小田原征伐(1/2)秀吉が天下統一!北条家を下した最後の大戦

小田原征伐

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事件簿
事件名
小田原征伐(1590年)
場所
神奈川県
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天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏政とその息子の氏直が率いる北条家と戦ったのが、「小田原征伐」と呼ばれる一連の戦いです。秀吉の支配に最後まであらがっていた北条家が戦に敗れて滅亡し、秀吉は天下統一を果たしました。さらに、徳川家康は関東を治めることになり、将来の江戸幕府の礎を築くことになるのです。今回は、天下統一前最後の大戦、小田原征伐について解説していきます。

秀吉、九州征伐終了で天下統一まであと一歩

天正10年(1582年)6月、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたのち、豊臣秀吉は信長の後を継ぐ者として徐々に力をつけていきます。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを契機に最大のライバルだった徳川家康を臣従させ、天正13年(1585年)に長曾我部元親を下して四国を平定。天正15年(1587年)には島津家を討伐して九州を平定しました。天下統一までに残る敵は、関東の北条家と奥州の伊達家のみ。秀吉は2家を臣従させようと手を尽くしていくことになります。

一方、北条家は、関東を治める一大勢力。天正8年(1580年)には北条氏直が当主に就任していますが、依然として前当主の北条氏政の影響力は強く、外交などを担当していたようです。伊達家とは伊達政宗の父、伊達政宗のころから同盟関係にありました。

関東には常陸国(茨城県)の佐竹家をはじめ、北条家と敵対する勢力がいました。さらに、越後国(新潟県)の上杉景勝や三河・遠江・駿河・甲斐国(東海道・甲信地方)の徳川家康は秀吉に臣従していました。

北条家の周囲は敵ばかりかと思いきや、徳川家とは同盟関係にあったので一概にそうともいえません。この同盟は天正10年(1582年)に起きた、旧武田領を徳川・上杉・北条家で争った「天正壬午の乱」の講和を契機に結ばれたもの。家康は次女の督姫を北条氏直の正室として嫁がせています。このため、秀吉はうかつに北条家に手を出すことができませんでした。

秀吉と北条家の「上洛交渉合戦」

九州の次は北条家を臣従させて関東を手中に収めようと考える豊臣秀吉。天正16年(1588年)4月には後陽成天皇を自身の邸宅「聚楽第」に招いており、天皇の行幸に北条氏政・氏直親子にも参加するよう求めています。ところが北条家はこれを拒否。他の大名が使者を派遣するなか使者すら送らなかったため、京都では打倒北条の声も上がるようになりました。

ここで動いたのが北条家と縁がある徳川家康です。北条家に対し上洛するよう働きかけをおこない、5月には北条家に起請文を送っています。内容としては

  • 北条氏政・氏直について秀吉に讒言しないし、北条家の領地は一切望まない
  • 今月中に氏政の兄弟の誰かを上洛させる
  • 豊臣家への出仕を断るのであれば、氏直に嫁いだ督姫を返すべし(=離縁させる)

というもの。こうした説得を受け、北条家は8月に氏政の弟の北条氏規を上洛させ、12月に北条氏政も上洛することを約束しました。氏規はその引き換えに、真田家と争っていた上野国の沼田(群馬県沼田市)の問題を解決するよう秀吉に訴えます。この沼田領の問題が北条家の破滅へとつながっていくのです。

北条VS真田!もめにもめた「沼田領問題」

沼田領は武蔵、信濃、越後、甲斐、会津へ抜ける街道が集まる交通の要衝であり、北関東における軍事的に最重要スポットでした。当初は真田家が治めていましたが、武田家の滅亡とともに織田家の滝川一益が治めるようになります。天正10年(1582年)の本能寺の変で織田信長が討たれた後は、旧武田領を徳川・上杉・北条家と真田家など旧武田家臣たちが争った「天正壬午の乱」が発生。その際、真田昌幸は沼田領を取り戻し、保持し続けるために上杉→北条→徳川家とコロコロ寝返ります。

徳川家に仕えて沼田領を治め続けられると考えていた昌幸でしたが、乱の和睦の際、沼田領を北条家に譲渡することになってしまいました。これに怒りを感じた昌幸は徳川家から離反して上杉家に従属し、沼田領の受け渡しを拒否。北条・徳川軍が攻めても沼田領を守りきりました。なかなか沼田領を手に入れられない北条家は、豊臣秀吉に働きかけて沼田領を手に入れようと考えたのです。

結局、北条氏政の12月の上洛は果たされませんでしたが、翌天正17年(1589年)2月には北条家の家臣、板部岡江雪斎が上洛し、再度沼田領を得ようと働きかけます。秀吉は上洛の約束を反故にされたことに怒りを覚えつつも、沼田領の割譲を北条家の有利になるよう決定。「沼田裁定」と呼ばれるこの裁定では、沼田領3万石のうち2万石を北条家に渡し、残る1万石を真田家が保持することとしています。真田家に対してもフォローを忘れず、徳川家に2万石の替地を与えるよう指示しました。真田家はこれを受け入れ、北条家は無事に沼田領2万石を手に入れました。

