本能寺の変(1/2)明智光秀が謀反?謎に包まれた織田信長の死
本能寺の変
戦国史最大の謎として知られるのが、天正10年(1582年)6月2日に起きた「本能寺の変」です。織田信長が京都の本能寺(現京都府京都市中京区)で明智光秀に討たれた、戦国時代で最も驚かれたであろうクーデターはなぜ起きたのか。光秀の背後に黒幕はいたのか。今も多くの歴史家たちが研究を進めており、新しい史料の発見で新説が登場するなど、今も盛んに議論されています。今回は2020年度の大河ドラマ「麒麟がくる」でも話題になった本能寺の変について解説していきます。
天正10年に何が起こっていたのか
本能寺の変について触れる前に、天正10年(1582年)、本能寺の変が発生する前の織田信長と明智光秀の状況を軽くおさらいしておきましょう。ここでは信長の伝記ともいえる太田牛一の『信長公記』を中心に流れを追っていきたいと思います。
信長はこの年の2月から3月にかけて、武田勝頼を攻める甲州征伐を実施。3月の「天目山の戦い」で武田氏は滅びました。こうして東国をほぼ手中に収めた信長でしたが、次のターゲットは羽柴秀吉が攻略を進める毛利家の中国と、長宗我部元親の四国でした。信長は秀吉に中国攻略を引き続き任せつつ、新たに四国征伐のための準備を進めます。なお、信長は当初、四国の長宗我部氏とは友好関係にあり、その橋渡しを光秀が担当していました。このため信長の方針転換は、光秀にとって受け入れがたい事態でした(詳しくは後述します)。
そんな信長のところに5月17日、備中高松城(岡山県岡山市)を攻略中の秀吉から応援を求める書簡が届いたことで、本能寺の変に向けた動きが始まります。信長は秀吉の援軍に光秀を回すことを決意。なぜなら他の主だった有力家臣は遠征中で、援軍に出しやすいのは近江・丹波・山城などの近畿地方に拠点があった光秀だったからです。ちなみに、当初光秀は安土城を訪れていた徳川家康の饗応役に命じられていましたが、この時に解任されています。こうして信長の命により、光秀は急遽、本拠地の近江国坂本城(滋賀県大津市)に戻って備中高松城に向けた出陣の準備に追われることになりました。
さらに、信長は自らの出陣を決意。「信長公記」によれば、中国の毛利氏を討ち果たした後は九州まで一気に攻めて平定する考えだったようです。信長は家康を舞や能などでもてなした後、京都や大阪、奈良、堺などを見物して回るようすすめます。自身は5月29日に秀吉の支援のためにわずかな供廻りを率いて上洛し、四条西洞院にあった本能寺に入りました。そして6月1日、公家や僧侶など40名が信長を訪問してきたので、彼らをもてなし茶会を開きました。
光秀は本能寺の変の前に犯行声明を出していた?
