大塩平八郎の乱天保の飢饉で起きた反乱

大塩平八郎の乱

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事件簿
事件名
大塩平八郎の乱(1837年)
場所
大阪府
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大阪城

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天保8年(1837年)、大坂で幕府の役人をしていた陽明学者の大塩平八郎が豪商を襲う反乱を起こしました。天保の大飢饉をきっかけとしたこの「大塩平八郎の乱」はわずか1日で鎮圧されましたがその後全国に大きな影響を与え、天保の改革のきっかけにもなっています。今回はそんな大塩平八郎の乱について詳しく解説していきます。

大塩平八郎とは①奉行所で与力として活躍

大塩平八郎の乱の首謀者・大塩平八郎は寛政5年(1793年)1月、大阪天満川崎で大阪東町奉行与力を務める大塩敬高の長男として生まれました。文化3年(1806年)に大坂東町奉行所に見習いとして出仕。賄賂がはびこる奉行所の現状を苦々しく思いつつも勤めに励みます。また、このころ佐分利流槍術や中島流砲術を学びました。

奉行所時代の大塩平八郎は汚職を嫌う正義感の強いまっすぐな人物で、公平な裁判を心掛けていました。例えば文化12年(1815年)に紀州藩(現在の和歌山県と三重県南部)と岸和田藩(大阪府岸和田市など)で境界争いが発生した時、東町奉行所は御三家の一つである親藩の紀州藩に忖度し、判決をためらっていました。そんななか担当を任された平八郎はすぐさま「非は紀州藩にあり」と岸和田藩の勝訴を言い渡しました。

その後目付け役や吟味役などを次々と歴任して出世していった平八郎は、文政12年(1829年)に東町奉行・高井実徳が命じた内部監査を担当し、組違いの与力・弓削新右衛門を粛清。新右衛門は賄賂を受け取って私腹を肥やしつつ非道な取り締まりを行っており、人々から恨まれていました。平八郎は新右衛門を内部告発のすえ、切腹させることに成功したほか、関係者も獄門打ち首にして奉行所内の不正をただしたのです。こうした功績から、平八郎の名は広く知られるようになりました。

大塩平八郎とは②退職後、陽明学者に

大塩平八郎は東町奉行所時代から儒学を学んでいました。江戸幕府が認めた官学は朱子学で、上下関係を重んじる「大義名分論」を説いていました。身分秩序を保つにはピッタリな学問だったため、幕府が都合よく利用していたのですが、この朱子学に対する批判から生まれたのが明の儒学者・王陽明による「陽明学」。「知行合一」、つまり知識と行為は一体であり、実践に生かすことが重要と説く一派です。

陽明学は江戸時代初期に中江藤樹が広めたのが始まりとされています。平八郎は朱子学の形骸化に悩み、陽明学と出会って傾倒していきます。そして与力時代の文政7年(1824年)に天満の屋敷に私塾「洗心洞」を開設しました。

文政13年(1830年)、平八郎とともに汚職と戦っていた東町奉行の高井実徳が老齢などを理由に退職します。それにあわせて平八郎も与力を養子の格之助に譲り、奉行所を退職。幕府の介入などがあったことで腐敗を正しきれず、与力としての限界を感じていたことも一因だったようです。その後は洗心洞で陽明学の研究と教育に専念する平八郎ですが、そんななか発生したのが「天保の大飢饉」でした。

大塩平八郎の乱はなぜ起きた?原因となった「天保の大飢饉」

天保4年(1833年)から天保8年(1837年)までの「天保の大飢饉」では、東北を中心に天候不順による凶作が発生し、全国的な米不足が飢饉を招き、多くの人々が餓死しました。さらに疫病も流行し、病死者を含む死者は全国で20万人〜30万人にも及んでいます。

これまでの大飢饉の経験を活かし、幕府や諸藩は非常用の「囲米(備蓄米)」を放出したり、「御救い小屋」を設けたり、豪商・豪農たちから米を買って配ったりとさまざまな対策をしました。しかし、飢饉が長期化するにつれ人々は疲弊し、被害が大きくなりました。

また、市場経済の発展により、自ら米を作らず綿花や菜種などの商品作物のみを栽培し、飯米を全て市場に買い求めるような商業的農業が増えたことも飢饉の死者が増える一因でした。畿内の場合は綿作農家が増え、日ごろから大坂からの買入米に依存していたため飢饉の際は深刻な米不足が起こり、多くの餓死者が出ることになったのです。

