東海道五十三次歌川広重の浮世絵の木版画代表作
東海道五十三次
有名な浮世絵師・歌川広重の代表作のひとつとして知られているのが『東海道五十三次』です。東海道の53の宿に加え、出発地の江戸・日本橋と終点の京都・三条大橋を描いた55図の風景画の連作で、当時の江戸の旅行ブームとあいまって一大ヒットを巻き起こしました。永谷園のお茶漬け商品のおまけカードとして封入されているので、見たことがあるという方も多いのではないでしょうか?今回はそんな歌川広重による『東海道五十三次』について詳しく解説していきます。
『東海道五十三次』とは?実は何作もあった!
浮世絵師・歌川広重は数々の名作を世に送り出しましたが、なかでも東海道をテーマにした『東海道五十三次』は広く知られた作品です。ただし、広重は20作以上東海道をテーマにした作品を描いており、『東海道五十三次』と一口にいっても、書体が通称になった「行書東海道」こと『東海道五十三次之内』や、「隷書東海道」こと『東海道』などがあります。
現在最もよく知られており、永谷園のカードにもなったのは天保5年(1834年)頃から天保7年(1836年)頃にかけて(※諸説あり)順次発表されていった『東海道五拾三次之内』。新興の版元・保永堂竹内孫八と老舗の仙鶴堂鶴屋喜右衛門の手により世に送り出されました。のちに保永堂による単独版行となっており、それにちなんで他の版と区別するために「保永堂版」と呼ばれています。なお、以下は保永堂版を『東海道五十三次』と表記します。
東海道五十三次の作者・歌川広重
名作を世に出した歌川広重、本名安藤重右衛門(後に徳兵衛)は、江戸八重洲河岸の定火消同心・安藤源右衛門の嫡男として、寛政9年(1797年)に生まれました。文化六年(1809年)に両親を相次いで亡くしたのちは13歳で家督を継ぎ、30俵2人扶持の定火消同心になります。
その一方、幼少期より絵が上手かった広重は文化8年(1811年)頃、浮世絵師の歌川豊広に入門し、翌年「歌川広重」の画号を許されます。広重の名前は師匠の「豊広」と、本名の「重右衛門」から一字ずつ取ったものでした。そして本業のかたわらで浮世絵師として役者絵や美人画、表紙絵や挿絵を描くようになります。ただしこのころはあまり人気が出ませんでした。
文政6年(1823年)に同心職を叔父に譲り、しばらくは代番として役所にも勤めましたが、やがて浮世絵師を本業にしていくことを決意。文政12年(1829年)、師匠の歌川豊広が亡くなったときは「豊広」の名を継ぐことも提案されたそうですが、これを辞退しています。そして翌年、斎号をそれまでの「一遊斎」から「一幽斎」に改めました。
また、このころから広重は名所絵(風景画)風の錦絵を発表し始めました。そうした作品が足掛かりになり、天保2年(1831年)に『東都名所拾景』を発表しました。なお、同年に葛飾北斎の『冨嶽三十六景』の刊行がスタート。爆発的なヒットを巻き起こし、浮世絵師たちによる風景画は当時の旅ブームもあり、次々と発表されていきます。
そうした背景のなかで、天保4年(1833年)、広重はついに『東海道五十三次』を発表。以降、広重は風景画家として街道や名所などにちなんだ作品を次々に発表していきます。さらに花鳥画や肉筆画も手掛けるようになりました。晩年は『名所江戸百景』を制作。その名の通り江戸のさまざまな風景を庶民の暮らしを交えながら切り取った風景画でしたが、100図以上を発表したのち、安政5年(1858年)に広重は62歳で病没します。死因は当時流行していたコレラに罹患したことだといわれています。
