天正伊賀の乱(1/2)織田軍と伊賀忍者の壮絶な戦いの結末とは?
天正伊賀の乱
敵陣に潜伏して情報を探り、罠を仕掛け、時には闇に紛れて敵を暗殺する「忍者」。普段はなかなか表舞台に出てこない彼らが織田軍と激突したのが「天正伊賀の乱」です。戦国時代で唯一、侍と忍者が直接対決した大規模な戦で、和田竜さんが天正伊賀の乱を題材に書いた小説『忍びの国』は2017年に大野智さんの主演で映画化されました。今回はそんな天正伊賀の乱をわかりやすく解説します。
天正伊賀の乱とは
天正伊賀の乱とは、伊賀国(三重県北部)で伊賀の忍者・地侍などからなる「伊賀衆」と織田家が戦った、2度にわたる戦の総称です。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦は第一次天正伊賀の乱と呼ばれており、伊賀を平定しようとした織田信長の息子・信雄が伊賀衆に敗れました。その後、天正9年(1581年)に第二次天正伊賀の乱が起こり、織田信長が大軍を率いて伊賀衆を攻め落とし、伊賀は壊滅状態に陥りました。
そもそも伊賀ってどんなところ?
乱の舞台になる伊賀国は現在の三重県の伊賀市と名張市にあたります。周囲を峻険な山に囲まれた盆地で、古くから奈良や京都と伊勢を結ぶ交通の要所として重視されてきました。
その歴史は古く、古代から中世にかけては奈良の東大寺などの荘園(領地)でしたが、次第に土豪(その土地の豪族)や地侍(有力名主)の力が強くなり、各地に小規模な勢力が乱立しました。彼らを統一する大きな勢力はなかなか現れず、小競り合いが徐々に巧妙化するなか、情報収集やゲリラ戦を得意とする忍者が育っていったようです。
また、山々に囲まれていたことから隠れ里としての機能もあったようで、中央政権から追いやられた武士や公家たちがもたらす情報や、山で修行する修験者たちとの交流などから、忍術をはじめとする独特の技術がうまれました。
室町時代以降は伊賀仁木氏が伊賀守護を務めていましたが、あまり強い支配力は持たず、地侍たちの自治は続いていました。
伊賀惣国一揆による自治
戦国時代には伊賀衆が自治水利権などの自らの権利を守るため、団結して「伊賀惣国一揆」という組織を設立。各里の代表者12名による合議制の強い自治共同体として、伊賀国をまとめていきました。ちなみに「一揆」というと百姓たちによる武装蜂起のイメージがありますが、元の意味は問題解決のために一致団結することで、そのために作られた集団やその闘争を指しています。
伊賀惣国一揆には、11か条の掟がありました。主な掟は以下の通りです。
- 他国からの侵略に対し、皆が一体となって防戦すること
- 侵略の報告があった際は村々の鐘を鳴らし、兵量や矢・盾を持参して参戦すること
- 17歳から50歳までには出陣義務があり、長期間戦う場合はチームを編成して交代すること
- 各里の民たちに起請文を書かせて服従を誓わせること
- 忠節あるものは百姓でも侍に取り立てること
- 裏切りものは討伐して所領を没収すること
- 陣の内部では仲間割れをせず、互いに乱暴しないこと
- 甲賀とも力を合わせるので、近く甲賀と会合をおこなうこと
これを見ると、非常時の軍事的な掟として機能していたようです。また、小説ではよく伊賀の敵対勢力として扱われがちな隣の甲賀郡(滋賀県)の忍者たちとも交流があったことが分かります。
ちなみに、伊賀と甲賀では忍者の仕官の仕方が異なります。伊賀の忍者たちはさまざまな武将に仕える傭兵のような存在で、時には敵味方に別れて争うこともあったようです。一方甲賀の忍者たちは六角氏に仕えていましたが、六角氏が信長に滅ぼされると、信長に仕えるようになります。
伊賀の忍者たち
伊賀の忍者として有名なのは、伊賀惣国一揆の代表者12名のうち「上忍三家」と呼ばれる服部家、百地家、藤林家です。服部家からは服部正成(服部半蔵)が徳川家康に仕えています。彼は実際のところ忍者というよりも武将でしたが、家康のもとで多くの忍者を指揮したことで知られています。服部正成は百地家の百地丹波や藤林家の藤林長門守と合わせて「伊賀の三上忍」と呼ばれることもあります。
第一次天正伊賀の乱~織田信雄が独断で伊賀攻め~
前置きが長くなりましたが、いよいよ第一次天正伊賀の乱について解説していきます。
第一次天正伊賀の乱は、織田信長の次男である織田信雄が伊賀国を攻めた戦です。信雄は当時、北畠具房の養子となっていました(正確には北畠信雄)。これは永禄10年(1567年)に信長が伊勢を手中に収めるため、南伊勢を支配していた北畠家を攻めた際、和睦の条件として次男を養子に出したため。養子にすることで北畠家を内部から織田家の支配下に置くねらいがありました。実際、信雄は後年に北畠具教の娘をめとり、北畠家を継ぐとともに他の北畠一族を暗殺して伊勢を掌握しています。
伊勢の次は隣接する伊賀を、ということですが、天正6年(1578年)、伊賀国の日奈知城主だった下山平兵衛が伊賀衆を裏切り、伊賀国への手引きを申し出ます。これを受けた信雄は部下の滝川雄利に命じて、丸山城を拠点にした伊賀攻めを企てました。そのために丸山城の修築を始めたのですが、それを知った百地丹波や植田光次が率いる伊賀衆はすぐさま合議を開いて対策を練ります。そして無料寿福寺(むりょうじゅふくじ)を拠点に、伊賀十二人衆の百田藤兵衛の率いる兵が城に対し奇襲を仕掛け、城を焼き払います。これにより、滝川雄利たちは城を捨てて伊勢に逃げ帰ることになりました。
名誉挽回?信長に無断で出兵
翌天正7年(1579年)9月、信雄は約1万人の兵を率いて伊賀に侵攻。伊勢地口など3方から伊賀に攻め込みました。信長には報告せず独断で実施したこの戦いですが、なんと今回も伊賀衆の勝利に終わってしまいます。信雄の敗因は、伊賀衆お得意のゲリラ戦についていけなかったこと。土地を知り尽くした伊賀衆による夜襲やかく乱作戦、奇襲になすすべもなく、信雄軍は敗走しました。しかも、この時信雄は重臣の柘植保重を伊賀衆の植田光次の手により喪ってしまいます。
これを知った信長は大激怒!太田牛一による信長の生涯を記した『信長公記』によれば、信雄を「言語道断」と激しく叱責するとともに、書状で親子の縁を切る旨を伝えたそうです。天下統一をめざす信長にとって、家臣、しかも次男の負け戦は威信を失うことになりかねませんので、怒るのも無理はありません。
息子の独断での行動とはいえ、伊賀にしてやられた信長。すぐさま報復したいところではありますが、天正6年から7年は第三次信長包囲網の真っただ中で、毛利氏や石山本願寺との戦いの最中です。伊賀まで手を出している余裕はなかったようで、しばらくは伊賀を放置します。
第二次天正伊賀の乱~信長の報復戦~
天正8年(1580年)に石山本願寺が陥落したことで、信長包囲網はほぼ瓦解しました。そして翌年の天正9年(1581年)、いよいよ織田信長による伊賀攻めが始まります。きっかけは伊賀衆の福地伊宗隆と耳須具明の内通で、彼らは信長に対し、伊賀を攻略する際は道案内をすると申し出ました。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。