三方ヶ原の戦い(1/2)家康がまさかの脱糞!?「三方ヶ原の戦い」~武田信玄VS徳川家康

三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い

記事カテゴリ
事件簿
事件名
三方ヶ原の戦い(1573年)
場所
静岡県
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浜松城

浜松城

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戦国時代を生き残り、260年にわたって続く江戸幕府を築いた徳川家康。そんな家康が思わず死を覚悟したと言われる戦いが、元亀3年12月22日(1573年1月25日)に武田信玄と三方ヶ原(静岡県浜松市)で戦った「三方ヶ原の戦い」です。徳川軍は大敗し、家康は逃走する途中、恐怖のあまり脱糞したというエピソードでも有名ですが、現在では誤りであるという説が有力です。資料ごとに内容が異なるため幾多の謎が残る「三方ヶ原の戦い」について、今回は詳しく解説します。

三方ヶ原の戦いの背景

「三方ヶ原の戦い」は元亀3年12月22日(1573年1月25日)に、徳川家康・織田信長連合軍が武田信玄と三方ヶ原(静岡県浜松市)で戦った合戦です。この当時の情勢と言えば、信長と対立を深めていた室町幕府の第15代将軍の足利義昭が、武将たちに信長を討伐するよう呼びかけた、いわゆる「第2次信長包囲網」のころです。

当時、信玄は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで弱体化した今川氏を攻め、永禄12年(1569年)に駿河国(静岡県中部)を得たばかり。信玄は、「次は家康が治める三河(愛知県)攻めじゃ!」と考えていました。そんななか大義名分というべき信長包囲網の話が将軍からあったわけですから、信玄にとって大きなチャンスでした。

また、信玄はこれまで北条氏と争っていましたが、元亀2年(1571年)の北条氏康の死を契機に、北条氏との同盟を復活させています。さらに長年のライバル、上杉氏に対しては、本願寺と組んで越中(富山県)で大規模な一向一揆を発生させてけん制。周囲を落ち着かせたうえで、いよいよ徳川領と織田領に攻め込む「西上作戦」を開始します。

一方、家康と言えば三河に加え、駿河侵攻で遠江(静岡県西部)をゲット。このとき家康は信玄と協力関係にありましたが、信玄は遠江獲得を邪魔する動きを見せたため不信感を抱きます。隣国に強豪の信玄の領地があるわけですから、家康は警戒していたことでしょう。そんななか信玄が攻めてきたわけです。

西上作戦とは?

武田信玄の「西上作戦」とはどういうものだったのでしょうか。まず、信玄は軍を3つに分け、遠江・三河・美濃(岐阜県)に攻め込みました。意図については諸説ありますが、

  1. 都への上洛を前提としていた
  2. 徳川家康の治める遠江と三河を平定することが目的
  3. 上洛を前提に織田信長を倒すための戦い

といった説が主なものです。
元亀4年(1573年)、作戦の途中で信玄が亡くなってしまうため、結局何を意図していたものなのかがはっきりしておらず、議論が続いています。

さて、9月29日、先行隊として山県昌景(5000)が出陣し、三河に攻め込みます。そしてその軍から秋山虎繁(信友)率いる別動隊(2500~5000)が分かれて東美濃に進軍し、信長の叔母であるおつやの方が治める岩村城を落としています。

岩村城の戦いは籠城戦でした。おつやの方は信長の援軍を待ちますが、信長は他の戦もあって助けることができません。結局、虎繁がおつやの方との婚姻を条件に無血開城を申し入れ、おつやの方はこれを了承する形で11月14日に開城しました。

一方、信玄率いる本隊(2万~2万2000)は10月3日に出陣後、10日に遠江に侵入。徳川方の城を攻略しながら進み、13日に偵察に来た徳川軍と一言坂で戦います。三方ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる「一言坂の戦い」と呼ばれるこの戦は武田軍が勝利しました。家康は本多忠勝の活躍に助けられて浜松城に帰還します。なお、この戦いの後「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八(=忠勝)」という狂歌が流行ることになります。

一言坂の戦いで勝利した武田軍は、遠江北部にある、家康にとって重要な拠点である二俣城を包囲。山県昌景の別動隊と合流して城を攻めますが、なかなか落とすことができません。そこで信玄が考えた作戦が、「水断ち」作戦。二俣城には井戸がなく、水をくむために近くの天竜川から釣瓶で水を汲み上げていましたが、この施設を壊して水の手を断ちました。この作戦が功を奏し、徳川方は12月19日に降伏し開城します。信玄は依田信蕃を押さえとして城に置き、12月22日に浜松城にむけて出発します。いよいよ三方ヶ原の戦いの始まりです。

三方ヶ原の戦い①武田軍、浜松城を素通り!?

