大坂夏の陣(1/2)豊臣宗家、ついに滅亡

大坂夏の陣

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
大坂夏の陣(1615年)
場所
大阪府
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大阪城

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郡山城

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徳川家康が豊臣家を滅ぼした合戦が、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の2度の戦いからなる「大坂の陣」です。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では豊臣家・徳川家双方が打撃を受けるなか和平を結びましたが、両家の対立は変わらないままでした。そして慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起こります。真田幸村の猛攻に家康は切腹の危機に陥りますがなんとか挽回し、大坂城を陥落させました。今回はそんな大坂夏の陣について解説していきます。(冬の陣は別記事をご参照ください)

大坂冬の陣について振り返る

大坂夏の陣について解説する前に、そもそも大坂の陣がなぜ起こったのか、前半の大坂冬の陣はどのような結果だったかを確認しておきましょう。大坂の陣の原因は徳川家と豊臣家の対立にありました。徳川家康は慶長8年(1603年)に征夷大将軍の位につき、江戸幕府を開いたのち、慶長10年(1605年)に征夷大将軍を嫡男の徳川秀忠に譲ります。将軍職を徳川家の世襲制にしたわけです。

これに反発したのが徳川家の主君筋にあたる豊臣家。そもそも豊臣家は豊臣秀吉亡き後、後を継いだ幼き豊臣秀頼を支えるために家康がいる、という認識。「秀頼が成長した今、家康の後を継ぐのは秀頼」と考えていました。豊臣家の中心的存在だった秀頼の母・淀殿は家康に激怒し、両家は対立していきます。

こうしたなか、豊臣家が再建した、京都市の方広寺の梵鐘に彫られた「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽 子孫殷昌(くんしんほうらく しそんいんしょう)」という銘文について、徳川家が「家康の字を分断するとともに、豊臣家が君主として栄えるという意味になる。徳川家に対する呪詛なのでは」と批判します。俗にいう「方広寺鐘銘事件」で、これが大坂の陣開戦のきっかけになりました。

こうして慶長19年(1614年)11月19日、大坂冬の陣が始まります。諸大名たちが参加した約20万の徳川軍に対し、豊臣軍は関ヶ原の戦いや改易などで浪人となった旧豊臣家臣など約10万で対抗します。

当初は豊臣軍を順調に撃破していた徳川軍ですが、大坂城に籠城する豊臣軍をなかなか攻め切れません。さらに、大坂城の出城で真田幸村率いる「真田丸」が徳川軍を苦しめます。そんななか、徳川軍は大坂城に向かって昼夜問わず砲撃を繰り返し、精神的に豊臣軍を追い詰めまる作戦を開始。砲撃により淀殿の侍女が死傷する事件が起こったことをきっかけに豊臣軍と徳川軍の和平交渉が始まり、12月18日に和平が成立。大坂冬の陣は終結しました。

和平交渉の結果、大坂城は外堀を埋められ、真田丸は壊され、二の丸と三の丸を撤去されてしまうことになります。大坂城の防備の要である堀や真田丸が無くなってしまうことは、豊臣家にとって大きな痛手でした。和平交渉で堀を守り切れなかったこと、それが大坂夏の陣での敗北につながっていくのです。

そして大阪夏の陣へ

大坂冬の陣が終了すると、徳川家康は駿府(現静岡県)に帰還します。大坂城に残った豊臣家は浪人たちに堀や塀の復旧をひそかに命じます。大坂城が丸裸になってしまったわけですから、なんとか守りを固めようとしたのです。ちなみに、大坂冬の陣の和平交渉の結果、豊臣家が雇った浪人たちは罪に問われないことになり、浪人たちは大坂城にとどまっていました。

この浪人が大坂城下の町で民に乱暴を働く事件が発生。さらに豊臣家に米や材木を備蓄する動きがあったことなどから、家康は3月、豊臣家に対して浪人を解雇するか、豊臣家の移封(大坂城退去)のいずれかを求めました。豊臣家からの答えは否。このため、家康は4月6日、大名たちに豊臣家を攻めるよう命じます。

一方の豊臣家は、和平を求める豊臣秀頼や大野治長と、徳川家と戦いたい大野治房(治長の弟)とで内輪もめをしていました。そうしたなかでの家康の要求は受け入れがたいものでいた。戦いは避けられないと考えた豊臣家は武器を用意し堀を掘り返すなどして戦に備えます。ちなみに、この段階で豊臣家を捨てて大坂城を去る人もいたため、軍勢は7万8000人規模まで減っています。

大坂夏の陣①孤軍奮闘・後藤又兵衛

そして4月26日、大坂夏の陣が始まります。豊臣方は大坂城が丸裸にされてしまっていることもあり、大坂冬の陣のような籠城戦ではなく、野戦にて決着をつけることを決意。河内(大坂府東部)、大和(奈良県)、紀伊(和歌山県)方面から大坂城に迫る徳川軍に先制攻撃を仕掛けます。

4月26日、大野治房が徳川方の筒井定慶が治める大和国の郡山城(奈良県大和郡山市)を攻撃し、2000の兵で城を落としました。さらに28日には徳川家の物資調達に協力していた堺を焼き討ち。続いて紀伊国(和歌山県)の浅野長晟を攻めようとしましたが、失敗して大坂城に引き返しました(樫井の戦い)。

5月6日には、大和方面から来る伊達政宗率いる徳川軍3500を豊臣軍が迎撃する「道明寺の戦い」が起こります。先発として豊臣軍から後藤又兵衛が出陣しており、毛利勝永・真田幸村らと国分(大坂府柏原市)で合流して徳川軍を攻める予定でしたが、豊臣軍は寄せ集めの軍隊だったことで連携がうまくいきません。一説には濃霧のせいでうまく合流できなかったのだとか。もともと浪人の集まりの豊臣軍は非常時の情報共有能力や統率力があまり高くなく、こうしたことが大坂冬の陣の敗退につながっていくのです。

先に合流地点についたのは又兵衛隊でしたが、徳川軍はすでに国分に展開していました。このため、又兵衛は近くの小松山に布陣し、援軍を待ちつつも何とか徳川軍を押しとどめようとします。これを徳川軍が攻め、午前4時から正午まで約8時間にわたる激戦の末、又兵衛は討ち死にしました。

その後、集合場所に遅れてきた毛利勝永や真田幸村たちは崩れた軍を立て直して徳川軍の伊達政宗隊と戦います。このとき奮起した幸村らは政宗隊を押し戻すことに成功。やがて戦線は膠着状態になりましたが、このとき豊臣軍に大坂城から八尾・若江の戦いの敗退と退却するようにという命令が伝えられ、豊臣軍は退却。一方の徳川軍は兵の疲労を理由に追撃しませんでした。

このとき撤退する豊臣軍の殿を務めたのは幸村で、徳川軍に対し「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候(関東の軍勢は百万いても、そのなかに男子は一人もいないのか)」と言い放ったそうです。

大坂夏の陣②八尾・若江の戦い

同日に起こったのが、河内から攻めてくる徳川軍本隊と豊臣軍が戦った「八尾・若江の戦い」です。徳川軍は藤堂高虎、井伊直孝、本田忠朝、前田利常、松平忠直らが率いる5万5000の兵と、そのあとに徳川家康・秀忠親子がいる本軍の約12万。対する豊臣軍は木村重成率いる6000の兵と、長宗我部盛親、増田盛次ら率いる5300の兵でした。

大坂夏の陣の記事には続きがあります

関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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