田沼意知田沼時代のプリンスが殺された理由とは?

田沼意知
江戸幕府中興の祖とも呼ばれ、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗。吉宗の後を継いだのが、子の9代将軍徳川家重でした。その家重に仕え吉宗の改革を続けたのが、田沼意次です。意次は家重の側近として出世の階段を上り政権運営を行い緊縮財政、制度改革を断行します。ところが意次の子、意知も出世の階段を上り始めましたが悲劇に見舞われました。今回は田沼意知について見ていきます。
田沼意次の生まれた田沼家と徳川吉宗
田沼意次、意知親子の田沼家。田沼家は紀州の足軽の家でした。
後に紀州藩の藩主から8代将軍となる徳川吉宗がまだ主税頭と称していた頃、意次の父田沼意行は吉宗に使えていました。ところが吉宗が紀州藩主となり更に将軍となると吉宗に付いて江戸に移り住み旗本になりました。田沼家は紀州の足軽から将軍直下の旗本に出世します。
徳川吉宗が8代将軍に就いた頃、江戸幕府は100年以上を経過し、社会の矛盾、制度疲労を起こしていました。吉宗は支出においては倹約による緊縮財政を、収入においては農村に対する増税、生産量を増やす新田開発などで幕府の財政再建を目指します。更に司法改革や贈収賄の取り締まりなど綱紀粛正に取り組みました、享保の改革です。
徳川吉宗は将軍在職30年で子の徳川家重に将軍職を譲りました。そして9代将軍徳川家重の時代は田沼意次の時代「田沼時代」の始まりでした。
意知の生まれから幼少期
徳川家重が将軍に就き、田沼意次が小姓組番頭格として家重の側近として仕えていた頃。
田沼意知は意次の長男として生まれます。母は旗本で鉄砲方を務めていた黒沢定紀の娘でした。
田沼意次は将軍の側近として覚えが良く、意知が生まれた頃から知行地(領地)が加増されていきます。宝暦元年(1751)には小姓組番頭格から御側御用取次側衆に異動となりました。
ここで田沼家の出世街道を知るために、江戸幕府の役職について見ておきます。
江戸幕府は将軍の下に大老(非常置)、老中がいて「幕閣」(政権を運営する最高実務者)と呼ばれます。大老、老中に京都所司代、大坂城代、寺社奉行、若年寄、奏者番を足したものが現在の閣僚にあたり、現在でいう大臣にあたるでしょうか。
これとは別に将軍の側近くに勤め助ける「中奥」(将軍側近)がありました。非常置の側用人をはじめ、御側御用取次、平取次、小姓など現在の秘書官にあたります。
意知の父、田沼意次は将軍の小姓から側近上位者の御側御用取次に昇進しました、将軍秘書官への出世です。
意知が生まれて5歳の頃、宝暦4年(1754)に美濃国郡上藩で大規模な百姓一揆(郡上一揆)が起こります。将軍徳川家重は評定所(江戸幕府の策の立案、審議も行う最高裁判機関)で行われる郡上一揆の評定(裁判)に田沼意次の出席も命じます。ところが評定所の構成員は大名(1万石の領地を持つ侍)でなければ出席できません。そこで田沼意次を評定所に出席させる為に領地を増やさせ、田沼家は遠江国相良1万石の大名となりました。
田沼意知は旗本の子として生まれましたが、父親が出世していき大名の子となりました。
田沼意知のスタートライン
宝暦11年(1761)9代将軍徳川家重が亡くなります。
将軍を継いだのは家重の子、10代将軍徳川家治です。田沼意次は家治からの信任も厚く昇進の勢いは衰えません。明和4年(1767)には御側御用取次から側用人へと出世し、領地も増えます。側用人は非常置の中奥最高職で将軍側近に近侍し機密に預かります。
ちょうど同じ年、田沼意知も19歳にして従五位下・大和守に叙任されます。意知は幕府官僚、大臣となるべく華々しいスタート位置に立ちます。
父の田沼意次は更に出世します。官位は従四位下に進め2万石相良藩の藩主となります。築城の許可も得た意次は相良城を築城し城持ち大名となりました。明和6年(1769)には侍従に任じられ老中格となります。将軍の側近最高位である側用人から政権を運営に参画する老中格にまで上り詰めた最初の侍でした。最終的に意次は600石の旗本から10回程度の加増で領地を増やしていき5万7000石の城持ち大名にまでなります。10回の加増は順次行われたので一まとめの土地ではなく遠江国相良を皮切りに駿河国(静岡県西部)、下総国(千葉県北部)、相模国(神奈川県)、三河国(愛知県)、和泉国(大阪府南部)、河内国(大阪府東部)の東海道を中心とした7か国14郡という範囲に及びました。
