慶長出羽合戦(1/2)もう一つの関ヶ原!「慶長出羽合戦」~上杉景勝VS最上義光・伊達政宗
慶長出羽合戦
慶長5年(1600年)9月、美濃(岐阜県)の関ヶ原で徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍を破った「関ヶ原の戦い」。天下分け目の戦いとして有名ですが、実はその裏側で、もう一つ東軍対西軍の大きな戦が起こっていたのはご存じですか?それが、東北地方で起こった最上義光・伊達政宗率いる東軍と、上杉景勝率いる西軍が争った「慶長出羽合戦」。今回は「北の関ヶ原」とも呼ばれるこの戦いについて詳しく見ていきます。
徳川家康VS上杉景勝!「直江状」でさらに炎上?
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなった後、徐々に政治的影響力を強めていったのが徳川家康です。「五大老」の一人として政権を運営し、政治の実務を担う豊臣家の重臣、石田三成ら「五奉行」と対立を深めていきます。
そんななか、東北で家康に対抗しようと軍事増強をねらったのが上杉景勝です。景勝は家康と同じ五大老の1人で、当初は越後(新潟県)を治めていましたが、慶長3年1月に隣の会津(福島県)120万石に加増移封されていました。国替えの際に活躍したのは部下の直江兼続。三成は兼続に協力しています。兼続と三成が親しかったことも、景勝が西軍についた1つの理由でしょう。
景勝は兼続に命じ、慶長5年(1600年)3月に神指城の築城を開始します。もともとあった会津の若松城(鶴ヶ城)のすぐそばに山があり、敵方が山に布陣すると城が危険なことなどを理由に、若松城から3kmほど北西にあり、近くの大川の水を利用できる神指原に城を作ることにしたのです。加えて領内の道を整備し峠を要塞化するなど軍事強化をはかります。さらに、越後奪還をめざし、越後の地侍たちなどに働きかけて一揆を起こさせました。
この様子を家康に報告したのが、越後を引き継いだ堀秀治。家康は景勝の動きを警戒し、4月に「謀反を起こす気がないのであれば、上洛して説明するように」と使者を送ります。これに対する兼続の返信が、かの有名な「直江状」です。謀反の疑いを否定し、雪がひどく政務をする時間がないなどの理由ですぐに上洛することができない旨を説明する内容でしたが、皮肉たっぷりで家康を馬鹿にした煽り要素たっぷりの手紙だったことから家康が激怒。上杉征伐を決めたとされています。
ところがこの直江状、現存しておらず写しが残るのみであること、表現に不自然な内容があることなどから偽書説や改ざん説が出ています。とはいえ、直江状がなかったとしても、景勝がすぐの上洛を拒否したことは事実。家康は良い口実を得たとばかりに上杉征伐に向かうのでした。
上杉征伐に向かう徳川軍、その背後で石田三成が挙兵!
慶長5年6月、徳川家康は上杉征伐(会津征伐とも)のために大坂城を出発。家臣の本田忠勝・井伊直政に加え、福島正則や黒田長政、山内一豊などそうそうたるメンバーを連れ、会津に向かいます。迎え撃つ準備をする上杉景勝。背後には徳川方についた最上義光もいるので挟み撃ちにされる可能性がありますが、直江兼続は逆に石田三成や常陸国の佐竹氏と組んで家康を挟み撃ちする作戦を検討していたようです(実現しませんでしたが…)。
さて、7月には下野(栃木県)まで北上した家康軍。そこに届けられたのが石田三成挙兵の一報でした。このまま上杉を撃つべきか、西に引き返して三成を撃つべきか。同行している武将たちの妻子は大阪に残したままで、三成の人質状態です。しかも三成は豊臣秀吉の子飼いの家臣。秀吉と敵対したこともある家康につくべきか迷った武将もいたことでしょう。
この時行われた軍議が「小山評定」です。秀吉と縁が深かった福島正則が打倒三成を発言して兵糧の提供を申し出、山内一豊が「城を明け渡しででも味方する」と発言したことで、東軍の結束が固まり、引き返して光秀を打つことが決まりました。例によって「小山評定はなかった」という議論もありますが、この段階で何らかの軍議が行われ、西行きが決まったことは明らかです。
上杉景勝が徳川軍を攻撃せず見逃した理由とは?
打倒石田三成が決まり、急ぎ反転して西に向かう徳川家康軍。上杉軍から見れば、徳川軍を背後から攻める大チャンスです。石田軍と挟み撃ちすれば徳川滅亡も夢ではないかも?と思いきや…景勝は背後をつくことはしませんでした。
その理由として「背後を攻めるのは卑怯で上杉の義に反する」ため攻めなかったという説や、徳川方についた東北地方の最上義光・伊達政宗といった武将を警戒したため、という説がありますが、現在は後の説が有力視されています。
実は、家康は早くから義光と政宗を味方につけていました。政宗に対しては「百万石のお墨付き」として、上杉家の土地を切り取り次第で加増する旨を約束しています。この約束、上杉家内の伊達旧領を加増して100万石を保証するもののように誤解されますが、実際は切り取り次第でした。
そして家康は義光を大将に南部氏・秋田氏・戸沢氏などと米沢口から会津に攻めることを計画。徳川軍本軍や伊達軍などとあわせて5ヶ所から会津を囲いこむ予定でした。
このように、徳川軍がいなくなったとはいえ上杉軍が2大勢力に背後を脅かされていることは変わりません。景勝が思いきって家康を追撃しようとしても、なかなか難しい状況でした。とはいえ、武門で名高い上杉軍が死力を尽くせば徳川軍に大打撃を与えられたという気もするので、景勝の動き次第では関ヶ原の戦いの結果が変わっていたかもしれません。
しかし、景勝はまずは東北の徳川勢力を潰すことを考えます。もともと東北での領土拡大は上杉家の悲願。景勝は家康が軍を引き手薄になった最上家を攻撃します。慶長出羽合戦の始まりです。
慶長出羽合戦①大軍で最上義光を攻める上杉軍
徳川家康の西上により、会津攻めのために山形にいた諸将が自国に引き上げてしまい、急遽ピンチの陥ったのが最上義光でした。「皆で協力して上杉を叩くはずが、味方が一気に減ってしまった…」と焦る義光。そもそも最上家は24万石で、120万石の上杉家とまともに戦えるわけがありません。兵力も最上7000に対し上杉約2万7000。焦るあまり、時間稼ぎのために上杉家に臣従する動きを見せた、という話も伝わっています。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。