天正壬午の乱(2/2)徳川vs上杉vs北条!本能寺の変直後の争乱

天正壬午の乱

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記事カテゴリ
事件簿
事件名
天正壬午の乱(1582年)
場所
長野県
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松本城

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上田城

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沼田城

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関係する人物

撤退を知った景勝はすぐさま北信濃に出陣します。森長可が去った海津城を占拠し入城したほか、上杉家で匿っていた信濃守護職一門だった小笠原洞雪斎を擁立し、木曾義昌のいる深志城を攻めて義昌を追い出しました。このとき、真田昌幸は景勝に臣従し、深志城に行く途中にある城の城主たちを調略するなど活躍しています。

【信濃国】上杉景勝vs北条家

上杉景勝が信濃を攻めるなか、北条家も信濃をわがものにしようと南から侵攻してきます。氏政の弟の北条氏邦は上野国の沼田城を奪い、昌幸のいた岩櫃城と沼田城を分断しようと間に城を作り、昌幸を苦しめます。結局上杉に臣従してわずか半月後の7月9日には、昌幸は上杉家から北条家に寝返ることになりました。

北条家は上野国をほぼ制圧した後、碓氷峠を越えて信濃国衆を味方につけ、佐久郡を平定します。佐久郡の小諸城には当時徳川方の依田信蕃がいましたが、北条家に攻められて小諸城から逃げ出しています。その後、上杉家に追いやられた木曾義昌も北条軍に加わりました。

南下する上杉軍と北西に進む北条軍。両者は7月14日、川中島の千曲川で対峙することになります。

決戦か、と思いきやここにきて存在感を出してきたのが徳川家康です。南からだんだんと信濃国に侵攻し、北条家が獲得した領地に迫ります。領地が近い家康との対峙を選択した北条氏直は、挟撃を恐れて上杉軍と講和することを決意しました。

一方の上杉景勝は、新出田重家の謀反の直後での信濃攻めです。本能寺の変をきっかけに一度は落ち着いた重家との合戦はいつ再燃するかもわかりません。早々に重家と決着をつけて自領を落ち着かせたいところです。

こうした両者の思惑が一致したことで7月29日には和睦の合意がなされました。和睦の結果、上杉家は信濃北部4郡を所領するとともに、川中島以南には出兵しないことになりました。後ろから攻めたてられることのなくなった北条家は甲斐国を得ようと家康との戦いに挑みます。

【信濃・甲斐国】徳川家康vs北条家

さて、これまで徳川家康の話が出てきませんでしたが、家康は本能寺の変の後、どのように天正壬午の乱にからんでいったのでしょうか。

本能寺の変が発生したとき、家康は酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政などの少人数の家臣たちと堺(大阪)を見物中でした。本能寺の変の同日に知らせを受けとった家康は、光秀から命を狙われる可能性があるため急いで自領の三河国(静岡県)に戻ろうと出発します。伊賀を通過して海を渡り、6月4日に三河国に到着しました(神君伊賀越え)。そして、光秀の討伐準備に合わせ、空白状態となった甲斐と信濃の攻略の準備も開始します。6月10日には甲斐国の河尻秀隆に美濃へ戻るよう使者を派遣しました。

家康は6月14日に光秀討伐軍を率いて出発しますが、翌日光秀の死を聞き、真偽を確認した後に21日に浜松城に引き返しました。その後、家康は本格的に甲斐国と信濃国攻略に注力します。

まず家康がしたことは、甲斐と信濃の国人衆たちを取り込むこと。地元で力を持つ彼らを味方につけるとともに、甲州征伐の際に匿っていた依田信蕃など旧武田家家臣たちも自軍に取り込みます。一方で酒井忠次や奥平信昌に南信濃の平定を任せつつ、7月9日には甲府城に入りました。

その後、諏訪郡を取り込もうと高島城の諏訪頼忠を説得しますが失敗します。さらに、深志城では小笠原貞慶が酒井忠次・奥平信昌との対立を理由に北条家に寝返ってしまい、信濃攻略はなかなか進みません。

そうこうしているうちに北条軍が甲斐方面に南下し始めてきたため、家康は対北条対策として甲斐国の新府城に入城しました。一方の北条氏直率いる北条軍は若神子城に入ります。両者は80日間対峙しました。

さらに、北条軍は駿河国や武蔵国方面から別動隊を動かして家康を背後から襲おうと計画します。8月12日には北条氏忠と徳川方の鳥居元忠、平岩新吉が甲斐国の黒駒で戦います。北条1万対徳川2000と北条軍が有利のようでしたが、蓋を開けてみれば徳川軍が勝利。この戦いをきっかけに、北条軍を見限る武将が出始めました。家康は北条方だった木曾義昌を味方につけることに成功。そして、9月には真田昌幸の引き込みに成功します。

戦のキーマン、真田昌幸

実は徳川軍は信濃国攻めの際に兵糧不足に悩まされており、真田昌幸を味方につけることで兵糧を得ようとしていました。家康から直接書状を渡したり、昌幸ゆかりの人物に取りもってもらったりと、相当力を入れて勧誘した様子がうかがえます。家康は昌幸に対し、現在の支配地域に加え、上野国の箕輪と甲斐国内の2000貫文の土地、信濃国の諏訪郡を与えることを明記した宛行状を発行しています。

昌幸としては、もともと北条家から沼田城を得る予定だったところ、北条家が「沼田城は北条のもの」と公言したことで、北条家に不信感を抱いていました。沼田城は西上野の地にあり、3つの川に囲まれた台地を利用した崖城で、越後と北関東、北信濃を結ぶ軍事上の重要拠点で、昌幸としてはぜひ押さえたい所です。

こうして昌幸は徳川家に寝返り、信濃国にいた依田信蕃に兵糧を提供。さらに沼田城を北条家から取り戻します。北条家は沼田城を取り返そうと攻めますが、真田軍の激しい抵抗でかないませんでした。

さらに、10月には依田信蕃が信濃国の小諸城を攻めて大道寺政繁を駆逐したほか、佐久郡の内山城を奪取。加えて昌幸と碓氷峠を占領します。こうした動きの結果、北条軍は補給路を絶たれてしまいます。深志城も徳川方が奪還しており、北条家は信濃で窮地に立たされます。

戦局を打開しようとするも、常陸国(茨城県)の佐竹義重が関東で行動を活発化させており、北条方の館林城を攻撃してきました。危機感を募らせた氏直は講和を決意します。

こうした背景もあり、10月29日に織田信長の次男の織田信雄が仲介人を務める形で北条・徳川は講和します。これにより、甲斐国と信濃国は徳川家が支配することが決定しました。上野国は北条家の切り取り次第とし、沼田城は真田昌幸から北条方に返すことになりました。さらに、和睦の条件として氏直と家康の次女の督姫が結婚しています。

この和睦は真田家と徳川家の争いのきっかけになりました。そもそも徳川方に下る際、沼田城は真田家のものになるはずでした。このため、昌幸は沼田城の引き渡しを拒否。徳川家から離反して上杉家に従属しました。これにより天正13年(1585年)第1次上田城の戦いが起こり、以後も両家の対立は続いていくことになるのでした。

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関係する人物
栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.04