天正伊賀の乱(2/2)織田軍と伊賀忍者の壮絶な戦いの結末とは?
天正伊賀の乱
同年9月、織田軍は雪辱を果たさんと言わんばかりに約4万4000人の兵を伊賀に投入。6方向から伊賀を攻め立てます。総大将は引き続き織田信雄でしたが、丹羽長秀や蒲生氏郷など、織田家の主力武将も多く参加しました。対する伊賀衆は植田光次や百地丹波、町井清兵衛、森田浄雲、百田藤兵衛をはじめとした伊賀惣国一揆の十二人衆を中心とした約1万人強。戦力にだいぶ差があることから、信長の本気度合いがはかれますね。
攻め方を見ると、主力の信雄たちは伊勢に続く伊勢地口から伊賀に侵入。伊賀北部にある柘植口からは丹羽長秀や甲賀出身の滝川一益、玉滝口からは蒲生氏郷や脇坂安治、多羅尾口からは堀秀政たちが攻撃しました。伊賀南西部は笠間口から筒井順慶・定次、初瀬口からは浅野長政が攻め込んでいます。鼠一匹逃すものかという気迫すら感じる攻め方です。ちなみに、滝川一益とともに、六角氏滅亡後に織田方に下った甲賀忍者たちも伊賀攻めに加わっています。
織田軍の動きを知った伊賀衆は平楽寺(へいらくじ)で評定を開き、徹底抗戦を決定。平楽寺や比自山城(ひじやまじょう)などの拠点に籠城し、夜襲などのゲリラ戦で立ち向かいます。しかし織田軍の数にはかなわず、なおかつ織田軍の調略のせいで足並みもそろいません。平楽寺には約1500人の伊賀衆が籠城していましたが、滝川一益らにより陥落。このとき僧侶約700人が斬首されました。
当時の文献によれば、第二次天正伊賀の乱は織田軍によるかなり一方的な殺戮だったようです。織田軍は伊賀各地の神社仏閣や城砦などとともに、拠点を次々と焼き払いました。約2週間で伊賀全土が焼き尽くされたという話も伝わるほどで、伊賀側は最終的には、非戦闘民を含め全人口の3分の1にあたる3万人強の人々が命を落としたそうです。
激戦となった比自山城の戦い
第二次天正伊賀の乱のなかでも特に激戦となったのが比自山城での戦いです。城には伊賀衆が3500人、非戦闘員含めると約1万人が籠城していました。織田方の蒲生氏郷や滝川一益、丹波長秀らが幾度となく城を攻めるものの、なかなか落とすことができません。筒井順慶・定次は伊賀衆から夜襲を受けて大幅な打撃を受けています。ちなみに、この時伊賀衆で活躍した伊賀衆は「比自山の七本槍」と言われています。
しかし、伊賀衆は次第に食糧不足に悩まされるようになり、柏原城の別勢力と合流することを決定します。織田軍の総攻撃の前日には柏原城に向けて比自山城を脱出。織田軍が総攻撃で訪れた際は、城内はもぬけの殻だったそうです。織田軍はさぞかし憤ったことでしょう。
柏原城での最後の籠城戦
柏原城は伊賀衆最後の拠点となった山城で、総大将の滝野吉政を中心にした伊賀衆約1万6000人とその妻子が籠城しました。織田軍はある程度攻撃するものの、伊賀衆の決死の抵抗で自軍に被害が出たこともあり、戦法を兵糧攻めに切り替えます。膠着状態に陥るなか、奈良の猿楽師・大倉五郎次が仲介に入り、伊賀衆に降伏を提案。伊賀衆は兵の人命保護を条件に出し、織田軍がそれを受け入れたことで城を開城し、乱は終結しました。その後、信長は伊賀を信雄に与えました。
なお、翌年の天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれたことで、伊賀衆は再び決起し、各所で小規模な戦いを繰り広げます。柏原城については夜襲で織田軍から奪いましたが、最終的には織田軍が城を取り返しました。この戦いを「第三次天正伊賀の乱」と呼ぶことがあります。
ちなみに、名張市にはお盆に「明智さんにお灯明をあげる」といって、軒先の提灯に火をともすという風習があるそう。伊賀の人たちがいかに信長に敵意を持っていたかがわかるエピソードですね。
伊賀忍者を受け入れた徳川家康と「神君伊賀越え」
天正伊賀の乱の後、生き残った忍者たちは散り散りになり、各地の武将に仕えます。こうした伊賀の忍者を拾った武将の一人が徳川家康。もともと服部半蔵が仕えていたこともあり、受け入れやすかったのかもしれません。
伊賀の忍者が再び注目されるのが、本能寺の変直後の家康の「神君伊賀越え」です。家康は本能寺の変の数日前から、信長の招きを受けて堺(大阪府堺市)を見物していました。本能寺の変発生の報を受けたとき、家康は酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政などの家臣30人あまり。一時は絶望して自害をはかろうとした家康でしたが家臣に諭され、光秀に狙われる可能性があるなか三河に帰ろうとします。伊賀を通過して伊勢から船で本国の三河にわたる「伊賀越え」を採用しますが、その際に助けたのが伊賀衆たちでした。
服部半蔵の人脈がものを言ったということかもしれませんが、天正伊賀の乱の後に伊賀衆を受け入れた家康に恩を感じていたことが協力した一因かもしれません。歴史はこうしたつながりを見るのが面白いですね。
なお、甲賀の忍者もこの時家康を救っており、後に伊賀衆とともに徳川家康に仕えることになります。そして戦が落ち着いた江戸時代、伊賀衆は服部正成の元、伊賀組同心として幕府に召し抱えられ、江戸城の警備にあたりました。
一方伊賀国は、江戸時代初期に筒井定次が藩主として治めていましたが、お家騒動が勃発したことで改易になり、その後藤堂高虎が藩主に就きました。伊賀衆は高虎の元、士族階級となり、武士として活躍しました。
天正伊賀の乱の跡地を巡る
第二次天正伊賀の乱の際、伊賀衆の拠点は織田軍により焼き払われたため、当時をしのばせるものは石碑や郭跡などの遺構がほとんどです。現存するものがほぼないことから、織田軍の凄まじさがよくわかりますね。
とはいえ、地元の観光協会のウェブサイトを中心に、乱に関係のある場所が紹介されています。例えば平楽寺の跡地には現在伊賀上野城が建ち、周囲は公園になっていますが、公園内には寺だったころの五輪の塔や石仏といった遺物が残されています。柏原城跡では土塁や空堀の遺構を見ることができます。興味がある方は訪れてみてはいかがでしょうか。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。