大坂冬の陣(2/2)家康を苦しめた真田丸

大坂冬の陣

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事件簿
事件名
大坂冬の陣(1614年)
場所
大阪府
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その後、大坂城の東北で鴫野の戦いと今福の戦いが発生。博労淵の戦い、野田・福島の戦いと続き、徳川軍が豊臣軍を撃破し次々に砦を奪っていくことになりました。豊臣軍は砦を放棄して大坂城に集合。一方徳川軍は20万の大軍で大坂城を完全に包囲しました。そんな徳川軍の前に立ちふさがったのが、真田幸村です。

徳川軍を退けた真田幸村の「真田丸」

もともと大坂城は守りやすい堅城として知られていました。豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に約15年かけて作り上げた城の築城奉行は「築城名人」こと黒田官兵衛。城は内堀と外堀に囲まれており、5重6階の天守閣は巨大なものでした。さらに北・東・西を川に囲まれているためとても攻めにくい立地です。そんな大坂城の唯一の弱点と言えるのが、地続きの南。真田幸村はここに独立した出城・曲輪の「真田丸」を築いて5000の兵で徳川軍を迎え撃ちました。

この真田丸、冬の陣の後に破壊されてしまうので実際はどういうものだったのか完全に明らかにはなっていません。大坂城の南東にあり、近年の研究によれば定説だった堀に密着した馬出し曲輪ではなく、独立した出城だったようです。背後には200mの深さの谷があり、規模感は最大南北270m、東西280mで東京ドームより少し大きめくらい。本郭に加えて小曲輪があったようです(※研究者により諸説あり)

前には空堀があり、乱杭や逆茂木が進軍の邪魔をします。さらに真田幸村は強力な火縄銃を用意。「狭間筒」という3人がかりで担いで撃つ大型の火縄銃まで用意しています。徳川軍を攻めるための攻撃的な位置づけの出城だったわけです。徳川軍としては真田丸を通過して大坂城を攻めようとすると、横から真田丸の兵に攻められる可能性があります。しかも大きな出城ですから無視しにくいのが現状です。

家康は真田丸を攻めることを決意。前田利家の後を継いだ四男の前田利常ら1万2000が真田丸と対峙しました。この自軍よりはるかに多い敵軍に対して幸村が取った戦略が、真田丸の前にある篠山に前衛を置き、前田勢を挑発しつつ敵を引きつけて一気に叩く作戦でした。

12月4日の夜明け前、篠山から真田軍が銃撃を浴びせたのを受け、前田軍の先発隊は篠山に向かって攻め込みますが、真田軍は撤退した後でした。そのまま真田丸に向かってそのまま進軍すると、真田軍がさらに罵声を浴びせるなどして先発隊を挑発します。その結果、戦わないようにという家康の命令に背き、前田軍の一部は堀に乱入して戦い始めてしまいます。

幸村にとってはまさに作戦通り。十分敵を引きつけたところで真田丸から火縄銃による一斉射撃がスタートされます。さらに大坂城からも銃撃が浴びせられ、現場はパニック状態に。当時の史料によれば、前田軍の本隊が深追いしないようにと使者を10回余りにわたって送るも、前線部隊は戦功を立てようと上級武将が突っ走っており、歯止めがきかない状態だったようです。

しかも、前田軍につられた徳川軍の井伊直孝ら4000と松平忠直ら1万なども、功を焦り攻撃禁止の命令に背いて真田丸近くの八丁目口・谷間地口攻め込みます。実は、たまたま大坂城で火薬庫が爆発する事故が発生しており、徳川軍は、これを味方に引き込んでいた南条元忠のたくらみと誤認していました。実際は元忠は裏切りがばれてすでに処刑されていましたが、そうとは知らない徳川軍は全力で大坂城を攻め、手痛い反撃にあいます。家康による退却の命令で何とか退却しましたが、徳川軍は大損害を受けてしまいました。

これを知った家康は大激怒。各部隊の将を叱責するとともに、大坂城を攻める際は盾となる竹束や鉄盾といった防具を必ず持って攻めるようにと強く命じました。

大坂城への砲撃が情勢を変える

真田丸でぼろ負けした徳川軍でしたが、もともと豊臣軍の買い占めによる兵量不足に悩まされていました。実は真田丸の戦いの前の12月3日から、豊臣軍に対し秘かに和平交渉を試みていますが、うまくいっていませんでした。

真田丸の戦い後は夜間の攻撃で敵の不眠をまねくなどの対策を取り、12月16日から大坂城の一斉砲撃を開始して心理的に豊臣軍を揺さぶります。これに対して火縄銃で対抗する豊臣軍ですが、彼らは兵糧と弾薬不足、連日のように続く砲撃で次第に精神的に追い詰められていきました。しかも、豊臣軍のキーパーソンである淀殿の侍女8名が砲撃により死亡。淀殿は大きな衝撃を受けます。この結果、両者は和平交渉をすすめ、12月18日に和平が成立しました。

和平交渉の結果、大坂城は丸裸に

和平交渉の結果、豊臣家・徳川家双方の申し出により、以下の通りの内容が決定しました。

  • 大坂城の外堀を埋め、総構(城の周囲の囲い)と「二の丸」と「三の丸」を撤去。真田丸も破却する
  • 淀殿の代わりに豊臣家家臣の大野治長と茶人の織田長益を人質に出す
  • 豊臣秀頼の身の安全の保証と本領安堵
  • 豊臣家に味方した浪人たちの罪は問わない

大坂城の防備の要である堀を埋めること、攻撃の要だった真田丸を破却することを豊臣家が承諾してしまったのが、豊臣家にとって後々まで響く大きな失策となりました。二の丸関連の埋め立ては豊臣軍、三の丸と外堀関連の埋め立ては徳川軍が担当することになりましたが、徳川軍は速攻かつ容赦なく作業を進めます。しかも豊臣家はわざとゆっくり工事を進めていたため、徳川軍が二の丸の破壊と埋め立てまで実施。結果、大坂城は丸裸になってしまいました。なお、「徳川軍が勝手に内堀の二の丸や三の丸まで埋め立ててしまった」という説もありますが、現在の学説ではほぼ否定されています。

そして大坂夏の陣へ

大坂城が丸裸になった豊臣家ですが、以前として浪人たちを城内に留めていました。そして家康が駿府に戻った後、埋められた掘を掘り戻し、城壁を修理するなど城を整え始めます。こうした動きや慶長20年(1615年)に浪人たちが町で事件を起こしたことなどから、徳川家康は豊臣秀頼に対し、浪人の解雇と、大和(奈良県)から伊勢(三重県)への国替を求めました。豊臣家はこの要求を拒否。そして再び豊臣家と徳川家は対立し、4月に大坂で再び争いが始まるのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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