東海道五十三次①東海道の宿場町がテーマ
歌川広重が風景画のテーマとした「東海道」は全長約495.5kmに及ぶ街道です。江戸の日本橋から京都の三条大橋までを陸路で結び、間には53の宿場が設けられています。東海道の下地ができたのは奈良時代だといわれており、古くから東西交通の要として人々に利用されてきました。
東海道は時代を経ることに拡張していきましたが、本格的に街道整備に着手したのは徳川家康で、江戸を起点とする五街道のひとつとして整備されました。当時は家康の本拠地である江戸と朝廷のある京、豊臣氏の本拠地・大坂を迅速に移動するため、いわば軍事用の道路として整えられましたが、時代が平和になるにつれ宿場町が発展し、庶民が宿場町で名物を楽しみ、富士山を眺めながらのんびり旅を楽しむようになっていきました。『東海道五十三次』はそんな江戸時代の人々のガイドブックのような存在でもあったのです。
ちなみに、広重は『東海道五十三次』を描く際、実際に東海道を歩いたという「伝承」があります。天保3年(1832年)の夏、幕府の八朔(はっさく)御馬献上の行列に従って京まで歩いたのだとか。八朔というのは8月の朔日(ついたち)、つまり8月1日のことで、この日に朝廷に馬を献上することは幕府にとって重要な儀式でした。この様子を写生したといわれているのが、広重の肉筆画『御馬献上行列図』です。
しかし、現在は広重が描いた三条大橋が、本来橋桁が石柱のはずが木製で描かれていることなどから、広重は実は京までいかなかった、というのが研究者から有力な説として出されています。とはいえ途中までは歩いたようですが…。では広重は『東海道五十三次』をどうやって描いたのかというと、それまでに描かれていた浮世絵などの資料をモチーフに取り入れつつ、広重独自の作品へと昇華していったようです。
東海道五十三次②「ヒロシゲブルー」として名高い美しい「ベロ藍」
『東海道五十三次』には美しい藍色が使われています。後に海外の人から「ヒロシゲブルー」と呼ばれて愛されるようになるこの藍色ですが、実はオランダから輸入された「ベロ藍(ベルリン藍、プルシアンブルー)」によるもの。つまり、「ヒロシゲブルー」は逆輸入されたのです。
ベロ藍はもとはベルリンで発見された絵具で、科学者たちが赤色絵具の製造中に偶然見つけました。延享4年(1747年)にオランダ船が日本に持ち込みましたが、この時はなぜかすべて送り返されています。
ベロ藍が広まったのは文政年間(1818年〜1830年)のこと。オランダ産のベロ藍は高級なものでしたが、そのころになると中国から安いベロ藍が入ってくるようになり、浮世絵に広く使われるようになりました。安価で濃淡が出しやすく、ぼかすこともできるベロ藍は浮世絵師たちにとって最適な画材でした。ちなみに葛飾北斎の『冨嶽三十六景』にもベロ藍が使われています。
東海道五十三次③広重vs北斎?風景画対決
歌川広重の『東海道五十三次』とよく対比されるのが、葛飾北斎の『冨嶽三十六景』です。両方とも風景画として人気を博しましたが、大胆な構図や知略に満ちた演出で有名な『冨嶽三十六景』に対し、『東海道五十三次』は遠近法を効果的に用いながら、四季折々の変化を盛り込んだ写実的かつ繊細な表現が特徴です。また、時刻の変化や雨や雪といった天候も巧みに取り入れられており、深い旅情を表す抒情的な作品群といえるでしょう。
後に広重は風景画の第一人者として人気を博しますが、大胆で華やかな北斎に対し、臨場感のある情緒的な広重の風景画のほうが、江戸の庶民たちには受け入れられたようです。
東海道五十三次④東海道中膝栗毛との関係も!?