田沼意知の出世
田沼意次を中心とした幕閣は8代将軍徳川吉宗の改革を踏襲しつつ新たな政策を打ち出し「田沼時代」と呼ばれます。ところが打ち出した政策は幕府の利益や都合を優先させたもので、諸大名や庶民の反発を受けます。また民間からも盛んに献策が行われましたが場当たり的なものも多く、朝令暮改となっていき社会の矛盾を拡大させていきました。吉宗の頃には綱紀粛正が行われましたが、混乱した政策の中で幕府役職を賄賂や縁故によって決める人事が横行するなど風紀が乱れます。
度重なる天災や経済の矛盾に腐敗政治も重なり、田沼意次に対する批判が高まりました。
父親の田沼意次が出世し幕閣にまで上り詰めたころ、田沼意知も出世の階段を上り始めます。天明元年(1781)に奏者番に就きます。奏者番は幕閣の下に属し江戸城における武家の礼式の管理、将軍の上使(使者)などを行う役職で、譜代大名が最初に付く出世の登竜門てきな役でした。
天明3年(1783)には意次が世子の身分のまま若年寄となります。若年寄は小禄の譜代大名が就く役職で大名(田沼意次)の世子が若年寄りになるのは異例中の異例です。5代将軍徳川綱吉の時代に老中大久保忠朝の子、忠増が世子のまま若年寄りになって以来の出世でした。また老中格、老中、御側御用人などの仕事の経験を積むことができる役職で次の役職への出世も見えていました。
そんな時に事件は起こります。
田沼意知殺害事件
天明4年(1784)3月24日正午頃、若年寄太田備後、 田沼山城守意知、酒井石見、米倉丹後の順で江戸城老中を退出していた所へ新御番蜷川相模守組の佐野政言が「山城守、(襲われるだけの)覚えがあろう」と三度叫びながら大脇差で殿中刃傷に及びました。政言の刀は意知の肩先、両股、手首に傷を負わせたと言われます。政言はその場で大目付松平対馬守に取り押さえられ、身柄を奉行曲淵甲斐守方の同心、与力に引き渡され切腹に処されました。
切られた側の田沼意知は8日後の天明4年4月2日に亡くなりました、享年36。
襲った大脇差には犬を切りつけた際に付いた血(獣の血が刀に付いていると傷が治らない、と考えられていた)やトリカブト(とりかぶとの根から抽出した毒)が塗りつけられていたそうです。
政言は懐に7箇条をつづった口上書をもっており、田沼意知だけではなく父の田沼意次に関しても書かれていましたが、政言の身内にも類が及ぶと焼き捨てられ、政言の乱心として処理されたので理由は判然として分かりません。
- 田沼意知が佐野家の家系図を見たいと云ったので貸したが、田沼家の家系図を詐称するために奪ったまま返さなかった
- 田沼意知は政言の領内にある佐野大明神を田沼大明神と改め横領した
- 田沼意知は佐野家にあった七曜の旗を見たいと云うので見せたら、これは田沼の定紋だと云って取り上げた
- 田沼家の家来から賄賂を出せば役目につけるぞ、と言われ金を出したが役に付けず合計620両を騙し取られた
- 将軍が木下川筋お成りの時にお供して弓で鳥1羽を射止めたところ、外の者が射たから言上に及ばずと云われ名誉に預かれなかった。
など、当時の時代に反映された理由が考えられています。
田沼意知殺害事件の影響と田沼家の凋落
もともと殺された田沼意知の父、田沼意次の政策は不人気でした。
物流の専売制の実施や鉱山開発、蝦夷地の開発計画、新田開発など物流、金融から広く薄く課税し幕府に利益が入るような財政政策を試みていました。これが収入面ですが、支出面も8代将軍徳川吉宗が進めた質素倹約を継続したため農村は廃退し都市部に人口が流れ、失業者が増えました。田沼意次の政策は江戸市民に受け入れられませんでした。
田沼意次は事件を転機として凋落していきます。
その為、意知を暗殺した佐野政言は称賛され「世直し大明神」などと呼ばれます。市民の間では意知殺害事件や田沼意次の凋落を謡う落首も出回りました。
