稲葉山城の戦い(1/2)織田信長が美濃を制覇

稲葉山城の戦い

稲葉山城の戦い

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事件簿
事件名
稲葉山城の戦い(1567年)
場所
岐阜県
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永禄10年(1567年)8月、織田信長は美濃国(岐阜県)にあった斎藤氏の本拠地「稲葉山城」を攻め落として斎藤龍興を下し、美濃を平定しました。「稲葉山城の戦い」と呼ばれるこの戦い以降、信長は稲葉山城を「岐阜城」と改称して拠点化し、本格的に天下統一に突き進みます。難攻不落と名高い稲葉山城を信長はどう攻め落としたのでしょうか?今回は稲葉山城の戦いと戦いに至るまでの経緯を説明します。

織田家VS斎藤家 美濃を巡る争い

稲葉山城の戦いが起こる遥か前から、織田家と斎藤家は美濃を巡って争っていました。もともと美濃は土岐氏が治めていましたが、家督争いをきっかけに斎藤道三(当時は斎藤新九郎利政と名乗っていた)が力を強めていき、最終的には道三が主君の土岐頼芸を追い出して美濃を乗っ取ります。

道三に美濃を乗っ取られた頼芸は尾張国に追放されていましたが、信長の父、織田信秀が頼芸を支援。朝倉孝景らと協力のもと、美濃を土岐氏の手に取り戻そうと数回にわたり美濃に攻め込みます。天文16年(1547年)には、道三が拠点としていた稲葉山城の城下まで到達しましたが、道三の反撃をうけて大敗。これが「加納口の戦い」です。

こうした情勢の中、信秀は道三との和睦を決意します。そして天文17年(1548年)、和睦の証の意味も込めて、道三の娘の帰蝶が信長に嫁ぎました。帰蝶は信長の正室「濃姫」のこと。これにより、両家の美濃を巡る争いは一段落しました。

道三は信長のことを高く評価していたようで、大田牛一による「信長公記」によれば「私の子どもは将来、信長の門前に馬をつなぐ(=信長に従って家来になる)だろう」と話したというエピソードが残っています。

斎藤道三の死後、再び美濃を巡り争い勃発

一度は落ち着いた美濃を巡る争いですが、斎藤道三が弘治2年(1556年)に息子の斎藤義龍に「長良川の戦い」で討たれたことで、両家の関係は再び悪化します。戦いのきっかけは、義龍を道三が疎んじたこと。道三は義龍に家督を譲った後もいろいろと口を出していました。また、義龍の弟2人をかわいがっており、義龍は「自分は廃嫡されるのでは?」と危機感を募らせていました。

加えて義龍は道三ではなく土岐頼芸の子だったという噂もあったようです。「やられる前にやる」と考えたのか、義龍は弘治元年(1555年)11月、弟2人を殺害してしまいます。これにより義龍と道三は決裂。長良川の戦いが起こるのです。

長良川の戦いでは義龍が有利でした。義龍は旧土岐家家臣を味方につけており、国盗りの経緯から道三は恨まれていたためです。信長は道三に加勢しようと援軍を送りますが、残念ながら間に合わず、道三は討ち死にします。

勢いづいた義龍は信長の援軍を攻めます。「大良河原の戦い」と呼ばれる戦いは「道三討ち死に」の報を聞いた信長の撤退により終了。「信長公記」によれば、信長はこのとき兵を逃がすために殿を務めたそうです。この戦いを機に、織田家と斎藤家は11年にわたって美濃の支配権を争うことになります。

なお、道三は長良川の戦いの際に「美濃国を信長に譲る」という遺言状(美濃国譲り状)を信長に送っています。遺言状は現在、妙覚寺や大阪城天守閣が所蔵していますが、真偽については今も議論されているとのこと。とはいえ、遺言状を送ったということは他の資料からも見て取れるようで、道三が信長を高く評価していたことは間違いのないことでしょう。

その後、信長は義龍と美濃を争いますが、両者は一進一退の攻防を見せており、信長にとって義龍はなかなかの強敵だったようです。ところが義龍は永禄4年(1561年)に35歳の若さで病死してしまいます。跡を継いだのはまだ14歳の息子の斎藤龍興。この龍興が斎藤家滅亡の原因になります。

人望がなかった斎藤龍興

「マムシ」と称された祖父の斎藤道三、その祖父を討ち取った父の斎藤義龍とは異なり、斎藤龍興は「凡庸」と称されていました。龍興は家督を継いだ後、斎藤家の中でも評判が悪い斎藤飛騨守を重用し、側近たちと遊興にふけっていました。そんな態度ではまともな家臣達から信頼されるわけがありません。坂井政尚や森可成、明智光秀など、龍興に見切りをつけて他家に流れる家臣も出てきました。

一方の信長は、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取って天下に名乗りを上げた後、本格的に美濃攻略に乗り出しています。永禄6年(1561年)、信長が斎藤義龍の死をチャンスと見て西美濃に攻め込んできた「森部の戦い」では前田利家の活躍もあって信長方が勝利しました。

勢いのある織田家と落ち目の斎藤家。斎藤家が不利のようですが、龍興を見捨てなかった有能な家臣たちの活躍により、龍興はなんとか斎藤家を守ることができていました。特に天才軍師として知られる竹中半兵衛(重治)は、対信長戦で幾度となく活躍しています。

その活躍の1つが、森部の戦いの数ヶ月後に起きた信長の「稲葉城攻め」です。信長は半兵衛の「十面埋伏(じゅうめんまいふく)の陣」という、伏兵を巧みに使った策のせいで、稲葉山城を攻めきれず退きました。

ちなみに同時期、犬山城にいた信長の従弟の織田信清が信長に反旗を翻して龍興についたことで「小口城の合戦」が発生。信長は犬山城の支城の小口城を攻めるものの敗退しました。これにより、信長は犬山城の近くに小牧山城を建立して、清州城から拠点を移して美濃攻略に取り組むことになります。

さらに、永禄8年(1563年)の「新加納の戦い」でも半兵衛は活躍します。稲葉山城の南東にある新加納で合戦の舞台でしたが、半兵衛はここでも伏兵を巧妙に使って織田軍を圧倒しました。織田軍の敗戦か?と思いきや、ここで登場するのが木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)です。稲葉山の尾根に大量の松明をともすことで「稲葉山方面に織田軍の援軍が来た」と思わせる作戦で、稲葉山城に兵をほとんど残していなかった斎藤軍は急いで城に引き上げた、という逸話が残っています。結局合戦は引き分けで終了しました。

斎藤龍興に竹中半兵衛が猛抗議、稲葉城占拠

斎藤龍興の元で活躍する竹中半兵衛ですが、龍興は半兵衛を軽視し、疎んじていました。さらに龍興の側近、斎藤飛騨守からは度重なる嫌がらせを受ける半兵衛。飛騨守の家臣から小便をかけられたこともあったようで、度重なるパワハラにさぞかしストレスがたまったでしょう。また、奸臣にいいように操られる龍興を見ていて「斎藤家は大丈夫なのか」との危機感を覚えていたようです。

そこで半兵衛は思い切った策を実行に移します。永禄7年(1564年)、16人(17人の説も)という少人数で稲葉山城を奪取するのです。夕刻に弟を見舞いに来たという名目で城を訪れ、武器を長持ちに隠し、門番には「皆にふるまう食事と酒」と偽って無事に城内に侵入。武具を身につけて戦いを開始します。飛騨守を殺害した後、城内を素早く制圧するとともに、待機していた義父の安藤守就が率いる軍が駄目押しで攻め寄せます。龍興は寝間着姿で城から逃げ出しました。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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