一乗谷城の戦い(1/2)一乗谷城の戦いで朝倉氏滅亡!従弟に裏切られた最期とは
一乗谷城の戦い
長きにわたり越前国(福井県)を支配していた名門・越前朝倉氏を織田信長が滅ぼしたのが、天正元年(1573年)に起こった「一乗谷城の戦い」です。朝倉家当主の朝倉義景は元亀元年(1570年)の「金ヶ崎の戦い」で信長を追い詰めた人物。ところが優柔不断な性格が響いたのか信長を攻めきれず、「刀根坂の戦い」で大敗し、ついには従弟の裏切りにあって自害させられてしまいます。今回はそんな朝倉義景の最後の戦いである「一乗谷城の戦い」について解説します。
一乗谷と朝倉氏の関係は?
「一乗谷城の戦い」は天正元年(1573年)8月18日、朝倉義景と織田信長が一乗谷城(福井県福井市)で戦った合戦です。「刀根坂の戦い」と合わせて「一乗谷城の戦い」と呼ぶこともあります。信長は同年の8月初旬から義景・浅井長政軍と戦い続けており、対朝倉戦としては一乗谷城の戦いが最終戦になります。
そもそも越前朝倉氏は南北朝時代から続く名家で。朝倉氏はもともと足利氏の有力一門だった斯波氏に仕えており、初代の朝倉広景が越前国に所領を与えられたことをきっかけに国内で力を伸ばし、やがては斯波氏に代わって越前一国を任されるに至ります。一乗谷は当初から朝倉氏の本拠地で、応仁の乱の際は荒廃した京都から朝倉氏を頼って公家や文化人などが避難してきたため、「北ノ京」と呼ばれるほど発展を遂げ、文化の一大拠点となりました。
そんな一乗谷で育った義景は朝倉氏の11代目当主。父の朝倉孝景が天文17年(1548年)に急死したことで、16歳の若さで跡を継ぎ、従曾祖父にあたる名将・朝倉宗滴がその補佐につきました。義景と宗滴は加賀の一向一揆の鎮圧に尽力しますが、その途中の弘治元年(1555年)、宗滴が病で亡くなってしまい、その後は義景が朝倉氏を率いていくことになります。
足利義昭の上洛要請を拒否
永禄9年(1566年)9月、朝倉義景は将軍になる前の足利義昭を保護することになりました。義昭は上洛して室町幕府を継ごうと考えており、義景に助けを求めましたが、慎重な義景は動こうとしません。このため義昭は義景を見限って織田信長を頼って上洛し、永禄11年(1568年)10月に室町幕府の第15代将軍に就任しました。義昭を擁立して天下に名乗りを上げるチャンスでしたが、義景はその機会を逃してしまったのです。
信長について将軍になった義昭ですが、義昭を傀儡化しようとする信長への不信感から徐々に信長との仲が悪化していきます。そして義昭は各地の武将に信長を討つ、つまり「信長包囲網」の一員となるよう呼びかけはじめます。義景はこの呼びかけに応え、信長と敵対していくことになります。
「金ヶ崎の戦い(金ヶ崎の退き口)」で朝倉・浅井軍に織田軍敗退
元亀元年(1570年)4月、織田信長は朝倉義景に自分の命にしたがい上洛するよう呼びかけますが、義景はこれを拒絶。理由は信長に利用されることを避けるためとも、自国の一揆を押さえることに専念したかったとも言われています。この命令違反を口実にした信長は、徳川家康とともに約3万の軍を率いて越前を得ようと出陣します。
ところが、これは信長の同盟相手である浅井長政をないがしろにする策でした。長政は信長の妹のお市を正室に持つ、信長にとっては義弟にあたる人物。2人は結婚を機に同盟を結んでおり、その際信長は浅井氏が朝倉氏と同盟を結んでいたことから、長政に対し「朝倉家への不戦の誓い」を立てていたのです。