一方の明智光秀は5月26日に坂本城を出発して丹波亀山城(京都府亀岡市)に移り、27日には毛利討伐の成功を祈願するため愛宕山の愛宕権現にお参りします。28日には愛宕山の威徳院で連歌の会を主催した後、丹波亀山城に戻りました。
この連歌の会で詠まれた一連の句が『愛宕百韻』で、光秀が詠んだのが「ときは今 あめが下知る 五月哉」という有名な発句です。そのままの意味は「今は雨が降る五月だ」ですが、ときは土岐氏の一族である光秀自身を指し、雨が下知るは「天が下知る」の言い換えであり、「光秀が今天下を治めるときだ」という宣言では、という説があります。
ところがこの『愛宕百韻』、実は原本が残されておらず、光秀の句も「天が下なる」「雨が下知る」など資料によってバラバラ。そもそも光秀は土岐氏とは無関係という説もあり、そうであるならこの仮説は成り立ちません。しかも信長が見る可能性もある連歌にそのような大胆な意味を込めて、ことを起こす前にばれてしまっては大変です。この発句一つとってもさまざまな論争がなされていますが、個人的には後世の人の後付けなのではという感が否めません。
さて、6月1日、光秀は1万3000の兵とともに丹波亀山城から出陣します。そして亀山近くの柴野で軍勢を整え、付近で軍議を開きました。軍議に参加したのは明智秀満、明智光忠、斎藤利三、藤田行政と言った重臣たち。そこで光秀は信長を討つことを正式に表明。江戸初期に書かれた『当代記』によれば、溝尾茂朝を加えた5名に対して神に約束を守ることを誓う起請文を書かせ、それぞれから人質をとることで裏切りを防止したとのことです。
そして軍勢は洛中に向かいます。老ノ坂を越えて途中休憩を交えながら進み、6月2日未明にはついに桂川に到着。いよいよ本能寺を攻め始めることになりますが、このとき光秀が叫んだとされるセリフが「敵は本能寺にあり!」。後世の創作ですが、格好いいですよね。
6月2日、本能寺の変勃発
明智光秀は6月2日の明け方に本能寺を完全に包囲し、四方から本能寺に乱入します。兵たちは鬨の声をあげながら弓を放ち鉄砲を撃ちました。いよいよ本能寺攻めの開始です。一方の織田信長サイドは、当初は騒がしいのは下々の喧嘩のせいだと思っていたようですが、鉄砲の音を聞いて謀反だと判断。信長が「誰の謀反だ?」と小姓の森蘭丸に尋ねたので、蘭丸は屋外に出て兵士たちの持つ旗指物を確認し、「明智の軍勢のようです」と信長に伝えます。これに対し信長は「是非に及ばず」と呟きました。
信長は当初、弓で明智軍と戦いましたが、弦が切れたために槍を手に戦いを続けます。しかし、当時本能寺には100人弱しかおらず、多勢に無勢の状況。森蘭丸をはじめとした主だった小姓たちは次々討ち死にしていきます。
結局圧倒的な兵力に信長は屈します。ケガをした信長は傍仕えの女性たちを避難させて御殿に入り、自ら火を放って自刃しました。享年49歳。こうして信長はこの世を去ったのでした。なお、信長の遺体は見つかっていません。焼死体が多すぎて判別できなかったようです。
ちなみに『信長公記』の作者・太田牛一はこのとき逃げた女性から信長の様子を聞いて本を書いており、実際に現場にいたわけではありません。信長の「是非に及ばず」のコメントなどは創作だとされています。
その後、光秀は同じく京都にいた信長の跡取り息子・織田信忠を攻めます。信忠は本能寺近くの妙覚寺(京都府京都市中京区)に泊まっていましたが、本能寺に救援に向かおうとするも間に合わず、結局二条御所に500名を率いて籠城します。しかし、明智軍の攻撃に敗れ、御所に火をつけて自害しました。享年26歳。こちらも遺体は発見されませんでした。
以上が大まかな本能寺の変の流れですが、史料によってさまざまな異説があります。2021年の初めに話題になった江戸時代初期の『乙夜之書物』上巻では、本能寺を攻めたのは斎藤利三などが率いる2000の兵で、光秀は鳥羽の本陣に控えていたとされています。計画的に兵を分けて織田家を一網打尽にしようとしていたということでしょうか。本能寺の変を指揮した斎藤利三の三男・利宗の伝聞による記録なので信ぴょう性は高いとされており、今後の史料の解釈によるさらなる論争に期待がかかります。
本能寺の変はなぜ起きた?
本能寺の変はなぜ起こったのでしょうか?原因についてはさまざまな説があり、明智光秀が主犯であるという説から黒幕がいたという説、明智光秀は濡れ衣を着せられただけという説など、歴史家たちがさまざまな説を唱えています。ここででは大きく「光秀単独犯説」と「黒幕説」の2つに分けて解説していきます。
光秀単独犯説
明智光秀が自分の意思で本能寺の変を起こしたという説です。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。