蛮社の獄モリソン号事件がきっかけとなった弾圧事件

蛮社の獄
天保10年(1839年)、米国商船「モリソン号」が日本人漂流者の送還と日本との交易をめざして来航しましたが、幕府は異国船討払令にのっとり砲撃して追い払いました。この「モリソン号事件」への幕府の対応には批判が殺到。それに対し幕府は批判者を弾圧しました。「蛮社の獄」と呼ばれるこの事件では、蘭学者の渡辺崋山や高野長英などが投獄されています。しかし、この事件の裏側では幕府目付・鳥居耀蔵が暗躍し、罪の捏造や偽証などがありました。今回はそんな蛮社の獄について詳しく見ていきます。
幕府が異国船打払令を発布
江戸時代後期、幕府の「鎖国」政策は揺らぎつつありました。外国船が訪れ開国と通商を求めるようになったのです。これに対し政府は寛政3年(1791年)に「異国船取扱令」を発布し、訪れた異国船を政府が臨検し、指示に従わない場合は攻撃して追い払うことを許可しました。
しかし、ロシアや英国をはじめとした国から船が次々と訪れはじめ、文化3年(1806年)から翌4年(1807年)にはロシア船が樺太・択捉の日本の拠点襲撃する「文化露寇(フヴォストフ事件)」が起こりました。
こうした事件を受け、幕府は文政8年(1825年)に「異国船打払令」を発布します。これは鎖国政策中も交流を続けているオランダや中国、琉球王国、アイヌ以外の外国船が日本に近づいた場合、全て砲撃して追い払うように命じる内容でした。
蛮社の獄のきっかけとなった「モリソン号事件」
この異国船打払令によって砲撃されたのが米国商船のモリソン号でした。モリソン号は天保8年(1837年)、漂流していた日本人7名の送還と日本との通商を目的にマカオを出発し、浦賀(現神奈川県横須賀市)と鹿児島を訪れましたが、幕府側は異国船打払令に則り砲撃して追い払いました。このためモリソン号は日本人漂流者を日本に返すことなくマカオに戻っています(モリソン号事件)。なお、しかもモリソン号は平和的に使命を果たすために非武装だったため、幕府軍に反撃しませんでした。
幕府がモリソン号事件を把握したのは翌天保9年(1838年)6月、長崎を訪れたオランダ船経由ででした。ちなみに、この際モリソン号は「英国船」と誤認されています。幕府で対応したのは老中の水野忠邦です。忠邦は勘定奉行や大目付、儒官の長にあたる大学頭や最高司法機関の評定所などにこの事件について諮問しました。
諮問では評定所が「一切考慮せず外国船の打払いを続行し、漂流民の送還も必要ない」と厳しい意見を出した一方、大学頭の林述斎が漂流民は人道的に扱いすべきとし、問答無用の打払策を批判。意見は割れましたが、結局忠邦はオランダ船より漂流民を帰還すべきとの方針を決め、長崎奉行に通達しました。
非武装のモリソン号を砲撃したことで、国内では異国船打払令、ひいては幕府への批判が強まります。特に外国に目を向けていた蘭学者をはじめとする知識人たちからの批判は強く、開国を訴えるものまで出る始末です。幕府はこうした「鎖国」の揺らぎに対処する必要を感じ、その結果「蛮社の獄」が発生します。
蛮社の獄の「蛮社」とは?
