安政の改革開国前夜の幕政・藩政改革

安政の改革
嘉永6年(1853年)のペリー来航をきっかけに、諸外国からの開国を求める外圧が増していった江戸時代末期。そんななかで、安政元年(1854年)から安政8年(1860年)にかけて、老中・阿部正弘を中心におこなわれたのが「安政の改革」です。幕府の政治改革に加え、薩摩藩をはじめとした西南雄藩が同時期に改革を実施したことで知られています。今回はそんな安政の改革について、幕政改革を中心に詳しく見ていきます。
安政の改革の背景:強まる外圧
安政の改革が実施された当時の江戸時代末期は、嘉永6年(1853年)6月3日のペリー来航により、各国からの開国に向けた外圧が高まっていたところでした。ペリーは浦賀沖に4隻の船とともに訪れ、米国大統領の親書を幕府に提出しました。この時の将軍は徳川家慶でしたが、病気で臥せっていました。このため対応したのは老中首座だった阿部正弘でした。
正弘は安政の改革の主導者として知られる人物で、文政2年(1819年)、備前国福山藩(現広島県福山市など)第5代藩主・阿部正精の5男として生まれました。天保7年(1836年)には病弱だった兄から藩主の座を譲り受け、天保14年(1843年)には25歳の若さで老中に就任し、弘化2年(1845年)から老中首座に上り詰めていました。
幅広く意見を募り、大胆な幕政改革へ
この阿部正弘が思い切った施策を実施します。ペリー来航の直後の7月、米国大統領の国書を訳して朝廷に提出するとともに、今後の対応について、親藩、譜代大名、外様大名や旗本、民間まで幅広く意見を求めたのです。
これまでの幕府の政治といえば譜代大名や旗本がほとんど独占しており、親藩や外様大名は参加できませんでした。幕府にとっては全体未聞の諮問でしたが、それだけペリーの来航が衝撃的だったということ、そして正弘が有能な人物を発掘して国難を乗り切ろうと考えたということでしょう。
この諮問には700余りの答申が出ており、現状を維持すべきという意見から、勝海舟や下総佐倉藩主の堀田正睦などによる「積極的に開国すべき」といった意見までさまざまなものがあったそうです。
結局正弘は親書を受け取ると決めましたが、将軍が病気であることを理由に返答を1年先送りにしました。このためペリーは1年後の再来を告げて日本を去ります。
ペリーが去ってまもなく、6月22日に家慶は病没。後継者として7月22日に家定の将軍継承が決まりましたが(宣下は10月23日)、家定も病弱で頼りになりません。このため正弘は米国の要求にどう対処するのか苦慮しました。
加えて7月18日にはロシア艦隊司令長官のプチャーチンが長崎に来航し国書を渡して開国交渉をします。結局交渉はまとまりませんでしたが、幕府は危機感をさらに募らせたのです。
こうしたなかで正弘が着手したのが安政の改革でした。そうこうしているうちに嘉永7年(1854年)1月、ペリーは1年を待たずに再び浦賀に来航します。ロシアの動きを警戒したことや、新将軍の就任を受けての動きでしたが、軍事的な圧力をかけつつ幕府に対応を迫りました。
日本側の応接掛(外交担当者)は儒学者の林大学頭(林復斎)で、1ヶ月にわたる協議の結果、日米和親条約が締結され、日本は下田と箱館を開港することになりました。ただし、米国側が求めていた通商については拒否しています。
ちなみに、この際米国側からすると「日本は開国した」という認識ですが、幕府側からすると「米国の漂流船などに対して必要な物資を提供するために開港する」というもので、開国したとは認識していませんでした。これが後々、国内外で大きな問題になっていきます。
安政の改革①阿部正弘の人材登用策
安政の改革に話を戻しましょう。ペリー来航を機に、阿部正弘はこれまで幕政に参加していなかった外様大名たちをブレーンとして参画させるようになりました。具体的には薩摩藩主の島津斉彬や越前藩主の松平慶永などと連携し、前水戸藩主の徳川斉昭を海防参与に任命しており、彼らとともに正弘は改革を進めていくことになります。
