日米和親条約開国のきっかけとなった不平等条約の内容は?

日米和親条約

日米和親条約

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事件簿
事件名
日米和親条約(1854年)
場所
神奈川県・東京都・北海道・静岡県

ペリー来航から約1年後の嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、江戸幕府はアメリカと日米和親条約(神奈川条約)を締結し、箱館(現在の函館)と下田の2港を開港しました。この条約を機に幕府はイギリス、ロシア、オランダとも条約を締結することになります。今回は幕府が開国に一歩踏み出した「日米和親条約」について、直後に結ばれた「下田追加条約」とともに分かりやすく解説していきます。

浦賀沖に黒船来航

嘉永6年(1853年)6月3日、浦賀沖に4隻の「黒船」が姿を現し、江戸の人々の動揺を誘いました。マシュー・ペリー率いるアメリカ東インド艦隊です。

当時の江戸幕府は海外との外交や交易を制限するいわゆる「鎖国」体制でした。とはいえ、オランダや中国、朝鮮、琉球王国、蝦夷(北海道全島、樺太島、千島列島など)のアイヌ達とは窓口を開いており、交易をおこなっていました。

18世紀後半からロシアや英国、米国などの船が日本を訪れるようになると、幕府は異国船を排除しようとさまざまな法を定めます。代表的なのが文政8年(1825年)の「異国船打払令」で、訪れる異国船をすべて追い払うよう命じました。

この流れが変わったのが天保8年(1837年)に米商船のモリソン号を追い払った「モリソン号事件」と、天保11年(1840年)からのアヘン戦争のころからです。モリソン号事件での民間船への砲撃で幕府は批判されます。しかも幕府側の砲弾はモリソン号に届かなかったため、幕府の海防力の低さが明らかになったのです。アヘン戦争については天保13年(1842年)に隣国の大国・中国(清)がイギリスに敗れる形で終結したことで、幕府は諸外国に対する危機感を募らせました。このため幕府は天保13年7月には遭難船に限り燃料や水、食料などを与えて退去させる「天保の薪水給与令」を発布しています。

そんななかでやってきたのがペリー達の「黒船」でした。「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たった四はいで夜も寝られず」という風刺狂歌がありますが、黒船来航は日本中を巻き込む大騒ぎを引き起こすことになります。

ペリー達の目的は何だったのか

ペリーは蒸気船2隻、帆船2隻の艦隊を率い、時のアメリカ合衆国大統領・フィルモアの国書を持参していました。ペリー達、つまりアメリカの目的は、日本の開国と通商でした。当時、アメリカは太平洋における捕鯨のため、また清国(現在の中国)との通商のために寄港できる港を探していました。日本の港は、アメリカにとって食料や燃料を補給するために活用できる魅力的な場所だったのです。

実はペリーの来航は事前にオランダから予告されていました。アメリカが日本との通商を求めて艦隊を派遣するという情報は嘉永5年(1852年)に幕府の手元にあったのです。ただし、奉行レベルの上層部にとどまっていたため、現場の人間は黒船来航に大慌てでした。

黒船が浦賀沖にやってきたのは17時ごろ。すぐさま浦賀奉行所与力の中島三郎助が向かいましたが、アメリカ側は幕府の担当者の階級が低すぎると親書を預けることを拒否します。翌日から幕府は長崎に行くよう交渉しますが、アメリカ側は「親書を受け取れるレベルの高官でなければ渡せない」と拒絶し、「4日目の昼過ぎまで待つが、回答がない場合は江戸表に行く。その際に何が起こっても(=戦争が起きても)自分たちの意思通りに行動する」と恫喝。このとき幕府の敗北用の白旗を送りつけたという説もあります。しかもペリーは6月4日から浦賀の測量を開始し、6月6日には江戸湾に測量隊を派遣し、品川沖で空砲を鳴らすなどして幕府にプレッシャーを与えました。

幕府内は国書を受け取るか受け取らないかで大いにもめます。当時の将軍・徳川家慶は病床についていたため、老中首座阿部正弘が対応にあたりました。正弘は意見がまとまらない首脳陣を根回し等により上手くまとめ、国書を受け取る決議を成功させました。

そして6月9日、久里浜で浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見して国書を受け取りました。この際、幕府側はペリー達に対し、将軍の病気について説明し返答に猶予を求めました。ペリーは了承したうえで1年後の再来航を予告し、江戸に近づいて威嚇行動に出た後、6月12日に江戸湾を離れました。