二俣城の戦い後、徳川家康は「つぎは本拠地の浜松城に信玄が攻めてくるのでは」と考え、城の防備を固めていました。織田信長からも3000人の援軍が到着しており、着々と戦の準備を進めていた家康。ところが武田信玄は浜松城に向かう途中、三方ヶ原で進路を変え、浜名湖方面に向かったのです。浜松城を素通りして三河に攻めるぞ、と言わんばかりの挑発行為でした。

家康はこの挑発に対して出陣を決意。徳川軍は援軍を含めても1万1000程度で、武田軍は約2万7000(3万、4万との説も)。劣勢は明らかでした。「このまま信玄を放置しておくべき」と出陣に反対する家臣を振り払う形で家康は出陣を決意します。

こんな不利な状況のなか、家康はなぜ出陣したのでしょうか?
諸説ありますが、主に以下の4つの説が出されています。

  1. 挑発と知りながらも、武士の誇りを守るためにあえて出陣した
  2. 追撃のチャンスだと考えて武田軍を背後から襲おうと考えた
  3. 信長率いる大軍が三河に向かっている最中だったため、信長に見捨てられないためにも出陣せざるを得なかった
  4. 偵察隊の小競り合いからなし崩しに広がり戦になった

いずれにせよ、負け戦覚悟でも出陣しなければならない、そんな状況だったということでしょう。

三方ヶ原の戦い②魚鱗の陣VS鶴翼の陣

さて、徳川軍の出陣に対し、武田軍は「計画通り」とばかりに反転し、三方ヶ原で「魚鱗の陣」で待ち受けました。魚鱗の陣とは、魚の鱗の形のように中央を突出させて三角形を作る陣形で、三角形の頂点が敵と接しています。局所的に攻撃するのに向いている形で、徳川家康の首を取るために狙いを絞ったのではと推察されます。

対する家康は「鶴翼の陣」を展開します。これは兵をV字型に大きく左右に広がるように布陣するもので、鶴の翼のような形です。敵を誘い込んで翼を閉じて包囲するのに適しています。そもそも人数で劣っているため、鶴翼の陣を展開してもあまり効果はなかったのではと思いますが、家康としてはもう武田軍の本隊は立ち去っているという想定があった、または勝ち目のない戦いの中、すこしでも兵が多くいるように見せようとした、いざという時に逃げやすいように広がっていた、などと言われています。

そして午後4時ごろ、戦が始まるきっかけはまたしても武田軍の挑発行為からでした。徳川軍に石つぶてを投げ始める武田軍に対し、大久保忠世など一部の徳川軍の武将たちが命令を待たずに突出して武田軍に攻めかかります。

最初は徳川軍が勢いに乗って優勢でしたが、次第に数に押されて劣勢になり、ついに軍は総崩れになってしまいます。そしてわずか2時間で徳川軍は大敗してしまいました。一説によれば、武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍の死傷者は2000人だったとのこと。家康は必死で逃げ、追いすがる武田軍の山県昌景隊に対し、夏目吉信などの身代わりを立てることで何とか浜松城に逃げ延びました。

浜松城に到着した後、家康は城のすべての城門を開いてかがり火を焚く「空城計」を実施します。これはあえて自陣に敵を招き入れることで「ひょっとして罠では?」「援軍がいるのでは?」と敵を疑心暗鬼に陥らせる心理的計略でした。失敗すると全滅することもありうる作戦ですが、これが見事にはまり、昌景隊は引き上げていきました。

三方ヶ原の戦い③家康、脱糞!?

三方ヶ原の戦いのもっとも有名なエピソードと言えば、徳川家康が武田軍から逃げる際に恐怖から脱糞した、という話ではないでしょうか。浜松城に到着した後、家臣の大久保忠隣から脱糞を指摘され「これは味噌だ」と苦しい言い訳をしたという話が伝わっています。

三方ヶ原の戦いの記事には続きがあります

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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