一乗谷城の戦い(2/2)一乗谷城の戦いで朝倉氏滅亡!従弟に裏切られた最期とは

一乗谷城の戦い

一乗谷城の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
一乗谷城の戦い(1573年)
場所
福井県
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一乗谷朝倉邸

一乗谷朝倉邸

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一方、朝倉義景は長政救援のための援軍を出そうとして従弟の朝倉景鏡などの重臣に協力を求めますが、重臣たちは兵の疲労などを理由に出兵を拒否。このころ、織田方の調略などで朝倉家の団結はかなり崩れていたようです。義景は仕方なく自分で出陣することになり、2万の兵とともに小谷城北の田上山に本陣を設置。大嶽砦など周辺の砦にも兵を送りました。一方の織田軍は約3万の兵とともに小谷城を包囲し続けます。

そして8月12日、信長は暴風雨が吹き荒れる中、1000名を率いて大嶽砦を攻めます。信長の伝記「信長公記」によれば、降伏した兵たちをあえて殺さず本陣に逃げ込ませることで士気を下げようと画策。さらに、信長は義景の性格から「朝倉軍は今夜中に撤退する」と考え、すぐさま追撃しようと準備を進めるとともに、部下の武将たちに撤退開始のタイミングを見張るよう厳命しました。

ところが部下たちはタイミングを見逃してしまい、結局信長が先駆けして朝倉軍を追撃することに。信長が部下たちに激怒したことは言うまでもありません。このとき怒る信長に対し、佐久間信盛が「出遅れましたが、そのようなことを言われましても、我々のように忠実な家臣は他にはおりませんよ」と空気の読めない発言をし、信長の怒りの炎に油を注いでいます……。

8月13日、織田軍は敦賀方面に逃げる朝倉軍を追撃し、刀根坂で追いつきました。撤退しようとする朝倉軍は義景を逃がそうと奮闘します。殿を務めた山崎吉継や朝倉掃部助が一時織田軍を押し返しますが、織田軍の勢いには勝てず敗退。義景は何とか逃れたものの、当初逃げようとしていた敦賀城は諦めて本拠地の一乗谷城をめざします。

刀根坂の戦いにより、朝倉軍は朝倉景行や朝倉道景などの一門衆、山崎義家、河合吉統といった重臣など、多くの戦死者を出しました。一説によれば3000人以上の朝倉軍が戦死したと言われており、刀根坂の戦いでほぼ戦の結末は織田軍の勝利に決まったと言えます。

ちなみにこの時、永禄10年(1567年)8月に信長が美濃を平定した「稲葉山城の戦い」で信長に敗れた美濃斎藤氏の最後の当主、斎藤龍興が亡くなっています。信長に敗れた後は義景に保護されており、この時戦に参加していたようです。

朝倉氏がついに滅亡!「一乗谷城の戦い」

信長は8月14日まで朝倉軍を追撃。15日、16日は敦賀に駐屯し、休息を経て17日、朝倉方の前波吉継の案内で木ノ芽峠を越え、朝倉氏の本拠地である一乗谷に向かって出発しました。3年前の金ヶ崎の戦いの際、木ノ芽峠に差し掛かるあたりで飛び込んできたのが「浅井長政裏切り」の報告。今回は峠を越えて攻め込むことができたわけです。信長としては「ついにやった!」という思いだったのではないでしょうか。そして8月18日、信長は一乗谷の城下町を襲撃して焼き払います。一條谷城と「北ノ京」と呼ばれるほど華やかな城下町は今回の戦により焼失してしまいました。

一方の朝倉義景は生き残った武将や兵士とともに一乗谷城に逃げ込みました。一乗谷城に残った兵力は一説によればわずか500人。味方の少なさに絶望しつつも、義景は従弟の朝倉景鏡の意見を採用し、一乗谷城を捨て、景鏡の治める大野郡山田庄(福井県大野市)に逃れます。目的は朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺の僧兵の協力を経て、再起をはかること。ところが、豊臣秀吉の工作により、平泉寺は織田軍と内通していました。そして、実は景鏡も腹に一物あったのです。

従弟の裏切られた義景、最後は自刃

義景は8月19日、仮宿として景鏡が用意した六坊賢松寺に入ります。一息ついた翌20日の早朝、義景が見た風景は、景鏡ら200の兵士たちが寺を囲んでいる姿。そう、景鏡が最後の最後で裏切ったのです。義景は信じた味方に裏切られ、さぞかし絶望したことでしょう。結局、義景は自刃して果てました。景鏡は義景の首と、捉えた母親や妻子を信長に差し出して降参しました。その後、義景の母親や妻子を含む血族のほとんどは信長の命により殺されています。義景の首は京都で獄門に曝されました。

最後の最後で寝返った景鏡がその後どうなったかというと、信長の部下となり、名前を信長から一字貰って「土橋信鏡」に変更。本領を安堵された後に大野郡の内政に努めましたが、天正2年(1574年)に起こった越前一向一揆の標的にされて戦死しています。

「小谷城の戦い」で浅井氏も滅びる

小谷城の戦いで朝倉氏を滅ぼしたあと、織田信長は越前を元朝倉方の前波吉継に預けたのち、残る浅井氏を滅ぼそうと小谷城に向かいます。「小谷城の戦い」の始まりです。小谷城は浅井一族が住む山城で、日本五大山城にも数えられる堅城でしたが、豊臣秀吉が奇襲作戦で浅井長政と父の浅井久政を分断し、久政を自刃に追い込みます。

その後、織田軍の猛攻に耐え切れずに長政も自害し、浅井氏は滅亡しました。なお、信長の妹で長政の正室だったお市の方と3人の娘、嫡男は長政が自害する前に秀吉に引き渡されています。この3人の娘が茶々、初、江の「浅井三姉妹」です。

一乗谷城の戦いで朝倉氏を、小谷城の戦いで浅井氏を滅ぼした信長。越前と近江を手中に収めた後は天正3年(1575年)の長篠の戦いを皮切りに武田氏攻略に乗り出し、天下統一への歩みを続けていくことになるのでした。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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