山東京伝(この作品では北尾政演の名義)を挿絵に石部琴好が著した「黒白水鏡」は田沼意次、意知親子の名前を変えて面白おかしく凋落を書いた黄表紙でしたが、幕府は本を絶版。石部琴好は手鎖(両手を手錠で拘束したうえで謹慎)の後に江戸床払い(江戸からの追放)、山東京伝は過料と苛烈な対応をします。著者が刑にあうのはそれまでもありましたが、絵師に対してまで処罰するのはこれが初めてと言われています。それだけ世間は田沼父子に厳しい目を向け、それに対して幕府も厳しい対処をしなければ世情不安になりかねませんでした。山東京伝はこの「黒白水鏡」事件を契機に画壇から離れた、と言われます。
反対に田沼意知の死と意次失脚に嘆いた人もいます、オランダ商館長イサーク・ティチングです。ティチングは謡曲『鉢木』に因んだ「鉢植えて 梅か桜か咲く花を 誰れたきつけて 佐野に斬らせた」という落首を世界に伝え、「田沼意知の暗殺は幕府内の勢力争いから始まったものであり、井の中の蛙ぞろいの幕府首脳の中、田沼意知ただ一人が日本の将来を考えていた。彼の死により、近い将来起こるはずであった開国の道は、今や完全に閉ざされたのである」と書き残しています。意次の蝦夷地開拓政策や意知の海外への理解から残念がりました。
田沼父子は経済の停滞と外国の接触という外部要因と幕府内部の政治姿勢の違いや権力闘争といった内部要因の犠牲にあったのかも知れません。
その後の田沼家
田沼意次により全盛期を迎えた田沼家でしたが、嫡男意知が暗殺されたのを転換点に陰りを見せ意次は失脚しました。田沼時代の終焉です。
田沼家は意知の長男龍介(田沼意明)が継いだうえで陸奥下村藩1万石に転封されました。
その後、藩主に付いた意知の子供たちが相次いで夭折したため田沼意次の4男田沼意正が田沼家を継ぎます。意正は父意次の時代に水野忠友の養子として水野家に入っていました。しかし意次の失脚により養子縁組を解消され田沼家に戻ってきます。水野家を継いだのは同じように婿養子として水野家に入った水野忠成でしたが、11代将軍徳川家斉の信任を得た人物でした。その水野忠成の推挙もあり田沼忠正は大判頭、若年寄と要職を歴任し、その功績が認められて文政6年(1823)に遠江国相良への戻ることが叶いました。田沼意正は田沼家中興の主となります。
明治元年(1868)、田沼家は駿河国静岡藩が立藩された影響で上総小久保に転封され明治を迎えました。
相良城
田沼意次の時代に遠江国榛原郡(現在の静岡県牧之原市)に建てられた相良城。
生きていれば田沼意知が継いだであろう相良城は相良藩の藩庁として11年の歳月を要し建てられ明和4年(1767)にできたお城です。
もともと相良城のあった場所には相良庄の地頭である相良氏(戦国時代の肥後人吉相良氏の祖とされる)の館(相良館)が築かれていました。戦国時代に入ると甲斐国武田勝頼が遠江国の支配を図り館の場所に築城しています。
江戸時代に入ると徳川家の天領(幕府直轄地)となり相良城は「相良御殿」と呼ばれ、徳川家康の鷹狩り用の場所として使われました。その後、遠江国相良藩が置かれ、本多氏、板倉氏、本多氏の順に治められていきます。
この相良藩に田沼意次が藩主として収まり、築城の許可も得ます。相良に初めてそして最後の天守閣をもった近世城郭が建てられました。城の設計を北条流軍学者の須藤治郎兵衛に任せ、萩間川、天の川を外堀として三重櫓の天守閣、二の丸、三の丸、天守を中心とした櫓は6基、外堀を含めた堀は三重、総石垣つくりで東西500メートル、南北450メートル約7万坪にも及ぶ堂々とした城郭です。
ところが田沼意知が暗殺され、田沼家が陸奥下村藩に移されると天明8年(1788)に相良城は徹底的に破壊され破却されます。相良城は20年の寿命でした。
その後、若年寄田沼意正が相良に1万石の領主として復帰すると藩庁として相良城跡に相良陣屋を構え明治を迎えました。
現在、相良城の城跡には本丸場所に牧之原市役所相良支所、牧之原市史料館が、二の丸場所には牧之原市立相良小学校が、三の丸場所には静岡県立相良高等学校があります。相良城の御殿と書院は藤枝宿の中心地にある円妙山大慶寺の庫裡として移築されました。
- 執筆者 葉月 智世(ライター) 学生時代から歴史や地理が好きで、史跡や寺社仏閣巡りを楽しみ、古文書などを調べてきました。特に日本史ででは中世、世界史ではヨーロッパ史に強く、一次資料などの資料はもちろん、エンタメ歴史小説まで幅広く読んでいます。 好きな武将や城は多すぎてなかなか挙げられませんが、特に松永久秀・明智光秀、城であれば彦根城・伏見城が好き。武将の人生や城の歴史について話し始めると止まらない一面もあります。