天保の改革水野忠邦による失敗した改革

天保の改革
江戸時代後期、天保の大飢饉による食糧難の一方で諸外国が開国を迫るなど、江戸幕府は外患内憂の危機的な状況にありました。そんななか、老中の水野忠邦が天保12年(1841年)から天保14年(1843年)にかけて実施したのが、江戸三大改革のひとつである「天保の改革」です。しかし、忠邦の頑張りもむなしくわずか2年で改革は失敗に終わってしまいました。今回はそんな天保の改革について分かりやすく解説していきます。
天保の改革の原因①贅沢好きの徳川家斉
天保の改革が必要だった理由は大きく2つに分けられます。1つは第11代将軍の徳川家斉による浪費です。家斉は贅沢な生活を好みました。しかも「オットセイ将軍」と呼ばれるほど子だくさん。側室は40人以上で、55人の子どもを残したため、大奥の費用や子どもたちを大名などへ養子に出す費用は莫大なものとなりました。
このため幕府の財政は傾く一方でした。天明7年(1787年)からは松平定信が「寛政の改革」を実施しましたが、厳しい財政改革と質素倹約を課したため庶民や武士の反発を招きます。寛政5年(1793年)7月に定信は失脚し、改革は終わりを告げました。
代わって家斉とともに政権を運営したのは側用人の水野忠成です。忠成は幕府の財政難を改善しようと、8度にわたって貨幣の改鋳を実施。幕府の財政の一時的な立て直しに成功しましたが、大規模なインフレが発生してしまいました。
天保の改革の原因②天保の大飢饉
徳川家斉の時代に起こった大飢饉が、天保4年(1833年)から天保8年(1837年)の「天保の大飢饉」です。天候不順による凶作により、長きにわたって飢饉が続き、合計で20万人から30万人の死者を出しています。
全国的な米不足が続いたことで人々は飢えに苦しみ、各地で打ちこわしや百姓一揆が発生しました。有名なのが天保8年(1837年)に起こった大塩平八郎の乱です。元幕府役人による反乱に幕府は大いに動揺します。幕府の絶対的権威が揺らいだのです。
こうした背景のなか、家斉は引退し、変わって第12代将軍の徳川家慶が就任します。ところが家斉は大御所として以前と同じく権力をふるい続け、贅沢な生活を続けたのです。
家慶の時代に老中首座に就いたのが水野忠邦で、幕府の財政を立て直すために、奢侈の禁止などさまざまな施策を打ち出します。ところが大奥や家斉の寵臣たちからの大反対で、なかなか幕府の改革を進めることができませんでした。
結局家慶と忠邦が政治を主導できたのは天保12年(1841年)に家斉が亡くなってからのことでした。
天保の改革の立役者・水野忠邦
天保の改革の詳細に進む前に、水野忠邦について簡単に解説しておきます。忠邦は寛政6年(1794年)6月23日、肥前唐津藩(現佐賀県)藩主・水野忠光の次男として生まれました。文化9年(1812年)に19歳で家督を継ぐと、出世のために賄賂をふんだんに活用し、大名などが将軍に謁見するときに取り次ぐ「奏者番」に就任します。奏者番は出世の登竜門なので、忠邦は出世街道に乗った…と思いきや、唐津藩は長崎港を警護する「長崎見廻役」という重要や役目を任されているため、老中に就任できないというきまりがありました。
このため忠邦は家来の反対を押し切って浜松藩(静岡県浜松市)への転封を願い出ます。唐津藩は実質20万~25万石と言われていましたが、浜松藩は15万3000石。家来が反対するのは無理もなく、この騒動で家老が国替えを止めるために自死する「諌死」事件を起こしています。
その後忠邦は大坂城代、京都所司代などと次々と出世し、文政11年(1828年)に西の丸老中となって家慶を補佐。天保5年(1834年)には病没した水野忠成に代わって本丸老中に、天保10年(1839年)に老中首座に就きました。
天保の改革を宣言
天保12年(1841年)閏1月7日、徳川家斉が亡くなると徳川家慶と忠邦は家斉の寵臣たちをすぐさま罷免します。そして「遠山の金さん」としても知られる遠山景元や鳥居耀蔵、渋川敬直、後藤三右衛門を登用しました。
