末森城の戦い(1/2)前田利家大ピンチ!佐々成政と北陸で対峙した
末森城の戦い
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織田信長の側近で豊臣秀吉の五大老の1人として政権を運営し、加賀百万石を築いた前田利家。そんな利家が大ピンチに陥った戦いが、天正12年(1584年)9月9日、能登国(現在の石川県)の末森城で起こった「末森城の戦い」です。末森城は前田家にとって重要な拠点でしたが、利家のライバル、佐々成政の奇襲に落城の危機に。果たして利家の救援は間に合うのか!? 今回は「小牧・長久手の戦い」の裏側で起きていた北陸の戦いにスポットを当てたいと思います。
末森城の戦いの主人公、前田利家と佐々成政
天正12年(1584年)9月9日に起きた「末森城の戦い」は北陸の支配を巡り前田利家と佐々成政が戦った合戦です。実は、この2人はもともと織田家の家臣で同僚でした。利家は天文6年(1537年)生まれ、成政の生年は天文5年(1536年)とも天文8年(1539年)とも言われていますが、大体同年代の2人は織田信長の家臣として活躍しました。
信長は馬廻衆や小姓などのなかから直属の精鋭部隊「母衣衆(ほろしゅう)」のメンバーを選んでいました。母衣というのはもとは戦の最中に矢や投石などから身を守るため、兜や鎧の後ろにつけたマントのような幅広の布。戦国時代にはクジラの髭などの骨組みをつけて風船のように張ることとで防御力をアップするとともに、目立たせていました。母衣を身につけられるのはエリートだけ。自慢したくなりますよね。
信長の母衣衆は「赤母衣衆」と「黒母衣衆」に分かれており、このうち赤母衣衆の筆頭が利家、黒母衣衆の筆頭が成政でした。(ただし別人が筆頭を務めた時期もあり)年も近い2人はライバル関係にあったようです。
そして天正3年(1575年)、柴田勝家が越前8郡を与えられた際、不破光治とともに3人で府中2郡を得ています。その後、3人は勝家に対する目付を担当するとともに、勝家の与力として北陸方面の統治に尽力。「府中三人衆」と呼ばれることになります。利家と成政は同じ部署の同僚のような関係だったわけですね。
ターニングポイントは「賤ヶ岳の戦い」
天正10年(1582年)6月の「本能寺の変」で織田信長が亡くなった後、後継者をだれにするのかを巡り、清洲会議で豊臣秀吉と柴田勝家が争います。その後も秀吉と勝家は勢力争いを繰り広げますが、この時点では利家・成政ともに勝家側につき、秀吉と対立しています。
ところが同年12月に勝家と秀吉が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、引き続き勝家側の武将として戦った成政に対し、利家は勝家を裏切りました。利家は当初、勝家軍として戦の最前線で後方の援護を任されていましたが、戦の最中に突如勝手に撤退して戦線を離脱。これにより勝家軍は崩れ、その結果秀吉軍に敗退することになります。消極的ではあるものの勝家を裏切り秀吉側についた利家は、戦後に秀吉から能登国(石川県北部)を安堵されるとともに、新たに加賀国(石川県南部)の2郡を得ることになります。
一方、最後まで勝家側にいた成政は、戦後不本意ながら秀吉に臣従することに。実は成政は賤ヶ岳の戦いには直接参戦していません。当時は越後国(新潟県)の上杉景勝の侵攻に耐えており、富山城に詰めていたからで、賤ヶ岳の戦いには叔父の佐々平左衛門が600人の兵を率いて参戦していました。戦後、成政は娘を秀吉に人質に差し出すとともに、自身は剃髪して降伏したことにより、越中国(富山県)を無事に安堵されました。
この賤ヶ岳の戦いで利家と成政の立ち位置は大きく変化することになります。利家はその後も秀吉のもとで出世街道を邁進します。一方の成政は後継者争いで秀吉と冷戦を繰り広げていた徳川家康・織田信雄に接近し、反秀吉の姿勢を強めていくことになるのです。
「末森城の戦い」の原因、「小牧・長久手の戦い」
豊臣秀吉と徳川家康・織田信勝の関係が徐々に悪化するなか、ついに天正12年(1584年)3月、約9ヶ月にもわたって続く「小牧・長久手の戦い」が始まり、両陣営が激突します。まずは信雄が秀吉に協力していた織田家三家老を殺害して秀吉に宣戦布告。これに対し秀吉は約10万人ともいわれる大軍を率いて出陣します。
小牧・長久手の戦いの中心地は尾張国(愛知県)北部ですが、連動して北陸や関東、四国で戦いが発生しており、この北陸の戦いが前田利家と佐々成政が関わった「末森城の戦い」です。小牧・長久手の戦いの当初は利家・成政ともに秀吉軍側でしたが、成政は途中で家康軍側に呼応して秀吉と敵対します。このため、北陸では秀吉方の利家VS家康方の成政が争うことになります。
両者の初戦は「朝日山城の戦い」
佐々成政は7月、前田利家に次男の前田利政と自分の娘の縁談を持ちかけます。実はこれは成政による利家を油断させるための計略でした。それを悟った利家は加賀国と越中国の国境の街道に山城を築城・改修し、警戒を強めました。「朝日山城」もその1つで、利家の家臣・村井長頼達が築城しました。
成政は8月、部下の佐々平左衛門、前野小兵衛らに築城中の朝日山城を攻撃させます。これが「朝日山城の戦い」です。戦いでは成政軍が一時城を占拠するところまでいきましたが、利家が出した援軍により城は奪還されてしまいます。そして利家軍はそのまま突き進み、成政方の松根城を攻略しています。
末森城の戦い①佐々成政、末森城を攻撃
そして9月9日、佐々成政は突然1万5000の大軍を率いて末森城攻めに向かって出発。坪山砦に本陣を置いて末森城を包囲し、翌10日から攻撃を開始しました(※日付については諸説あり)。これに対し、末森城を守る前田家の重臣、奥村永福・千秋範昌たち1500人(500人という説も)の兵は城に籠城して必死に抵抗。この時、城の外に討って出た城代の土肥次茂などが討ち死にしています。その後、成政軍の猛攻に二の丸や三の丸は落とされましたが、本丸だけは何とか踏みとどまりました。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。