歌川広重による『東海道五十三次』が流行していた時代は、先に述べた通り一大旅行ブームの真っ最中でした。そのブームの火付け役が、享和2年(1802年)から文化11年(1814年)まで刊行された十返舎一九の『東海道中膝栗毛』。文化7年(1810年)から文政5年(1822年)までは続編『続膝栗毛』が刊行されるほどのベストセラー本です。
広重の『東海道五十三次』もこの『東海道中膝栗毛』の影響を大きく受けていました。例えば東海道の20番目の宿場町・鞠子宿(丸子宿とも。現静岡県静岡市駿河区丸子)を描いた「鞠子名物茶店」には鞠子名物の自然薯を使ったとろろ汁を出す茶屋が登場していますが、ここにいる2人組の客は『東海道中膝栗毛』の主人公コンビ・弥次さん喜多さんのような雰囲気。このうち1人は勢いよくどんぶりをかっこんでいます。
小説『東海道中膝栗毛』のなかでは、弥次さんと喜多さんは鞠子宿の茶屋で店主の夫婦げんかに巻き込まれ、結局名物のとろろ汁は食べられませんでした。このため広重は自分の浮世絵のなかで食べている姿を描いてあげたともいわれています。ちなみにこの茶屋のモデルは「丁子屋」で、現在もお食事処として営業しており、人気スポットです。
東海道五十三次の人気作①日本橋 朝之景
それではいよいよ、東海道五十三次の作品についてみていきましょう。55図あるうちの有名なものの1枚として知られているのが、最初の「日本橋 朝之景」ではないでしょうか。
浮世絵には早朝に江戸から国元に向かう参勤交代の行列が日本橋(東京都中央区日本橋)を渡っている様子が描かれています。手前には日本橋の北岸にある魚河岸から魚を仕入れたのでしょうか、棒手振りたちが行商に出かける様子も見てとれます。朝の日本橋の風景が細かく描かれており、まるで人々の声が聞こえてくるかのようです。
東海道五十三次の人気作②蒲原 夜之雪
続いてご紹介するのは15番目の宿場町の蒲原宿(静岡県静岡市清水区)を描いた「蒲原 夜之雪」です。しんしんと降り積もる雪に覆われた蒲原に、3人の人物が描かれています。右手の一人は菅笠に合羽、一人は旅人御用達の小田原提灯を手にしています。左に描かれた人物は半開きにした番傘に雪下駄を履いています。水墨画のような白と黒のコントラストが美しい幻想的な光景です。
が、実際の蒲原は温暖な地域なので、こちらに描かれた雪景色は広重の想像によるものでした。広重の雪景色の代表作ともいえるこの作品が、広重の脳内で作り出されたものというのはとても驚きですね。
東海道五十三次の人気作③御油 旅人留女
続いて紹介するのは35番目の宿・御油を描いた「御油 旅人留女」。御油は飯盛女が多い遊興の町、女遊びが楽しめる町として知られていました。隣の赤坂宿とはわずか1.7kmの距離だったため、日暮れになると赤坂に行かせまいと客引き(留女)が強引に旅人を引っ張ることで有名だったようです。
浮世絵には旅人を無理やり宿に引きずり込もうとしている留女と嫌がる男性がユーモラスに描かれています。実はこちらも『東海道五十三次』ネタで、男性は弥次さん喜多さんがモチーフになっています。
また、この作品は身内ネタが多く隠されています。店の壁に並べられた講中札には作品にかかわった彫師や摺師などの名前がずらり。広重の名前も「一立斎図」としっかり入っており、奥の壁には「竹之内版」と版元(保永堂竹内孫八)の名前が堂々と宣伝されていました。
東海道五十三次の人気作④庄野 白雨
最後にご紹介するのは45番目の宿場町・庄野宿(三重県鈴鹿市庄野町)を描いた「庄野 白雨」です。『東海道五十三次』内の屈指の名作として知られるもので、「白雨」とは夕立のこと。激しい夕立の中、坂を必死に登る駕籠かきや地元の農夫、一方で駆け降りる旅人と農夫。強い風で竹林がしなっており、雨でけぶる竹林は異なる色で刷り分けられています。
庄野の近くには鈴鹿川があり、大雨の際は水害に悩まされました。農夫たちが走っているのは川による水害を心配してのことでしょうか。一枚の絵からさまざまなストーリーを考えられる、細部までこだわった作品です。
モネやゴッホにも認められた歌川広重
歌川広重は『東海道五十三次』を発表した後もさまざまな作品を生みだしました。江戸幕府の開国前後から、そうした浮世絵は他の美術工芸品とともに海外、なかでもヨーロッパに伝わり、19世紀後半に「ジャポニズム」として爆発的なブームを巻き起こします。とくに慶応3年(1867年)のパリ万博で、浮世絵は西洋社会に大きな衝撃を与えました。
広重の浮世絵は印象派の画家たちを中心に多くのヨーロッパの画家に影響を与えました。例えばモネは日本風庭園「水の庭」を作り、なかに太鼓橋を置いています。庭園は広重による『名所江戸百景』の「亀戸天神境内」がモデルになっていたようです。
また、ゴッホは『タンギー爺さん』の背景に広重の『冨士三十六景』の「さがみ川」などが描かれています。模写もしており、『名所江戸百景』の「亀戸梅屋舗」や「大はしあたけの夕立」などは模写作品が残されています。
『東海道五十三次』から始まったともいえる広重の風景画家人生。その集大成ともいえる『名所江戸百景』がヨーロッパでも大人気になるとは、広重自身にとって思いもしなかったことに違いありません。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。