5月15日、家慶は誕生日に幕臣を一堂に集め、これまでの享保の改革や寛政の改革にそった政治をおこなうことを宣言しました。これが天保の改革のスタートです。
天保の改革①株仲間の解散などの経済政策
天保の改革の経済政策として有名なのが「株仲間解散令」です。株仲間とは、同業者で結成された組合で、市場を独占的に支配し競争を避けることで利益を確保していました。組合に入るには「株」、つまり商売する権利を手に入れる必要があります。株は相続・売買・担保などになる、資産価値のあるものでした。
株仲間は新規参入を難しくする一方、商品が一定の料金で安定して供給されるというメリットがある精度でした。江戸幕府は当初株仲間を認めていませんでしたが、徳川吉宗の享保の改革の際、税金を徴収することを条件に存在が認められました。
しかし、天保の大飢饉による米不足や金不足や金銀改鋳による貨幣の質の低下などでインフレが起こるなか、忠邦は「インフレが起こるのは株仲間が市場を独占して値段を釣りあげているからだ」と誤解します。このため天保12年(1841年)から翌年にかけて、「株仲間解散令」を発布して各地の株仲間を廃止しました。
株仲間を廃止し、自由競争を認めれば新規業者が参入して物価が下がり、インフレも収まる…そう考えた忠邦でしたが、これは大きな間違いでした。株仲間を解散により値下がりしたものはありましたが、流通が滞ったことにより物価は高騰します。
江戸への物流は、全国から大坂市場に商品を集荷し、大坂の株仲間「二十四組問屋」から江戸の株仲間「十組問屋」に送るシステムでした。ところが江戸後期になると廻船業者が生産地から直接江戸に運んだり、そもそも大坂に到着する前に下関や瀬戸内海沿岸で商品を売買したりと、流通システムが変化してきました。株仲間が取り扱う商品が減ってきていたのです。そんななかで株仲間を解散させてしまったので、大坂や江戸に集まる商品はさらに減りました。
また、株仲間の解散は経済の混乱を招きました。もともと問屋は資産価値のある株を担保に借り入れなどの金融活動を行っていました。しかし株仲間の解散で金融は軒並みストップ。問屋たちの商売は成り立たなくなり、廃業するものまで現れたのです。
結局株仲間の解散は大失敗に終わり、幕府はおよそ10年後の嘉永4年(1851年)、「株仲間再興令」で株仲間を復活させることになります。
このほか、幕府は物価を抑えるため、天保13年(1842年)に「銭相場公定に伴う物価引き下げ令」を発布し、銭相場の下落に伴い商品の価格を引き下げるようにと商人に求めています。これを受けた商人たちは商品の質や量の低下で対応。たとえば豆腐は「到底利益が出ない」と一回り小さくなったそうです。
天保の改革②人返しの法で帰農を促す
天保の改革当時、天保の大飢饉の影響で廃農した窮民が江戸に流れ込んだことで、江戸の人口は膨れ上がり、治安の悪化を招いていました。天保12年(1841年)5月時点では、戸籍にあたる「人別帳」ベースで町方人口は約56万3000人でしたが、実際は60万人超が町で暮らしていたようです。
農民がいなければ凶作がおさまったところで米の収穫量は増えません。このため水野忠邦は天保14年(1843年)に帰農を促す「人返しの法」を発布します。忠邦は当初、遠山景元ら町奉行に対し、強制的に農民を村に返す策を諮問しました。
景元は江戸の町方人口の約半分がその日暮らしで、飢饉や災害が起きれば窮民になりうる存在であることから、人々が生活できるようサポートすべきと提言。そのうえで強制的な帰農は現実的ではなく、人別帳を管理する「人別改め」を強化するべきとしました。忠邦は景元に再考するよう求めましたが、結局は人別帳ベースで農民たちを管理することを受け入れました。
こうして出された人返しの法は、新たに農民が人別帳に加わることを禁止するものでした。出された町触では、江戸で商売を始めて妻子を持つなどして江戸の人別帳に加わった者はそのまま江戸に住めるが、最近江戸にやってきて、裏店に居住する季節労働者同然のものは「早々に帰るように」と呼びかけています。
また、江戸への出稼ぎは領主の許可を得たうえで実施するようにとしました。こうして当初の予定よりもマイルドになった人返しの法は、あまり効果が出ずに終わります。