ペリー来航に揺れる江戸幕府

ペリーが去って10日目の6月22日、徳川家慶は病没します。7月22日に徳川家定が跡を継ぐことが決まりましたが(宣下は10月23日)、病弱な家定は頼りになりません。このため引き続き阿部正弘がアメリカへの対応を担うことになりました。

正弘は米国大統領の国書の翻訳を朝廷に提出するとともに、7月1日、今後の対応について諸大名に意見を聞きます。7月3日以降は大名以下の旗本や民間まで幅広く意見を求めるという、前代未聞の諮問策に出ます。それだけペリーの来航が与えた衝撃は大きかったのです。

この諮問には700余りの答申が出ました。大名から約250、幕臣や民間人からは約450の意見が集まり、なんと江戸新吉原の遊女屋の主人からも意見書が出されています。内容としては現状を維持すべきという意見が多く、次いで消極的な開国策を主張する声が出されました。積極的な開国策を出したのはごく一部で、勝海舟や下総佐倉藩主の堀田正睦がその代表です。ちなみに堀田正睦は日米修好通商条約のときの老中首座です。

諮問でも名案は出ず、正弘は開国を見据えて国を整えていくことになります。品川に台場(砲台)を設置して海防強化に務めるほか、寛永12年(1635年)に出された500石積以上の船の建造を禁じる「大船建造の禁」を解禁して洋式軍艦を建造、オランダから蒸気軍艦を購入するなどさまざまな対策をおこないました。

2度目のペリー来航、条約締結に向け交渉開始

そうこうしているうちに嘉永7年(1854年)1月16日、ペリーがわずか半年で再来します。これは徳川家慶の病死を知ったアメリカ側が、他国に先を越されまいとしたからだと言われています。事実、ペリーが日本を去った直後の7月18日、ロシアからプチャーチンが長崎に来航し、国書を渡して開国交渉をしています。また、日本の準備が整わないうちに訪れて交渉を有利に進めようという思惑もあったようです。

ペリー率いる艦隊は蒸気船3隻、帆船6隻の9隻。1月16日に7隻が到着していましたが遅れて2隻が加わり、2月21日に9隻となっています。昨年訪れたとき以上に船を増やして威圧してくるアメリカ側に幕府は驚いたことでしょう。

日米間の交渉は、まず会談場所の選定からでした。江戸で老中たちと会談したいと主張するアメリカ側に対し、日本はこれを拒否。もめにもめた末、横浜の応接所で会談することになりました。

アメリカ側の中心人物はペリーと副官のヘンリー・アダムズ。対する日本側の「応接掛」は林大学頭(林復斎)を筆頭に江戸町奉行の井戸覚弘(前職は長崎奉行)、浦賀奉行の伊澤政義、目付の鵜殿長鋭の4名がメインでした。

2国間の交渉は難航します。アメリカ側が戦争を匂わせたりする一方、贈り物を贈りあったり感謝の宴を開いたりと、外交合戦が繰り広げられたようです。結局、日本側の「通商は承諾できない」という内容をアメリカ側が承諾し、物資補給や補給港の開港などを日本側が承諾しました。

こうして嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、横浜で12か条からなる日米和親条約が締結されました。なお、条約は漢文、英語、オランダ語と日本語版(漢文和訳版とオランダ語和訳版)の5種類あり、日本側は日本版(漢文和訳版)のみに事前に署名し、アメリカ側と同じ文書への署名を認めませんでした。このためペリーは英語版のみ署名しています。そのほかについては通訳や同行者などが署名しました。

また、日米和親条約には「正文」(特定の言語からなる正式な条約文)がありません。さらに2種類の日本語版は微妙に内容が異なっており、このことがのちに大きなもめ事に発展することになります。

それでは、全12条からなる日米和親条約について見ていきましょう。

日米和親条約①下田・函館を開港

日米和親条約の大きなポイントとなるのが第2条の「伊豆下田」「松前地箱館」の開港です。米国船が薪や水、食料、石炭、その他航海のための不足品を補給するために寄港することを許可しています。下田は即時、箱館は翌年3月からの開始としています。

