九戸政実の乱(2/2)秀吉の天下統一最後の戦い
九戸政実の乱
九戸軍の勢いは強く、さらに家中の争いに関わりたくない家臣たちの消極的姿勢もあり、信直は自力で九戸軍を押さえることは不可能と判断。息子の南部利直と北信愛を秀吉のもとに派遣し、現状を報告するとともに助けを求めました。これを受けた秀吉は6月20日、奥州再仕置軍を編制して奥州の平定に乗り出します。
もともと奥州にいた蒲生氏郷や浅野長政などを加えると、奥州再仕置軍の規模は何と6万5000にも達します。実は九戸政実の乱以外にも奥州は秀吉の施策に反対する一揆がおきており、秀吉としてはこうした動きをまとめて押さえるとともに、自らの力を見せつけようとしたのでしょう。
奥州再仕置軍に参加したメンバーは大変豪華なものでした。総大将は秀吉の後継者である豊臣秀次で3万の軍を率いており、さらに徳川家康が加わって「白川方面軍」を形成。上杉景勝、大谷吉継は「仙北口方面軍」、前田利家・利長親子は「津軽方面軍」、石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱は「相馬方面軍」として参加しています。東北勢も伊達政宗や最上義光などが加わりました。
奥州再仕置軍は一揆を平定しながら北上し、蒲生氏郷や浅野長政と合流します。そして8月下旬には南部領の近くまで進み、九戸軍にプレッシャーをかけます。徐々に迫る大軍を政実はどのように見ていたのでしょうか…。
九戸政実の乱②激戦!九戸城の戦い
8月23日、九戸軍の小鳥谷摂津守が50名の少数精鋭を率い、美濃木沢(岩手県二戸郡)で奥州再仕置軍に奇襲をかけます。崖から岩や木を投げ落とし、身動きが取れなかった奥州再仕置軍は500名弱が被害にあいました。
それでも奥州再仕置軍は進軍し、9月1日には九戸軍の最前線の拠点である姉帯城と根反城を攻め落とします。特に姉帯城は激戦で、姉帯兼興・兼信兄弟、兼興の妻でなぎなたの名手だった小滝の前などが奮戦するも、大半が討ち死にしました。
奥州再仕置軍は9月2日には九戸政実のいる九戸城に到着し、6万5000の大軍で包囲します。九戸城は西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫淵川に囲まれており、西と北は切り立った断崖で侵入は困難。南には険しい浪打峠があり、自然の地形を活かした堅城として知られていました。兵力差は歴然としていましたが、九戸軍は健闘し、半数が討ち取られても戦いを続けます。奥州再仕置軍は思わぬ苦戦を強いられました。
ちなみに、九戸政実の乱は「南部根元記」「九戸軍談記」「奥州南部九戸軍記」といった軍記物のテーマになっており、九戸軍の活躍が華々しく描かれています。九戸方にいた鉄砲の名手である工藤馬助業綱が、奥州再仕置軍の出した傘の頭部を打ち砕き、敵味方ともに大喝さいを浴びる、といったまるで源平合戦の「扇の的」のようなエピソードは印象的。堀や田に米ぬかを巻いて陸地のように見せかけて奥州再仕置軍を誘い込み、足を取られて動けなくなったところ鉄砲をあびせる「ハタフク戦法」などドラマチックな逸話が多く、興味深いですね。
九戸政実の乱③「偽の和睦」でだまし討ち?
そこで奥州再仕置軍が取ったのが、九戸政実に和睦を持ちかけることでした。浅野長政が九戸氏の菩提寺である鳳朝山長興寺の薩天和尚に協力を求め、和尚を使者に政実に降伏を勧告します。開城すれば城内の人々の命は助けるとの条件を提示し、薩天和尚に政実を説得させようとしたのです。
九戸軍のなかには「和議は謀略なのでは?」と疑う声もありましたが、最終的に政実は和議の申し出を承諾し、9月4日に奥州再仕置軍に投降。政実は重臣たちと白装束に身をまとい、髪をそり出家した姿で開城しました。
ところが奥州再仕置軍は約束を破ります。地元の百姓たちに帰還命令を出して戦後処理を行った後、城内にいた人々を全て二の丸に押し込め、なで斬りにして火をかけました。この惨殺事件、後世の軍記物や地元に伝わる伝承であり、実際には起きていないという説もありますが、九戸城の発掘調査では証拠と思われる首のない人骨十数体分が発見されており、実際に起こったことだという説が有力です。
人骨は粗末な墓穴に埋められており、骨には無数の殺傷痕や刺突痕が残っていたとのこと。とはいえ、人骨の量が少なすぎることから、全員がなで斬りされたかどうかを疑問視する声もあり、今後の調査が待たれます。
ちなみに、政実の子どもの亀千代については、この時の戦いで殺されたという説が有力ですが、生き延びて徳川家康の部下になった、伊達家に仕えた、などの伝説が残っています。
一方、降伏した政実たちは櫛引清長ら重臣7人と共に総大将の豊臣秀次の本陣に送られ、栗原郡三迫(宮城県栗原市)で斬首されます。政実の首は秀吉のもとに送られ、京都の戻り橋にさらされました。なお、九戸村には乞食に扮した家臣が首をひそかに持ち帰り、首を葬ったという伝承が残る「政実公の首塚」が残されています。
九戸政実の乱後の東北地方と豊臣政権
九戸政実の乱の後、戦後処理が行われて東北地方の仕置は終了し、豊臣秀吉は天下統一を果たしました。秀吉は南部信直に対し和賀・稗貫を加封します。この2郡は同時期に一揆が発生していた場所で、奥州再仕置軍により鎮められていました。これにより、信直は10万石の大名と認められたことになります。
また、信直は三戸城から九戸城に拠点を移し、九戸城を「福岡城」と改名します。戦により荒れた九戸城は蒲生氏郷が城下町と共に改修していました。その後、福岡城は寛永13年(163年)に南部氏の拠点が盛岡城に移ったことで廃城となり、現在は堀や石垣の後などが残っています。
なお、秀吉は天正19年12月に豊臣秀次に関白職を譲りますが、太閤として実権を握り続けます。そして秀吉が次に狙いを定めたのは海外でした。文禄元年(1592年)に宇喜多秀家をトップとする軍勢を朝鮮に出兵。「文禄の役」と呼ばれるこの戦いにより、しばらく戦の舞台は海外に移ることになります。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。