にもかかわらず朝倉家を攻めた信長に対し、長政は織田軍につくか朝倉軍につくかを迷い、結果朝倉軍につくことを決意して信長を背後から攻めることに。挟み撃ちを恐れた信長は急いで引き返し、殿の豊臣秀吉や明智光秀、池田勝正らの活躍もあり、なんとか京都に戻ることができました。これが「金ヶ崎の戦い」で、信長の撤退戦であることから「金ヶ崎の退き口」とも言われています。信長を討伐するチャンスでしたが、朝倉・浅井軍は信長を攻めきれませんでした。ここでも義景はチャンスを逃すことになったのです。
「姉川の戦い」は朝倉・浅井軍が敗退
京都に戻った織田信長はすぐさま反撃に出ます。岐阜に帰国して体制を整え、元亀元年6月、徳川家康とともに近江国(滋賀県)の浅井長政のいる小谷城を攻めます。両軍の兵力差は文献によりさまざまで、織田・徳川軍が1万3万~4万人、朝倉・浅井軍が1万3000~3万人となっています。両軍は姉川付近で激突しました。
「姉川の戦い」と呼ばれるこの戦いは、最初は朝倉・浅井軍が健闘して織田軍を追い詰めますが、徳川軍が横から回り込んで朝倉・浅井軍を追い詰めたことで織田軍が勝利。朝倉・浅井軍は浅井家の遠藤直経、朝倉家の真柄直隆など多くの戦死者を出しました。
ちなみに、このとき浅井軍の援軍に駆け付けた朝倉軍を率いていたのは、朝倉義景ではなく部下の朝倉景健。義景は出陣していないというのは少し驚きです。義景という武将は文化人で穏やかな気質だったようで、優柔不断な性格がチャンスを逃しやすかった、と言われています。本人が援軍に駆けつけていたら味方の士気が上がり、ひょっとしたら形勢が逆転していたかもしれません。
朝倉・浅井軍、他勢力と協力して信長を攻める
姉川の戦い後の9月から12月にかけて、織田信長は比叡山延暦寺や石山本願寺の支援を受けた朝倉・浅井軍と戦います。「志賀の陣」と呼ばれるこの戦いでは、信長は9月の宇佐山城での戦いで弟の織田信治や森可成などを失い、11月の堅田の戦いでは朝倉・浅井軍に敗れるなど打撃を受けています。
志賀の陣は朝倉・浅井軍が比叡山に立てこもったことで長期化しますが、信長の働きかけで朝廷が仲介に入ることになり、和睦が成立しました。なお、この戦いがきっかけで信長は2年後の元亀2年(1571年)9月、延暦寺を焼き討ちしています。
元亀2年8月には朝倉・浅井軍が織田方の横山城や箕浦城を攻めていますが敗退。織田軍の調略もあり、朝倉・浅井軍はじわじわと弱っていきますが、朝倉義景と浅井長政は信長と小競り合いを繰り返しつつ、信長包囲網の一員として信長を攻め続けました。
同年10月、武田信玄が織田方の徳川軍を攻める「西上作戦」を開始しますが、義景はその際に援軍を要請されています。義景は信玄との協力を決意し出兵。ただし、積雪や兵の疲労などを理由に信玄の到着を待たずに越前に撤退してしまい、信玄から「信長を滅ぼすチャンスを逃すとはありえない」と非難されています。その後も信玄や本願寺顕如から出兵の依頼はありましたが、義景は動きませんでした。
信長包囲網の要といえる信玄が元亀4年(1573年)に亡くなると、包囲網は徐々に瓦解していきます。信長はチャンスとばかりに足利義昭を追放し(槇島城の戦い)、237年続いた室町幕府を滅ぼしました。ちなみに、この時元号が「元亀」から「天正」に改元されています。
「刀根坂の戦い」で朝倉・浅井軍大敗、滅亡への第一歩
天正元年(1573年)8月、信長は近江国へ出陣して浅井攻めを開始します。浅井長政は5000人の兵とともに小谷城に籠城して信長の猛攻に耐えますが、小谷城のすぐ西にある山本山城の城主、阿閉貞征が織田軍に寝返ってしまいます。すぐそばの城が敵軍にとられたわけですから、長政は大ピンチです。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。