秀吉がここまで手を尽くしたからには氏政が上洛するのが筋でしょう。しかし、北条氏直は「氏政は12月初旬に上洛する」とさらに引き伸ばします。さすがに堪忍袋の緒が切れた秀吉は北条家の討伐を決意。虎視眈々とチャンスをねらうことになります。

氏政が上洛を引き延ばし続けたのはなぜなのか。名門北条家のプライドが百姓にすぎなかった秀吉への臣従を拒絶したのか、小田原城の守りに絶対の自信があり、秀吉を軽んじていたのか。徳川家や伊達家とも同盟関係にあったことで秀吉に対抗できると考えていたのか。いくつかの説がありますが、理由ははっきりしていません。

小田原征伐のきっかけとなった「名胡桃城事件」

豊臣秀吉の裁定で沼田領問題は落ち着いたかと思いきや、10月に大事件が発生します。沼田城代で北条方の猪俣邦憲が、真田領内の名胡桃城を奪取したのです。この「名胡桃城事件」については、北条家の仕業という説以外に、真田家が沼田城を合法的に得ようと北条軍を挑発して攻めさせたとも、豊臣秀吉が北条攻めの大義名分を得るために策略を練ったという説もあります。

この事件は豊臣秀吉が北条家を攻める良いきっかけになりました。秀吉は関白就任後、九州を対象に大名同士が勝手に争うことを禁じる「惣無事令」を発出し、領土紛争の裁定は秀吉が下すことにしていました。

関白の権威を活用して天正13年(1585年)、天皇の名のもとに出された惣無事令は、天正15年(1587年)には関東・東北も対象になっていたのです。惣無事令を破ることは天皇にたてつくこと!秀吉にとって立派な北条攻めの理由になりました。なお、同時期、氏政の弟の北条氏邦が下野国(栃木県)の宇都宮国綱を攻めたことも大義名分の1つになりました。

秀吉は北条家に対し、これまで氏政上洛の意向を受けて沼田領を引き渡したにもかかわらず、それを覆す戦を起こしたことを「許しがたい背信行為」と糾弾。沼田城を引き渡すとともに関係者を処罰し、今度こそ氏政が上洛するよう詰め寄りました。しかし氏直は上洛の時期をさらに引き伸ばし、「名胡桃城事件は名胡桃城の城主が北条家に寝返った結果」と主張。言い訳たっぷりな感じですね。

これを受けて秀吉は、11月に氏政が上洛しない場合は来春に北条家を討伐するという先触れを関東の領主や徳川家康に通知し、北条家に宣戦布告の書状を送りつけました。家康は再三の仲介にも耳を貸さなかった北条家を見限り、秀吉につくことを決意。12月に上洛して秀吉と小田原征伐の準備をするとともに、翌1月には三男の長丸(のちの江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠)を秀吉に人質ととして差し出しています。

一方の北条家は秀吉の動きを察知しており、小田原城を修築・拡張し守りを固めて持久戦の準備を進めます。さらに山中城や韮山城などを修築し、戦に備えました。

小田原征伐に参加した武将たち

小田原征伐には豊臣軍が約21万の大軍を率いて小田原城や北条方の支城を攻めています。兵は豊臣秀吉率いる主力に加え、水軍舞台や北方部隊などで、オールスターの有名武将が参戦しています。一方の北条軍は5万から8万2000(諸説あり)の兵で小田原城に引きこもりました。

【豊臣軍】約21万
●主力軍:豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康、浅野長政、石田三成、宇喜多秀家、大谷吉継、織田信雄、蒲生氏郷、黒田官兵衛、小早川隆景、吉川広家、立花宗茂、蜂須賀家政、福島正則、細川忠興、堀秀政など約17万
●水軍:長宗我部元親、九鬼嘉隆、毛利水軍など約1万<
●北方隊:上杉景勝、佐野房綱、真田昌幸、前田利家など約3万5千
●関東勢:佐竹義宣・義重、宇都宮国綱など1万8千
【北条軍】約5万~8万2000
北条氏政、北条氏直、北条氏照など
このほか、山中城、韮山城、下田城、忍城など支城の各武将たち

天下の名城「小田原城」を包囲せよ!

天正18年(1590年)2月、いよいよ小田原征伐の開始です。次々と武将たちが出陣し、まずは箱根の山中城を豊臣秀次や徳川家康などが大軍で攻め落とします。本隊は他の城も落城させながら進み、4月上旬に小田原に到着。四方から約10万の大軍で小田原城を包囲するとともに、海上に軍船を配備して海上封鎖もおこないます。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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