稲葉山城の戦い(2/2)織田信長が美濃を制覇
稲葉山城の戦い
稲葉山城奪取の事件はあっという間に世間に知れ渡ります。特に美濃攻略を虎視眈々と狙っていた信長はすぐさま半兵衛に使者を出し、美濃の半分を渡すことを条件に稲葉山城の明け渡しを要求。しかし半兵衛はこれを拒否し、1年後には龍興に城を返しています。無事に稲葉山城に復帰した龍興でしたが、斎藤家の衰退はさらに加速化していきました。
半兵衛の動きは「主君を諫めるためだった」とも「実は謀反だった」との説もあり、真相は謎のままです。その後、半兵衛は弟に家督を譲って隠棲します。信長が豊臣秀吉を使者に、半兵衛を織田軍に勧誘するのは稲葉山城の戦いの後のことでした。
さて、一方の信長は小牧山城から犬山城を攻め、犬山城から中美濃に侵攻。次々と城を攻め落とします。永禄8年(1565年)には美濃・加茂郡の加治田城の城主、佐藤忠能が信長に寝返ります。龍興は兵を派遣して加治田城を攻めました。「堂洞合戦」と呼ばれるこの合戦には信長方が勝利。これにより信長は中濃地方を得ることになりました。
美濃三人衆の裏切り!「稲葉山城の戦い」
永禄10年(1567年)8月、「美濃三人衆」と呼ばれる斎藤家の重臣、安藤守就、稲葉一鉄、氏家直元が信長に寝返ります。3名とも道三のころから斎藤家に仕えていた古参の家臣。安藤守就は竹中半兵衛とともに稲葉山城の乗っ取りに参加していましたね。
3名は信長に対し、味方に付くことを明言するとともにその証拠として人質を差し出すことを提案します。信長は承諾し、村井貞勝と島田秀光を人質の受け取りのために派遣しました。ところが信長、人質を受け取るのを待たずになんと稲葉山城に向けて出兵してしまいます。
「信長公記」によれば、信長は即座に兵を率いて美濃に攻め込み、稲葉山城の隣の山、瑞龍寺山に布陣しました。敵だけでなく味方もびっくりするほどの素早さです。
斎藤龍興達が「あの軍は敵?味方?」と迷っているうちに、信長は稲葉山城下に攻め込みます。城下町を焼き討ちして稲葉山城を孤立させたのち、城の周囲に鹿垣を作って包囲。このとき信長の陣に美濃三人衆がやってきて、あまりに素早い信長の行動にびっくりしたといいます。
龍興は半月ほど籠城したものの信長に降参し、長良川を経由して伊勢に脱出します。こうして稲葉山城の戦いはあっさりと終わり、斎藤氏は滅びることになりました。斎藤道三から「美濃国譲り状」を受け取ってから約11年後、信長はこうして美濃統一を成し遂げました。
ちなみにその後の龍興はと言えば、三好三人衆と結託して反信長姿勢を貫きます。また、信長を苦しめた石山本願寺の顕如と協力関係にあったようです。最期はよくわかっていませんが、朝倉義景に保護され、天正元年(1573年)に信長が朝倉家を滅亡させた「刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)」の際に26歳で亡くなったとされています。
秀吉の「一夜城」は実話?
美濃を巡る戦いには、豊臣秀吉による「墨俣一夜城」という有名な話が残っています。「信長公記」には書かれておらず、江戸時代後半の「絵本太閤記」が初出のようで、創作ではないかとの説が有力です。昭和初期に発見された、豊臣家に仕えた前野家による「前野文書(武功夜話)」に細かい記述はありますが、前野文書は偽書の疑いがかけられており、信ぴょう性に欠けます。とはいえとても面白い話なので、簡単に紹介します。
永禄9年(1566年)、稲葉山城を攻略するために墨俣に城を作ろうと考えた信長。最初は佐久間信盛に、次に柴田勝家に建設を命じるものの、両名とも斎藤軍に攻められ失敗してしまいます。そこで名乗りを上げたのが秀吉で、「7日で完成させます」と明言。信長に任された秀吉は、蜂須賀小六をはじめとした土豪集団「川並衆」の協力を得て、斎藤軍と戦いながらも城の建設を進めます。
秀吉が取った方法は、今でいうプレハブ工法。墨俣は川に囲まれた土地だったことを利用し、川の上流で木材を事前に加工し、夜にこっそり川に流して墨俣まで輸送します。そして現地でパーツを組み立てて馬防柵を作り、敵と戦いながら3日間で砦を完成させました。一夜「城」とありますが、実際は簡単な砦のようなものだったようです。
ちなみに「信長公記」には永禄4年(1561年)に墨俣に砦があったことが書かれています。当時は龍興側の拠点でしたが、信長が奪取。その後、信長が美濃の攻略方法を西美濃攻めから中・東美濃攻めに変えたことなどから、砦は廃棄されました。
「稲葉山城」から「岐阜城」へ
稲葉山城の戦いで、信長は稲葉山城の城下町を焼き払ってしまいました。せっかく奪った稲葉山城でもこのままでは宝の持ち腐れ。信長は城下町の再建に向け、家臣たちを住まわせるとともに「楽市楽座」を設けて商業を発展させます。地名をそれまでの井之口から「岐阜」に変更し、稲葉山城も「岐阜城」へと名を変えました。そして信長は岐阜城を本拠地として天下統一に乗り出します。信長はこのころから「天下布武」の朱印を使い始めています。
天正4年(1576年)に安土城が築かれ、信長が安土城に本拠地を移した後は、岐阜城には信長の長男、織田信忠が入城。信忠が本能寺の変で死亡した後は数代の城主を経て、慶長6年(1601年)に廃城となりました。
現在は昭和31年(1956年)に建てられた鉄筋コンクリート造りの天守閣が見学できます。当時の面影はありませんが、信長が岐阜城から見た「天下」を天守閣から眺めてみるのも一興かもしれませんね。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。