また、第3条では漂流民の対処について書かれており、米国船が日本に漂着した場合は救助し、漂流民を下田または箱館に送るようにとしています。第5条では下田の場合、漂流民は「当分」は長崎のオランダ人や中国人のように行動を制限するのではなく、自由に行動できるようにとしています。ただし行動範囲は限定されており、下田は7里、箱館は追って取り決めるとしています。

日米和親条約②不平等とされる理由となった「片務的最恵国待遇」

日米和親条約は不平等条約と言われますが、その原因となっているのが第9条です。内容としては「日本政府が今回の条約で許容していない特権や便益を許容する場合は、自動的にアメリカ人にも同じものを許容すること」というもの。つまり、日本が第3国と、日米和親条約以上に有利な条約を結んだ場合、アメリカもその恩恵をあずかれるというものです。

アメリカ側のみの恩恵なので「片務的」な「最恵国待遇」として知られており、これが日米和親条約が不平等条約だといわれる理由です。

日米和親条約④後に争いの原因となる「領事権」

日米和親条約の第11条は領事を駐在させる「領事権」について記したものです。漢文版・漢文和訳版によれば、「両国政府に於て拠(よんどこ)ろ無き」、つまりやむを得ない事情がありその必要性が認められた場合、条約調印日から18ヶ月を経たのち、アメリカは下田に官吏(=領事)を駐在することができる、というものでした。

ところが英文版と、オランダ語和訳版には「日米政府のいずれか一方が必要と認めたとき」と記されています。これは日本側の誤訳であるとも、アメリカ側が恣意的にしたのだとも言われており、何らかの意図が背後にあったと見る向きもあります。

2国間の認識の差は安政3年(1856年)に初代米国総領事としてタウンゼント・ハリスが下田に来た時に大きなもめ事を起こします。幕府は「両国が必要としていない」と着任を拒否しようとしたのです。しかし、ハリスの強硬な主張に幕府は折れ、ハリスは総領事として玉泉寺(静岡県下田市)に駐在。以後、日米間の通商条約締結に向けて奮闘していくことになるのです。

日米和親条約③下田追加条約を締結

日米和親条約が締結されたのち、ペリーはすぐに帰国した、と思われがちですが、実はそうではありません。ペリーはその後日本にとどまり、新たな開港地となる箱館と下田を視察しています。そして嘉永7年5月22日(1854年6月17日)、下田の了仙寺(静岡県下田市)で下田追加条約(日米和親条約付録)を締結しています。

下田追加条約では商船や捕鯨船の上陸場所3ヶ所決定したほか、アメリカ人のための休憩所を了仙寺などに設置。箱館では石炭の入手が難しいので入手を想定しないようにということ(ペリーの承諾済み)、箱館のアメリカ人遊歩地区は5里4方戸と定めることなどが記されています。

また、2国間で公式な告示をする際、オランダ語通訳がいない場合を除き漢文を使わないことも記されました。条約は日本語と英語で記され、これをオランダ語に翻訳した書面にペリーや林大学頭といった各国の全権が署名しています。

日米和親条約⑤英露蘭とも同様の条約を締結

日米和親条約締結後、江戸幕府は欧米諸国と次々と条約を締結していきます。嘉永7年8月23日(1854年10月14日)にはイギリスと日英和親条約、安政元年12月21日(1855年2月7日)には日露和親条約、安政2年12月23日(1856年1月30日)には日蘭和親条約をそれぞれ結びました。

なお、オランダについてはもともと「鎖国」時代にも貿易関係にありましたが、条約締結により出島への出入りが自由化されました。ただし、貿易についてはそれまでとおなじく長崎会所が統制しています。

日米和親条約⑤「開国」したのか?当時の幕府の意識

日米和親条約により、日本は開国したというのが通説です。アメリカ側から見るとそう見えますが、実は江戸幕府としては「開国した」という認識を持ってはいなかったという説があります。幕府としてはあくまでも2港を開港し、通信国が増えたという認識で、鎖国が終了したとは考えていなかったようです。

江戸幕府としてはまだ鎖国は続いている、そう考えていたようですが、日米和親条約の締結は攘夷論者、開国反対派の怒りを買うことになり、政治的・社会的な混乱を招きました。安政5年(1858年)にさらに日本側に不利な日米修好通商条約が締結されると尊王攘夷運動が激化。明治維新へとつながっていくことになるのです。

栗本奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。