蛮社の獄について解説する前に、「蛮社の獄」の名称について改めて解説しておきます。そもそも「蛮社」って何?と思った方は多いのではないでしょうか。
その答えは、崋山や長英が所属していた知識人のグループ「尚歯会」にあります。尚歯会は紀州藩の儒学者・遠藤勝助が主催した知識人たちの集まりで、蘭学者だけでなく儒学者も入会していました。当初は天保の大飢饉の対策などを話し合いましたが、その後社会問題や文学、数学、天文学まで幅広い議論がされました。
この「尚歯会」を国学者たちが「南蛮の学を学ぶ集団」である「蛮学社中」と呼び、それが略称となり「蛮社」と呼ばれるようになったのです。ただし、実際に尚歯会のメンバー全員が弾圧されたわけではないので、「蛮社の獄」がふさわしい事件名と言えるかには疑問が残ります。
蛮社の獄①尚歯会で明かされたモリソン号事件
蛮社の獄のきっかけとなったモリソン号事件について、尚歯会のメンバーが幕府の動きを知ったのは天保9年(1838年)10月15日のことでした。評定所記記録方の芳賀市三郎が会の席上で、評定所で現在進行中のモリソン号再来に関する答申案の内容を漏らしたのです。
評定所の意見は異国船討払令を継続するとともに、漂流民たちも受け入れないという強硬策でした。幕府は評定所の意見を採用しませんでしたが、尚歯会で紹介された意見は評定所のもののみでした。
さらにモリソン号は前年に日本を訪れて追い払われた後でしたが、尚歯会のメンバーはモリソン号はこれからやってくる予定であり、それに対して幕府が漂流民を無視して打払う方針だと誤解してしまいます。
蛮社の獄②高野長英が『戊戌夢物語』で幕府を批判
尚歯会のメンバーのなかでもモリソン号事件について反対意見を表明したことで有名なのが蘭学者の高野長英と渡辺崋山でした。高野長英は医者でもあり、シーボルトの内弟子として医術などを学んでいました。シーボルトが捕らえられたシーボルト事件の際は長崎を脱出して難を逃れて江戸に移動し、その後は尚歯会のメンバーとして活躍していました。
そんな長英が匿名で書いたのが『戊戌夢物語』で、英国のモリソンという人物が日本人漂流民を乗せて船を出したと説明されており、日本との交易を求めているが、幕府は異国船討払令で一律船を追い払っていると批判しています。さらにフヴォストフ事件を例に挙げ、モリソンの船を追い払うことに対する英国側の報復の危険性を指摘しています。『戊戌夢物語』は写本が世間に広がり、『夢物語評』など反対意見をはじめ、さまざまな議論を生みました。
蛮社の獄③渡辺崋山が『慎機論』を執筆
一方、渡辺崋山は画家としても知られる蘭学者で、昌平坂学問所などで儒学を学んでいたことでも知られます。天保3年(1832年)には田原藩(愛知県東部・渥美半島)の家老に就任し、天保の大飢饉対策を成功させました。
崋山はのちに蘭学や兵学を研究するようになり、蘭学者たちと交流を持ち外国事情に精通する第一人者として幕府の異国船討払令や鎖国を批判。開国・交易論者としても知られています。
崋山はモリソン号事件を受けて『慎機論』を記しています。内容としては高野長英と同じくモリソンという人物が来航することを記したうえで、諸外国の情勢を説明し、幕府の異国船討払令を批判。一方で海防の不備を憂い防備を固めるべしとするなど、さまざまな主張が混在しており分かりにくい内容でした。モリソン号の打払いの是非なども明確ではありませんでした。最後は幕府の高官たちの批判で締めくくられています。
これは崋山が当時田原藩の年寄だったためで、幕府の対外政策を内部から批判できなかったためでした。また、こちらは未発表で、草稿の状態でした。崋山は結局結論の出なかった『慎機論』を発表せず放置していたのです。『慎機論』が見つかったのは、蛮社の獄の家宅捜索でのことでした。
蛮社の獄④鳥居耀蔵と江川英龍の争いが一因となる!?
『戊戌夢物語』が広まり幕府への批判が高まるなか、水野忠邦は目付の鳥居耀蔵を正使、伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市)の代官・江川英龍を副使とし、江戸湾の防備体制を見直す巡視を命じました。
このうち鳥居耀蔵は蛮社の獄を起こした主要メンバーとして知られる人物。林述斎の息子で、鳥居家の養子となり第11代将軍徳川家斉の側近として仕え、12代将軍・家慶の時代は水野忠邦のもとで目付として活躍しました。後に前任者を讒言で追い落として南町奉行となり、苛烈な取り締まりから「蝮の耀蔵」と揶揄されました。
一方の江川英龍は代々韮山の代官の家に生まれ、天保の大飢饉の際は民を助けるために質素倹約を徹底して民を助けたことから「世直し江川大明神」とまで呼ばれた人物です。もともと洋学に興味があり海防の重要性を主張しており、蘭学者とつながりがありました。渡辺崋山とも親交があり、巡視後、英龍報告書を作成する際「西洋の事情について執筆してほしい」と崋山に助力を求めています。
これに応えた崋山は西洋に関する論策を提示しますが、英国やロシアなどの情報に加え、鎖国を批判し海防ではなく開国を暗に主張する内容でした。海防を重視する英龍は結局崋山の論策を参考にすることなく終わりました。開国論者の崋山と西洋を警戒し海防を重視していた英龍の間には埋められない溝があったようです。
