桶狭間の戦い(2/2)織田信長がまさかの勝利!?
桶狭間の戦い
織田軍2000人VS今川軍4万5000人。信長方の『信長公記』の記述なので今川軍の人数を「盛った」可能性もありますが(2万5000人程度だったのでは、という説も)、いずれにせよ少人数が大人数を撃破したことは確かです。なぜそんなことが可能だったのでしょうか?考えられる勝因をまとめてみたいと思います。
- 勝因その1
- 徹底した情報管理
前日に開催した会議で世間話に終始したことからわかる通り、信長は作戦を誰にも漏らしませんでした。このように内通を予防するための情報管理が勝因の1つだったと言えるかもしれません。 - 勝因その2
- 丸根砦と鷲津砦の陥落と、佐々政次、千秋四郎の突出はブラフだった
わざと丸根砦と鷲津砦を今川軍に陥落させ、少人数の先発隊を敗れさせることで、義元の油断を誘ったという説があります。また、先発隊の動きが今川軍の布陣場所などの情報を得ることにつながったかもしれません。 - 勝因その3
- 急な大雨という幸運
こればかりは信長の強運としかいいようがありませんが、急な雹交じりのゲリラ豪雨が信長を後押ししました。今川軍にとっては真正面から嵐がやってきたわけですから、天候が回復したころは疲弊していたでしょうし、織田軍の接近にも気づけませんでした。まさに「運は天にあり」だったのでしょう。 - 勝因その4
- 今川軍を分散させた
そもそも全4万5000の軍のなかには、兵站を確保するための荷駄兵なども多くいました。また、砦攻めの隊と本隊というように、今川軍は信長によって分散させられていました。実際義元とともに行動していた軍は5000人から6000人程度だった、との説があります。実際は思ったよりも戦力差は少なかったのかもしれません。
桶狭間でも活躍していた、松平元康の動き
さて、義元が討たれた時、桶狭間の戦いに参加していたもう一人の有名人、後の徳川家康こと松平元康はどうしていたのでしょうか。『松平紀』などによれば、元康は大高城へ兵糧を運び込んだ後、丸根砦を攻略した後大高城を守っていました。そこへ義元の死を知らせる連絡が入ったので、慌てて撤退します。
周りの織田方の勢力に攻められながら必死に三河国に戻り、菩提寺である大樹寺に到着。非常に厳しい状況だったようで、元康はこのとき自害も考えたようですが、部下に諫められて取りやめました。今川家が岡崎城から撤退したことで、元康は5月23日に入城します。
今川家の前は松平家が岡崎城の城主で、元康が産まれたのも岡崎城でした。岡崎城を取り返した元康は西三河の平定に動き出します。しばらく今川家とともに信長と戦いますが、永禄5年(1562年)には水野信元の仲介で清須同盟を締結して和解しています。
桶狭間の戦い後の信長と今川家
桶狭間の戦いは「織田信長」という武将を広く世間に知らしめる結果になりました。信長は、美濃を平定した後、天下をめざして躍進を続けていきます。
一方、義元亡き後の今川家は、息子の今川氏真がその跡を継ぐも、桶狭間の戦いで重臣たちの多くが討ち死にしたこともあって弱体化。武田信玄に駿河を、家康が遠江国に侵攻したことで、永禄12年(1569年)に滅亡してしまいました。桶狭間の戦いは、両家の命運を分けた戦いであったといえるでしょう。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。