大塩平八郎の乱①飢饉対策を幕府に提案

天保の大飢饉のなか、大塩平八郎は飢饉対策を幕府に提案しました。天保4年(1833年)に大坂西町奉行に着任した矢部定謙は平八郎の献策をうけて米価の調節を実施したといわれており、「名奉行」として慕われています。

しかし天保の大飢饉の後半、特に被害が大きかった天保7年(1836年)以降は大坂でも多くの餓死者が発生しました。このときも平八郎は飢饉の対策を幕府に提案。今回の窓口は同年7月大坂東町奉行所に着任した跡部良弼(老中・水野忠邦の実弟)でした。しかし、平八郎の策は今回は取り上げられませんでした。

通説によればこの跡部良弼は豪商らの米の買い占めを黙認し、大坂のことを顧みず江戸への廻米を積極的に実施するなど、大坂の米不足を招いた「悪徳奉行」でした。事実、天保7年9月(1836年)から翌年5月にかけて、大坂町奉行所は兵庫から江戸へおよそ3万7347石を廻米しています。

しかし大坂奉行所も飢饉を放置したわけではありません。天明の大飢饉の際の経験を踏まえ、天保4年(1833年)から「買占禁令」「酒造制限令」「市中小売米価引下令」に囲米売り払いや官米払下げ施行の実施など、さまざまな対策をおこなっています。また、江戸から大坂に米を買いに来た商人に対しては、大坂の米商人の関与・協力を禁止しており、無尽蔵に江戸に米を送っていたわけではないことがわかります。

とはいえ、豪商達が米を買い占め、大坂への廻米についても各藩が米を領民のために囲い込んだことで十分ではありませんでした。米不足で大坂周辺の人々は困窮していきます。

大塩平八郎の乱②「檄文」で人々を鼓舞

天保7年(1836年)9月、大塩平八郎は大坂の現状を変えようと乱を起こすことを決意。ひそかに武装蜂起に備えて家財を売却し、門弟たちなどに火薬や大砲、鉄砲などの火器を準備させました。そして12月に乱を起こす理由を「檄文」としてまとめ、摂津、河内、和泉、播磨など大坂周辺の農村に送りました。

檄文はなんと2000文字にも及ぶもので、役人の賄賂政治と農民に対する圧政を非難しています。具体的には『論語』『孟子』などに加えて「徳川家康も『よるべもない人々にこそ憐みを加える政治を行うことが仁政の基本』と仰せられている」と家康の言葉も引用しつつ、「ここ245年の太平の世の間に上のものは贅沢三昧。政治にかかわる役人達は公然と賄賂を受け渡している」と幕府を批判。大奥の女中の縁故採用で私腹を肥やす家があることも指摘しています。

さらに平八郎は江戸への廻米や、大坂の豪商達が飢饉にもかかわらず贅沢な生活をしていることを非難し、こうした状況を「蟄居の我々も最早堪忍できない」と強調。「致し方なく天下のためと思い、謀反の罪は一族郎党までがかぶるにもかかわらず、有志の者とともに民を悩ませ苦しめている役人を誅伐する」と断言します。さらに大坂市中の富裕層の町人を誅殺し、蓄えていた金銀や俵米などを分け与えるので、貧窮者は大坂で騒動が起こったという話を聞いたらすぐかけつけるように呼びかけました。また、平八郎は今回の反乱を一揆や謀反ではなく「ここに天命を奉じ天誅を致すもの」、つまりこれは天に代わって腐敗した役人や豪商達を討伐するもの、として正当性を訴えています。

とはいえ、大塩平八郎はすぐさま決起をしたわけではありません。天保8年(1837年)1月には飢饉対策として全蔵書を約620 両で売り払い、困窮者1万軒に金1朱と交換できる引換券「施行札」を配布しています。引き換えは安堂寺町5丁目の本屋仲間会所で実施しています。

大塩平八郎の乱③8時間で終わった決起

天保8年(1837年)2月19日が大塩平八郎たちの決起日でした。当初の予定では、西町・東町両奉行による市内巡検の午後の休憩時間を狙い、砲撃で両奉行を殺害する計画でした。しかし、決行の前々日から離反者が出て奉行所に情報が伝わってしまいます。

決行日の早朝、参加者から決起が奉行所に露見したことを知った平八郎は決起時間を早めます。向屋敷の与力・朝岡助之丞宅へ大筒を打ち込み、自ら屋敷に火をかけてすぐさま討って出たのです。「救民」の旗を掲げた一行は当初は20名程度でしたが、途中で農民や大坂の人々などが加わり、300名規模まで膨れ上がりました。

