したとの話も残っています。

ちなみに、家康は脱出に失敗して死んでいた、という伝説もあります。こちらは大坂府堺市の南宗寺に家康の墓があることに基づいたもの。後藤又兵衛の槍に倒れたと伝わっており、歴史のロマンを感じさせるお話です。

このまま豊臣軍優勢のまま進むかと思いきや、幸村が大野治長と相談し、治長が大坂城に戻って豊臣秀頼の出馬を促そうとしたことで風向きが変わります。治長が秀頼の馬標を掲げたまま帰ろうとしたため、周囲の兵士が「治長は敗北により撤退したのか!」と勘違いし、戦意を消失。徳川軍に寝返ろうとするものまで現れ、軍が崩れてしまったのです。このタイミングで秀頼が出陣すれば誤解が解けたかもしれませんが、結局出陣することはありませんでした。

このすきを逃さず徳川軍は反撃に出ます。結局数的に優位な徳川軍に豊臣軍は徐々に追い詰められることに。主だった武将が次々と討ち取られ、ほぼ壊滅状態に陥りました。戦が始まってから約3時間のことでした。大活躍した真田隊も死傷者が増えたことで軍が崩れ撤退。幸村は安居天神の近くで休息中に徳川軍に討ち取られてしまいます。

一方の岡崎口では、徳川秀忠が豊臣軍を倒そうと進撃。後見についていた立花宗茂に突出は危険と言われつつも突っ走ります。背景には大坂冬の陣への遅参を家康に怒られたことがあったのでしょうか。その結果、対峙する豊臣軍・大野治戻隊によって先陣が崩れ、治戻隊が秀忠のいる本陣に殺到したため現場は大混乱に陥ります。秀忠自身が戦おうとするも部下に諫められる場面もあったようで、手柄を立てて名誉挽回をはかろうとする姿が見えますね。結局徳川軍は兵力差で豊臣軍を押し返すことに成功し、大野治戻は大坂城内に撤退しました。

燃え盛る大坂城、豊臣家滅亡

天王寺・岡山の戦いで敗れた豊臣軍の残軍は大坂城本丸に退却しましたが、大坂冬の陣の際に堀を埋められたことで丸裸になってしまった大坂城にはまともな防衛力などありません。あっという間に徳川軍がなだれ込みます。そんななか、台所頭にいた大角与左衛門が徳川軍に寝返り、部下に命じて台所に火を放ちます。これにより大坂城は炎上します。その炎は京都からも見ることができたそうです。

こうした状況下で、大野治長は最後の交渉をします。家臣を使者として使わし、徳川家康の孫で豊臣秀頼の妻・千姫の脱出と、自分を含む豊臣家家臣の切腹を引き換えに淀殿を助命するよう願ったのです。これにより、千姫は大坂城から脱出することができました。しかし淀殿の助命は受け入れられず、翌日の5月8日には秀頼らが立てこもる焼け残りの蔵を徳川軍が包囲。秀頼と淀殿は自害しました。

こうして豊臣宗家は滅亡しました。ただし、秀頼が側室との間に残した娘の奈阿姫(なあひめ)は千姫の助命嘆願の末に生き残り、縁切寺として有名な鎌倉の東慶寺で出家したのち、第20代の住職に就任しています。また、息子の国松については大坂城を脱出しましたが、後に徳川軍に捕らえられ六条河原で斬首されました。

その後家康は大坂城の残党狩りと、豊臣家に内通していた疑いのある大名の改易などを実施。大坂城は埋め立てられた後、幕府により新しい大坂城が建てられました。そして家康は大坂夏の陣からおよそ1年後の元和2年(1616年)4月17日に死亡。享年75歳(数え年)でした。

こうして江戸時代における合戦は終了しました。1637年(寛永14年)に島原の乱が起こっていますが、武将たち同士の戦いはこれで終わりを迎えたのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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