ここで注目したいのが徳川斉昭。第15代将軍・徳川慶喜の実父に当たる人物で、過激な尊王攘夷論者として知られていました。外国と対抗するために海防に深い関心を抱いた斉昭は、水戸藩の藩政改革のさなか、神社仏閣から取り立てた青銅で大砲を作るなどしており、幕府ににらまれて謹慎を命じられていました。正弘はこの謹慎をとき幕政への参画を命じたのです。
参与に選ばれた斉昭は嘉永6年(1853年)12月、江戸防備のために大砲74門を鋳造して弾とともに幕府に献上。安政2年(1855年)から安政4年(1857年)にかけて那珂湊(茨城県ひたちなか市)に反射炉を作り、次々と大砲を鋳造して海防強化に努めていくことになります。なお、斉昭は日米和親条約の締結に最後まで反対しており、条約締結後は参与を辞しました。
また、正弘は海岸の防御を担う「海岸防禦御用掛(海防掛)」を強化して外務省的な役割を任うようにし、岩瀬忠震や永井尚志、筒井政憲、川路聖謨、大久保忠寛といった幕臣を抜擢します。彼らは後に諸外国との条約締結などで活躍しました。さらに大久保忠寛に推挙された勝麟太郎(勝海舟)も登用しました。このように正弘が幕政を主導していた時代は能力主義で次々と新たな人材が登用されており、幕末から明治維新にかけての著名人が見出された時代でもありました。
安政の改革②具体的な海防強化策
外国船が次々と日本に訪れるなか、阿部正弘は海防強化の必要性を十分認識していました。このためさまざまな施策を実施していきます。
江戸幕府は嘉永6年(1853年)8月から安政元年(1854年)12月にかけて、品川に台場(砲台)を築くための工事を段階的に実施しています。ペリーの来航を受けて始まったものですが、安政の改革の際も工事は続けられました。
この時の実務担当者は江川英龍。蛮社の獄が起きた一因になったという通説のある人物で、伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市)の代官の家に生まれ、天保の大飢饉でも大活躍した人物です。幕府に高島流砲術を取り入れるよう働きかけた人物でもあり、ペリーが来航した直後に勘定吟味役格に登用され、台場の建築で活躍しました。
予算の関係から工事半ばで中止した台場もありましたが、最終的には6基の台場が完成し、江戸湾の海防の拠点となりました。現在はお台場海浜公園(東京都港区台場)のなかにその跡をとどめています。
また、江川英龍は品川台場に設置する鋳造するための溶解炉として「韮山反射炉」を作っています。韮山反射炉は「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として平成27年(2015年)に世界文化遺産に登録されました。
さらに阿部正弘は寛永12年(1635年)に出された500石積以上の船の建造を禁じる「大船建造の禁」について、正弘は嘉永6年(1853年)9月に禁令を解禁します。これにより、幕府や各藩は洋式軍艦を建造し、オランダから蒸気軍艦を購入するなど船を次々と増やしていきます。ちなみに日本で建造された最初の西洋式大型軍艦は浦賀造船所による「鳳凰丸」で、嘉永7年(1854年)5月に竣工しました。
このように幕府が財政難に苦しみながら何とか改革を進める一方、雄藩も次々と改革を進めていきました。大砲や軍艦、西洋式武具の輸入・製造製造等に取り組み、水戸藩のように反射炉を建造する藩があったほどです。
例えば薩摩藩では奄美諸島などからサトウキビ原産の砂糖の専売や偽金作りなどで資金調達をはかり、その豊富な資金源を活かして近代的な西洋式工場群「集成館」を中心に近代化に取り組みました。嘉永5年(1852年)の反射炉建設がその始まりで、安政年間には次々と反射炉が完成しています。
安政の改革③人材育成に努める
物理的な海防強化に加え、阿部正弘は積極的な人材育成にも取り組みました。海防を担う西洋式軍艦を操るため、幕府はオランダとの協力のもと、長崎に安政2年(1855年)10月に海軍士官の養成所「長崎海軍伝習所」を開設します。長崎奉行の水野忠徳の献策によるものですが、ここではオランダから贈呈された「観光丸」やおなじくオランダ製の「咸臨丸」などの西洋式軍艦が活躍しました。なお、「咸臨丸」はのちに遣米使節らとともに太平洋を横断するという偉業を達成しています。