さて、そんなバックグラウンドを持った2人ですが、通説では江戸湾の巡視最中に仲たがいし、それが蛮社の獄の原因になったとされています。巡視場所でもめたほか、英龍が西洋式の最新の測量を行ったことで耀蔵は恥をかきました。耀蔵はもともと保守的な性格だったこともあり、巡視が原因で英龍、ひいては蘭学嫌いとなりました。このため蛮社の獄では蘭学者を弾圧に加え、英龍をはじめとした開明派の幕臣の追い落としをはかったのです。
ただし、近年はこの通説を否定する説が出ています。理由としては江戸巡視以前から2人の仲は良く、蛮社の獄後も交流が続いたこと、英龍は蛮社の獄で処罰されていないことなどが理由です。
蛮社の獄⑤鳥居耀蔵が罪を捏造
天保10年(1839年)春、水野忠邦が『戊戌夢物語』の存在を知るようになります。忠邦は鳥居耀蔵に著者を探すよう命令しました。
耀蔵は容疑者として渡辺崋山の名を挙げます。実は耀蔵は前年から崋山に目をつけていたのです。これは蘭学者たちの主導者的存在だった崋山を断罪し、鎖国を強化し開国を否定しようとした意図があったからでした。
そして4月29日、耀蔵の部下・小笠原貢蔵らは『戊戌夢物語』を書いたのは高野長英、または渡辺崋山の作であるとの風説があることを報告。報告書ではそれぞれ懇意にしていた人物を列挙するとともに、崋山については無人島を経て米国に行く、禁じられた海外渡航を計画しているとしています。
いきなり無人島の話が出てきますが、これは現在の小笠原諸島への渡航計画のことです。常陸国鹿島郡鳥栖村(茨城県鉾田市鳥栖)の浄土真宗無量寿寺の住職・順宣や江戸の町人たちは、無人島への渡航を計画していました。無人島に行って珍しい石や植物を採取したい!と思った順宣たちが地図や記録などをもとに話し合っていたのです。
ところがそのメンバーの一人、蘭学者の花井虎一は鳥居耀蔵のスパイでした。虎一は「崋山は無人島渡航を計画している」とでっちあげて密告しました。その後の調査で無人島の渡航は幕府の許可を得て実施する予定で準備を進めていたことが判明。しかし、耀蔵は虎一の密告をもとに告発内容をでっち上げ、無人島への渡航も異国人との接触がメインであるかのように記して忠邦に提出しました。
蛮社の獄⑤渡辺崋山への処分
鳥居耀蔵の告発にもとづき、天保10年(1839年)5月14日、渡辺崋山と無人島への渡航を計画していたメンバーは捕らえられ、伝馬町の監獄に入れられました。この際崋山の家からは『慎機論』をはじめ鎖国を批判する文章が押収されています。
その後北町奉行所での取り調べで花井虎一による偽証が明らかになり、崋山の疑いは晴れるはずでした。しかし、『慎機論』など幕府を批判する書が発見されたことで結局有罪となり、田原藩の池ノ原屋敷(愛知県田野原市)での蟄居が言い渡されました。
その後崋山は天保12年(1841年)に切腹。これは生活が困窮したため、自らの腕を振るった絵画を販売して生活に充てようとしたところ、世間がこれを問題視したため。田原藩に迷惑をかけないように切腹したのです。
他の無人島渡航計画メンバーはといえば、主要メンバーの町人たちは拷問の末獄死しています。順宣は出家しているのにも関わらず私利私欲で渡航計画をすすめたことで押込に。このほかかかわったとされる幕臣や学者達については、押込などの軽い刑罰で済みました。
蛮社の獄⑥高野長英のその後
役人に捕らえられた渡辺崋山に対し、高野長英は崋山が連行されたのを知ると姿を隠しました。しかし5月18日には自首しています。なお、自首の前日には蘭学者の小関三英が自殺しています。このころ三英は崋山とともにキリストの伝記を翻訳しており、このため「幕府につかまる」と焦り自ら命を絶ったのです。
高野長英は『戊戌夢物語』による幕府批判に加え、幕府から逃げ回ったことが響き、判決は永牢(無期懲役)となりました。伝馬町牢屋敷で過ごしていた長英でしたが、牢内でも無罪を訴えさまざまな書籍を記しています。また、長英は獄中で病人の治療などを行い、牢名主にもなりました。
弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷で火災が発生し、火災の際に罪人を一時的に釈放する「切り放ち」が行われました。囚人たちは3日以内に戻ってくることが命じられており、戻れば罪は減刑されるのですが、長英は脱獄しました。実はこの火事、長英が囚人をそそのかして放火させたようです。
このため長英は全国に指名手配されることになります。長英は各地を逃げ回った後に江戸に戻って兵学書の翻訳等をこなします。その後、伊予宇和島藩主で蘭学への理解が深い伊達宗城のもとで蘭学書の翻訳や軍備の近代化に取り組みました。
その後、宇和島藩での活動が幕府にばれたことで再び江戸にもどりますが、嘉永3年(1850年)10月30日、青山百人町(東京都港区南青山5丁目)の潜伏先に役人に踏み込まれ、捕縛の際に自刃(もしくは捕縛の際の怪我で死亡)。こうして蛮社の獄の関係者の処罰は終了したのでした。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。