四国攻め(2/2)豊臣秀吉VS長宗我部元親
四国攻め
豊臣軍はまず初めに東条関兵衛が守る木津城の攻略に取りかかりました。8日間の戦いの末、水の手を断たれたことや、豊臣軍にいた関兵衛の叔父・東条紀伊守の説得工作により、関兵衛は豊臣軍に城を明け渡します。その後土佐に逃げのびますが、怒った元親により切腹に追い込まれました。
その後も豊臣軍は勢いに乗り、長宗我部軍は劣勢に立たされてしまいます。豊臣軍の三方向から同時に攻める作戦に翻弄され、少ない戦力を分散して対応しなければならない長宗我部軍は苦戦を強いられます。そのため、牛岐城の香宗我部親泰と渭山城の吉田康俊は城を捨てて土佐に戻ってしまいます。
残された城のうち一宮城は秀長が、岩倉城は秀次が攻略を担当。一宮城は谷忠澄と江村親俊が1万の兵とともに守っていましたが、豊臣軍5万に包囲され、補給路と水の手を断たれたことから7月下旬に開城しています。
岩倉城攻めは秀次に加え、黒田官兵衛も参加しており、城のわきに高楼を作って大砲を打ち込むなどの策で岩倉城の比江山親興を苦しめ、降伏に追い込みました。脇城も秀吉軍の攻撃を頑張って耐えたものの、隣の岩倉城が落城したことで開城。こうして阿波国の防衛線は崩壊し、阿波国での戦いは秀吉軍の勝利に終わりました。
四国攻め③讃岐国での知力戦
讃岐国に向かった軍は屋島に上陸し、まずは長宗我部方の城主・高松頼邑が守る喜岡城(香川県高松市)を落とします。次に香西城と牟礼城を攻略。続けて長宗我部元親の従兄弟である戸波親武が守る植田城を攻めようと考えます。
ところが植田城は守りが固く堅牢な城。さらに、黒田官兵衛は「植田城を取り囲んだ場合、背後から長宗我部軍が攻めてくるのではないか」と推察し、植田城攻めを中止して阿波国の本隊と合流することを提案。決戦の地は阿波国になるのではと考えたのです。結局諸将もこの案に同意したことで、讃岐国の豊臣軍は植田城を素通りして本隊と合流することになりました。
実は、長宗我部元親は植田城近くに伏兵を忍ばせており、秀吉軍に植田城を攻めさせることで挟撃する作戦を実施しようと考えていました。ところが計略は官兵衛によって見抜かれてしまう結果に。元親は悔しがったことでしょう。
四国攻め④伊予国で毛利勢と対決
伊予国に向かった豊臣軍はほとんど毛利勢で、トップは毛利輝元。輝元は三原(広島県三原市)に残りましたが、兵を乗せた船は三原と忠海(広島県竹原市)を6月下旬に出航しました。6月27日には小早川隆景率いる軍勢が今治に、7月5日には吉川元長が今治もしくは新居浜に上陸しました。
毛利勢の最初の攻撃目標は、宇摩郡(愛媛県四国中央市および新居浜市の一部)の石川氏と、石川氏家臣団の実力者で新居郡(愛媛県新居浜市、西条市)を治める金子元宅でした。石川氏の当主はわずか8歳の石川虎竹。このため、元宅が宇摩・新居の実質的な指導者として当地を治めていました。この元宅と小谷川隆景が激戦を繰り広げたのが、7月に起きた「天正の陣」または「金子城の戦い・高尾城の戦い」と呼ばれる戦いです。
毛利勢が攻めてきた当時、元宅は石川虎竹とともに高尾城におり、本拠地の金子城は弟の金子元春が守っていました。毛利勢はまず、高尾城から攻略を開始。7月12日から攻撃を開始し、双方多数の戦死者を出す激戦が繰り広げられました。そして7月17日、元宅は高尾城に火を放ち、600あまりの兵たちと城外に討って出ました。大軍の毛利勢に対し、元宅側は長宗我部軍の援軍を加えても総勢800。結果は毛利勢の大勝利で、元宅は最後まで抵抗を続けて全滅しています。なお、主君の石川虎竹は無事に土佐に落ちのびています。
その後、毛利軍は高峠城などの新居郡の城を攻め、金子城を落城させます。そしてさらに東進して宇摩郡を攻略にかかります。攻略の最中に長宗我部元親が豊臣軍に降伏していますが、毛利勢は伊予攻めを止めることなくその後も継続し、8月末に伊予を制圧しました。
長宗我部元親が秀吉に降伏
豊臣軍の三方攻めに苦戦する長宗我部元親ですが、まだ戦を諦めたわけではありませんでした。ところが、一宮城から落ちのびてきた谷忠澄をはじめとした部下たちは、降伏を進言。特に忠澄は自分の目で見た秀吉軍の圧倒的な兵力を理由に、元親に強く降伏を訴えました。元親は「一度も戦わずして降伏するとは武士の名折れ」と徹底抗戦を主張します。
そんななか、7月25日に豊臣秀長から、元親に土佐一国を与えられるよう努力することを明記した停戦勧告の書状が届きます。こうした動きもあり、結局元親は停戦勧告を受け入れる形で降伏を決定。8月6日には講和が成立し、四国攻めは秀吉軍の勝利で幕を閉じました。
講和の結果、長宗我部氏は土佐一国をかろうじて安堵されることに。阿波と讃岐、伊予国は豊臣秀吉に没収されたのち、8月4日の「四国国分」で阿波国は蜂須賀正勝の子供の家政に、讃岐国は仙石秀久と十河存保に、伊予国は小早川隆景にそれぞれ与えられました。
また、講和条件には長宗我部信親を大阪に住まわせること、次男や家老を人質として差し出すこと、長宗我部家当主が兵を3000を率いて軍役を務めること、徳川家康との同盟禁止することも挙げられていました。元親はこれを遵守します(ただし人質として差し出したのは三男)。こうして、元親は秀吉の部下として、豊臣政権下で生き残っていくことになったのです。
その後、元親は秀吉が天正14年(1586年)7月から天正15年(1587年)4月まで実施した九州攻め(九州平定、九州征伐とも)に先発隊として参加。小田原征伐や朝鮮出兵などにも加わっており、秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1598年)5月19日、この世を去りました。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。