長崎海軍伝習所の伝習生は幕府に加え、薩摩藩や佐賀藩、長州藩などから幅広く集まりました。なかには勝海舟、榎本武揚、伊藤博文(当時は伊藤俊輔)といった幕末のキーパーソンもいました。
また、阿部正弘は海外の国々とのやり取りを通じ、外国研究と幕府の近代化の必要性を実感していました。このため、安政2年(1855年)8月に九段下(東京都千代田区九段南)に「洋学所」を開設し、外国の文献の翻訳と洋学研究を進めさせました。翌年洋学所は「蕃書(=外国の文献)調所」と改称し、幕臣の子弟たちを対象に語学をはじめとした洋学教育を開始しています。ちなみに蕃書調所は後に「開成所」と名称を変更し、一時閉鎖後明治維新後に「開成学校」として復活。医学校と統合して「東京大学」になっています。
江戸時代は「武家諸法度」で示されている通り、武士は「文武両道」に励む必要がありました。このため江戸の「文」が「蕃書調所」だとすれば、「武」は安政元年(1854年)に開始し、安政3年(1856年)に正式に発足した「講武所」でしょう。築地(東京都中央区築地)に設けられた講武所では、剣術や砲術などを学ぶことができました。安政4年(1857年)4月には講武所内に軍艦教授所が開かれ、築地は軍艦操練場所に姿を変えたことで、講武所は安政7年(1860年)に小川町(東京都千代田区神田)に移転しています。
安政の改革④譜代大名からの反発
安政の改革で能力のある人物が次々と登用されていく一方、これまで幕府の中枢で権力を握っていた譜代大名からは当然反対の声が上がります。その筆頭格が彦根藩主の井伊直弼でした。そうこうしているうちに派閥争いによる人事問題が発生して安部正弘への非難が殺到したこともあり、正弘は安政2年(1855年)、老中首座を佐倉藩主・堀田正睦に譲っています。
正弘はその後も老中としてサポートをし続けますが、徐々に体調が悪化。安政3年(1856年)には外交関連の権力を正睦に譲り渡しました。翌安政4年(1867年)閏5月頃から本格的に体調を崩し、6月17日に病死。享年39歳(満37歳)とまだまだ働き盛りの状態で亡くなっています。死因は肝臓がんとも激務による過労死とも言われています。
正弘の死により、幕府内での派閥争いは激化していきます。実は当時の幕府は外交と将軍の跡目争いの観点から大きく2つの派閥に分かれていました。正弘が後押ししていたのが「一橋派」と呼ばれる、徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永らからなる開国派や攘夷派が中心の派閥で、徳川家定の次の将軍として斉昭の息子・一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推していました。
一方、井伊直弼ら譜代大名と大奥が中心となった「南紀派」は、外国に対して保守的態度をとっており、家定の従弟である紀伊藩主の徳川慶福を「最も将軍家に近い血筋を持つ」という理由で推していました。安政5年(1858年)、家定は病床で直弼を大老に指名。6月には跡継ぎを慶福に決めました。
安政の改革から安政の大獄へ
大老に就任した井伊直弼が取り組んだのが、対立していた一橋派への弾圧、つまり「安政の大獄」です。安政の大獄は安政5年(1858年)6月19日の日米修好通商条約の締結がきっかけで起こりました。実はこの条約、天皇の許可がないまま締結されたものでした。このため一橋派が井伊直弼を「天皇の許可なく調印するなんて何たること!」と批判し、「事態を収めるために一橋慶喜を将軍にせよ」と要求したのです。
これに対し直弼は一橋派に加え、一橋派に同調した公家などを徹底的に弾圧します。その対象は幕府を批判した吉田松陰など、100名以上にまでおよびました。直弼は対立派を追い出し、再び譜代大名による政権運営を試みたのですが、弾圧により直弼への批判は高まります。そして万延元年(1860年)3月3日、「桜田門外の変」で直弼は暗殺されることになるのです。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。