天正壬午の乱(1/2)徳川vs上杉vs北条!本能寺の変直後の争乱
天正壬午の乱
天正10年(1582年)6月、「本能寺の変」で信長が討たれた後の混乱に乗じて起こったのが「天正壬午の乱」です。信長が治めていた旧武田領を徳川家、上杉家、北条家が3つ巴になって争うなか、旧武田領で信長に臣従していた真田家をはじめとした国人衆も自領を守るため参戦します。広範囲にわたって数度の戦いが発生しており、各武将の思惑が入り乱れているためわかりにくい戦いですが、今回はなるべく時系列に沿って解説します。
天正壬午の乱とは?
天正壬午の乱は、天正10年(1582年)6月から10月にかけて、旧武田領(甲斐国、信濃国、上野国)を徳川家・上杉家・北条家が争った合戦の総称です。それぞれ現在の山梨県・長野県・群馬県にあたります。3国を中心に各地で戦が起こっており、登場する武将も有名な人物が多いことが特徴です。
3家のうち徳川家は徳川家康、上杉家は上杉景勝、北条家は北条氏政と息子の氏直が中心となって戦っています。そして、乱の最中に自領を守りつつ勢力を拡大するため、上杉家→北条家→徳川家と次々と主君を変えていったのが、真田幸村(真田信繁)の父である真田昌幸です。
天正壬午の乱は同時期に各国で合戦が起きているため、少しわかりにくくなっています。まずは各家の動きについて大まかに押さえておきましょう。
- 織田信長の死後の混乱に乗じて、旧武田領の国衆が一揆をおこして織田家家臣を追い出す
- 上野国を北条家が奪取
- 信濃国を巡って上杉家と北条家が争うも、信濃北部4郡を上杉家が確保する形で講和
- 信濃国・甲斐国を巡って北条家と徳川家が争い、徳川家が2国を得る形で講和
結局徳川家が旧武田領で勢力を大きく伸ばすことになったことがわかると思います。では、なぜそうなったのでしょうか?詳しく見ていきます。
武田家滅亡後の旧武田領
天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐で武田家は滅亡しました。その後、信長は旧武田領を部下たちに分割統治させることになります。主な区分けは以下の通りです。
- 【信濃国】
- 川中島4郡(高井・水内・更級・埴科郡)を森長可
小県郡、佐久郡を滝川一益
木曾郡(本領安堵)と安曇郡・筑摩郡を木曾義昌
信濃諏訪郡を河尻秀隆
伊那郡を毛利長秀 - 【上野国】
- 滝川一益
- 【甲斐国】
- 河尻秀隆(穴山梅雪の河内領以外)
- 【駿河国】
- 徳川家康
滝川一益や河尻秀隆は2回名前が出てきますが、国をまたいで隣接した領地を得ています。
ちなみにこのとき真田家は旧領の一部を与えられた上で滝川一益の配下に入っています。
本来であれば、甲州征伐で信長に協力して出兵した北条氏政にも所領を与えられるはずなのですが、結局何ももらえず不満を募らせる結果となりました。
「本能寺の変」発生、旧武田領から織田家家臣が追い出される
甲州征伐の終了から3ヶ月後の天正10年6月2日、本能寺の変で織田信長が討たれると、数日のうちにその情報は周囲に伝わり、旧武田領を治めていた織田家家臣たちは大混乱に陥りました。統治し始めたばかりの領地は完全に掌握できているわけがなく、国衆たちの反乱がおきる可能性があったからです。さらに、旧武田領の周囲には上杉家の治める越後国(新潟県)と北条家の治める相模国(神奈川県)があり、混乱に乗じて攻めてくるかもしれません。旧武田領は内にも外にも問題が多い「内憂外患」の状態にあったわけです。
そして織田家家臣たちの懸念通り、本能寺の変の知らせを受けて各国衆たちが動き始めます。6月12日には上野国で滝川一益の部下だった沼須城主の藤田信吉が離反し、一益の甥である滝川益重のいる沼田城を攻めます。一益の援軍もあり沼田城は持ちこたえ、信吉は上杉家に亡命しました。
ちなみに、このころ旧武田領を治めていた他の織田家家臣たちはどうしていたかというと、旧武田家家臣たちによる一揆をきっかけに撤退しています。当時越後に侵攻中だった森長可は本能寺の変を知るやいなや越後から撤退します。その後、配下から裏切り者が多く出たこと、一揆が発生したことなどから旧武田領から美濃に逃げ帰りました。
毛利長秀も一揆に追い立てられ尾張に戻ります。一方、河尻秀隆は甲斐国人衆の一揆を契機に旧武田領から逃げ延びようとするも、6月18日に一揆衆により殺害されています。
【上野国】滝川一益vs北条家
滝川一益に話を戻します。滝川一益は6月11日、本能寺の変を知った北条氏政から、引き続き織田家に忠誠を誓い続けることを伝えました。当時、北条家は織田家と同盟関係にあったので当然と言えば当然の行いですが、氏政はその舌の根の乾かぬうちに、氏直と共にすぐに一益に向けて出兵。6月16日から19日にかけて「神流川の戦い」が起こります。
上野国と武蔵国の国境近くで発生したこの戦い、滝川軍は1万8000だったのに対し、北条軍は5万と、数の上では北条軍が圧倒的に有利でした。このため、滝川軍は6月18日の初戦では北条軍に勝利しましたが、兵力差や地元の国衆の協力があまり得られなかったことなどにより、翌19日には北条軍に壊滅させられてしまいます。
一益は必死に逃げ延び、倉賀野城を経て厩橋城に退却。箕輪城に移り地元の国衆との別れの宴を開いたのち、碓氷峠を抜けて小諸城に到着します。なお、沼田城はこのとき、一益の部下の真田昌幸に還されています。その後、木曽谷を通過して清洲城に入ったのち、7月に伊勢の長島城に戻りました。
なお、清洲城では6月27日に織田家の後継者を選ぶための「清洲会議」が行われています。「織田四天王」とも称され、一時は豊臣秀吉をしのぐ権勢を誇っていた一益も本来は会議に参加するはずでしたが、対北条戦で間に合いませんでした。この後、一益の力は急速に衰えていくことになります。
上杉景勝、北信濃に出陣
一方、上杉景勝は6月中旬には本能寺の変発生を知り、北信濃の川中島攻略に乗り出します。本能寺の変直前には、柴田勝家率いる織田軍に攻められたことで危機的状況に陥っていました(魚津城の戦い)。これは上杉謙信の後継者争いの「御館の乱」の際に味方をしてくれた新出田重家と恩賞でもめたことが原因で、重家が織田信長と通じて離反したことから起きた戦いです。戦いにより魚津城は落城し、勝家は森長可、滝川一益とともに春日山城に進軍していましたが、本能寺の変の知らせを聞いて撤退しています。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。