忍城の戦い(2/2)豊臣軍の猛攻を耐え抜いた「浮き城」
忍城の戦い
秀吉が水攻めにこだわった理由。それは天正10年(1582年)、秀吉が織田信長の命を受けた中国攻めの最中、備中高松城に水攻めをして成功したことに関係があります。この時は城の近くを流れる足守川の水を引き込むため、全長約3km、高さ約7kmの堤防をわずか12日間で築き上げ、水攻めを実施。城を孤立させて苦しめ、毛利方からの講和を引き出しました。
備中高松城のときの成功に加え、水攻めは大規模な土木工事を伴うため権力者でしかなしえない技。インパクトも強いのでパフォーマンスとして効果的です。秀吉は忍城で水攻めをおこなうことで、天下に自らの力を示そうと考えたのかもしれません。
秀吉の書状に対し、三成は6月13日、浅野長政と木村重茲に出した書状で「水攻めではなく直接城を攻めたほうが良いのでは」と提言しています。書状の中には「城攻めをしている武将たちは水攻めだと決めてかかっており、忍城に全く攻め寄せる気がない」と武将たちのやる気のなさに対し愚痴のような言葉も書いています。
結局、その後に秀吉から改めて水攻めの指示があったことで三成は水攻めを実施せざるを得ませんでした。ちなみに堤防が一度壊れた後も堤防の整備は続けられており、7月になってからも堤の補強が続いています。秀吉は最後まで水攻め策にこだわっていたようです。
北条家の最後の砦となった忍城
苦戦が続く豊臣軍ですが、6月末(7月初めとも)には浅野長政や真田昌幸が援軍を率いて戻ってきており、再度攻撃のチャンスが訪れます。勢いに乗った豊臣軍は成田軍に対し快進撃を見せ、城門の1つを奪う寸前までいきました。
その時活躍したのが成田氏長の長女・甲斐姫です。当時の資料からは詳細は分からず、江戸時代に書かれた軍記物「成田紀」などからその姿を推察するしかありませんが、戦に秀でた戦姫だったようです。戦の際はまだなんと19歳だったようですが、豊臣軍の侵入を阻止するために、自ら刀を手に取り200人の兵を率いて出陣しました。成田家に伝わる名刀「波切」と短刀を手に、甲冑に赤い陣羽織をまとった甲斐姫が豊臣軍を蹴散らす姿は味方にさぞかし力を与えたことでしょう。
ちなみに、長親も出陣しようとしましたが、甲斐姫に止められています。戦ではあまり活躍の場がなかった長親ですが、家臣たちの争いを仲裁するなど、城代として成田家の団結に一役買っていたようです。
一方の豊臣軍ですが、決着をめざして7月5日に総攻撃を実施。出城を攻め落とすなどの成果を得ますが、ここでも甲斐姫が活躍。結局双方それなりの被害を出し、痛み分けとなりました。7月6日には上杉景勝、前田利家などの援軍が到着し、引き続き城攻めを継続しますが、戦況は変わりません。
忍城で激戦がくりひろげられる一方、小田原では7月5日、ついに小田原城が陥落。これで忍城の戦いも終了と思いきや、小田原城が豊臣軍に受け渡された後も成田軍の籠城は続きました。小田原城陥落の連絡を豊臣軍から受けていましたが、信じていなかったようです。
このため、小田原城にいた成田家当主・氏長が忍城で立てこもる一同を降伏するよう説得。そして7月16日、忍城は開城しました。立てこもった人々は甲冑を身に着けて馬に乗りながら堂々と城を去ったと伝わっています。こうして忍城の戦いは終了しました。結局小田原城が落ちるまで忍城は落城しませんでした。このため忍城は「小田原討伐で唯一落ちなかった城」として知られることになるのです。
忍城の戦い後の成田家
小田原征伐の後、豊臣秀吉は東北を平定し、朝鮮出兵に乗り出します。そして秀吉が死んだ後、後継者争いが起こり、関ヶ原の戦いで石田三成が徳川家康と戦って敗れ、260年続く江戸時代が始まるのは皆さんご存じでしょう。
一方、敗れた成田家はその後どうなったのでしょうか。成田氏長は領地を没収され、娘の甲斐姫と共に蒲生氏郷の預かりとなり、越前国の北ノ庄城(福井県福井市、後の福井城)に住むことになります。北ノ庄城に移った氏長・甲斐姫親子ですが、氏長が留守にしたすきに家臣の浜田将監・十左衛門兄弟が反乱を起こし、甲斐姫の義母が殺害される事件が発生します。これに怒った甲斐姫は浜田兄弟に戦いを挑み、見事討ち取りました。
この武勇伝を知った秀吉は甲斐姫を側室として召し上げることに。甲斐姫はその美しさでも知られていたので、女好きとして有名な秀吉にとっては自分のものにしたかったのでしょう。その効果か、氏長は天正19年(1591年)に下野国・烏山(栃木県那須烏山市)2万石を与えられて返り咲きました。
一方、成田長親は氏長たちと同じく蒲生氏郷のもと下野国に移住しましたが、氏長に、忍城の戦いの時豊臣軍と内通していたのではと疑われた(濡れ衣だった)ことをきっかけに剃髪して隠居しました。その長男の長季は忍城の新城主となった松平忠吉に仕えていましたが、忠吉が関ヶ原の戦いの後尾張国(愛知県)に移封されたことで尾張国に移り住んでおり、長親は息子について尾張国に移住。その地で生涯を閉じました。
忍城の戦いの記事を読みなおす
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。