天保の改革③倹約令と風俗取り締まり
改革で必ずといっていいほど実施される「倹約令」。水野忠邦が実施したものは厳しいものでした。庶民の娯楽は制限され、たとえば寄席はほとんどが廃業、歌舞伎は江戸三座(中村座・市村座・河原崎守田座)がまとめて浅草に移転させられました。さらに花形役者の七代目市川團十郎を江戸から追放。歌舞伎役者は外出時に編み笠着用を義務づけました。
また、出版物を幕府が検閲する出版統制も実施します。町人の色恋を描く人情本は「風俗を害する」と禁じられ、見せしめのため人情本の第一人者である為永春水が牢につながれました。
さらに忠邦は浮世絵にも規制をかけ、春画はもちろん、役者の似顔絵や遊女、芸者などの美人画を禁じています。これに怒った絵師たちは『源頼光公館土蜘作妖怪図』(歌川国芳)など風刺画の名作を次々と生み出しました。
さらに忠邦は庶民の贅沢品を徹底的に禁止しています。例えば江戸っ子が大好きなきゅうりやナス等の初物を禁止しました。高価な櫛やきせる、ひな祭りや端午の節句の華美な飾り物も禁じられ、夏の風物詩・隅田川の花火は規模が縮小されました。
こうした厳しい倹約は大奥も対象となり、忠邦は大奥から反発を受けることになります。
天保の改革④アヘン戦争を受けて薪水給与令を発布
徳川家斉の時代から、外国船が開国や通商を求めて次々と日本にやってきていました。このため幕府は文政8年(1825年)2月、「異国船打払令」を出して外国船を一律で追い払うとともに、海防強化に乗り出します。
しかし、天保の改革のさなか、天保13年(1842年)にアヘン戦争が終結し、清がイギリスに敗れたことで幕府も路線の変更を余儀なくされます。西洋諸国に脅威を感じた水野忠邦は、同年すぐに薪水給与令を発布しました。
これは遭難船を対象に、水や薪、食料を与えたうえで穏便に退去させるというもので、異国船打払令の事実上の緩和でした。加えて西洋式の砲術を導入させるなど国防に予算を割くようになります。
天保の改革④上知令に大反発、忠邦は失脚
天保の改革の対象は大名や旗本たちにも及びました。天保14年(1843年)6月1日、水野忠邦は「上知令」を発布します。江戸と大坂の周囲約40㎞四方を整理し、すべて幕府の直轄地にするというもので、幕府に土地を取られた大名・旗本には代替地を用意する計画でした。
幕府の狙いは、飛び地が多い直轄地を比較的豊かな江戸・大坂近郊にまとめることで、収税の効率化と収入の増加をはかることでした。さらに政治・軍事的に重要な江戸と大坂の防衛を強化したいという考えもありました。
しかし、当然対象となる大名や旗本は大反対します。代替地が同じだけ税収のある土地とは限らないこと、領地替えには莫大な経費がかかることなどがその理由で、御三家の紀州藩、水戸藩などからも反対意見が出ました。
しかも藩や旗本は藩札・旗本札といった領地内限定の紙幣を通じて、領民に借金をしていました。大名や旗本が国替えするとただの紙になってしまうため、領民達も大反対したのです。
実現が難しいであろう上知令ですが、幕府は反対意見を和らげるために、直前の5月30日に借金の棄捐令を発表しています。上知令の対象となる大名や旗本の借金のうち、半分を返納免除、半分を無利子で20年の年賦払いにするというものでした。
しかし反対は収まらず、結局上知令は閏9月7日に忠邦不在の状態で撤回されます。さらに上知令により幕府内で孤立した忠邦は閏9月13日、辞表を提出しました。こうして忠邦による天保の改革は終焉を迎えたのです。
なお、棄損令については実施されたため、他の幕臣から不満の声が上がりました。そこで幕府は同年12月14日に「無利子年賦返済令」を発布します。これは知行地を持たない幕臣を対象に、札差から借りていた未返済の借金をすべて無利息とし、元金を20年年賦にするというものでした。これにより札差達は大きな被害をうけ、当時の札差91軒のうち半数以上の49軒が店を閉じています。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。