一党は天満橋の与力や同心の家々を大筒や火矢などで焼き払います。その後、天神橋を渡って船場の豪商の屋敷を目指そうとしましたが、奉行所が道を封鎖していたため難波橋へと迂回。船場の豪商達を襲い、屋敷を焼き払いながら奪った金銀を貧しい人々に配りました。

その後、一党は高麗橋から平野町に差しかかったところで、大坂奉行所方の与力や鉄砲奉行配下の同心、援軍として参加した大坂城を警備していた兵たちと交戦します。幕府方の砲撃により百姓や大坂の人々はおびえて逃げ出し、一党は約100人まで減少。続く堺筋淡路町の交戦で一党はとどめを刺され散り散りに逃げました。

こうして大塩平八郎の乱は発生から約8時間で終結しました。しかし、一党が巻き起こした火事は京風でたちまち燃え広がり、なんと大坂の1/5にあたる2万戸が焼失、270人以上の死者を出す「大塩焼け」となりました。

その後、平八郎は養子の格之助としばらく潜伏しますが、一党は次々と逮捕されていきました。そして乱の発生から40日が経過した3月27日、靭油掛町の美吉屋五郎兵衛の家に潜伏していた2人を幕府が発見。2人は捕り方が踏み込む前に火薬を使って自決しました。幕府が潜伏先についたときは黒焦げの焼死体が残るのみでした。

その後大坂と江戸で裁判がおこなわれましたが、重大な事件だったため時間がかかり、処分が決定したのは天保9年(1837年)8月のこと。大塩平八郎を含む死亡した決起参加者の遺体は塩漬けで保存されており、首謀者19人はその状態で磔にされています。このほか斬首や遠島等の処罰が下り、親戚などを含めると約750名がなんらかの処罰を受けました。

大塩平八郎の乱④届かなかった『建議書』

平成に入り、大塩平八郎の乱の新しい史料が見つかっています。それが乱の前夜・2月18日に江戸幕閣に充てて送った『建議書』の写しです。建議書の内容は幕府の高官たちの不正に関する告発でした。

大きなものが、水野忠邦などの現職の老中も対象になった「不正無尽(頼母子)」の告発です。「無尽」は、講の参加者が一定の口数や金額を決めて定期的に掛け金を払い、積み立てた金額を抽選や入札、談合などにより決めた参加者に払うシステム。金銭ではなく物品を与えるケースもありました。無尽は武家や家臣が関与することは法律で禁じられていたのです。

また、平八郎は元大阪西町奉行の矢部定謙を米相場の不当捜査や配下の悪事の隠ぺいがあったなどとして告発しています。天保の大飢饉初期の良好な関係はどこにいってしまったのでしょうか…。このほか、数名の不正が告発されています。

ところがこの建議書、大坂奉行所の手回しで幕府に届きませんでした。しかも江戸から大坂へ返送される途中、箱根宿(神奈川県箱根町)付近で飛脚によって「金目のものじゃないのか…」と捨てられる始末。拾われた『建議書』は、伊豆国韮山(静岡県伊豆の国市韮山)の代官・江川英龍の手にわたり、英龍はなぜか『建議書』を複写したうえで、江戸に送っています。

内容が内容なだけに幕閣は『建議書』を握りつぶしましたが、英龍のおかげで『建議書』は平成に入って江川家の文書のなかで発見されました。これにより、大塩平八郎の乱を起こした目的が、単なる大坂奉行所や大坂商人達の不正を正すだけでなく、江戸幕府の政治腐敗を摘発することも含まれていたことが分かります。平八郎は幕府の不正にメスを入れることで、幕府内の政治改革を期待したのかもしれません。

大塩平八郎の乱の影響

元幕府の役人、しかも正義感の強い能吏として知られていた大塩平八郎による反乱は世間に激震を走らせました。檄文は全国に広がり、その影響で桑名藩領柏崎(新潟県柏崎市)で「生田万の乱」が起こるなど、全国で乱や一揆が起こりました。

大塩平八郎の乱の4年後の天保12年(1841年)には老中首座の水野忠邦による「天保の改革」が始まります。倹約令に農村復興、風紀の取り締まりなどが行われた改革は2年で失敗。幕府への批判はさらに強まり、幕末の動乱へとつながっていくのです。

栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。