天保の大飢饉大塩平八郎の乱を招いた大飢饉
天保の大飢饉
江戸時代には何度も飢饉が起きましたが、なかでも被害が大きかったのが享保の飢饉・天明の飢饉・天保の飢饉の「江戸の三大飢饉」です。このうちもっとも遅くに起こったのが天保4年(1833年)から天保8年(1837年)まで起こった天保の大飢饉。全国で20万人から30万人の死者を出し、大塩平八郎の乱の原因にもなった飢饉ですが、今回はそんな天保の大飢饉について詳しく解説します。
天保の大飢饉の背景
天保の大飢饉は江戸時代後期の天保年間(1830年〜1844年)、天保4年(1833年)から天保8年(1837年)に発生した大飢饉です。当時の将軍は子だくさんの「オットセイ将軍」として知られる第11代将軍・徳川家斉です。家斉は将軍についた当初、老中首座に松平定信を起用しています。定信は白河藩主として、天明2年(1782年)から天明8年(1788年)に起きた「天明の大飢饉」の対策を成功させた人物。飢饉対策の手腕が評価されたのも、老中に抜擢された一因でした。
定信は幕府の財政難を立て直すために質素倹約・綱紀粛正に重きを置いた「寛政の改革」に取り組みます。ところが厳しすぎる財政改革は人々の反感を買ってしまい、寛政5年(1793年)7月に老中を解任されてしまいました。
代わって政治の実権を握ったのが徳川家斉です。定信失脚直後は、定信が登用した松平信明たち「寛政の遺老」に政権を任せていましたが、信明が病死した後は残った遺老たちも失脚。家斉は側用人の水野忠成を老中首座に任命し、政権運営を任せます。
水野忠成は松平定信と対立した田沼意次派だったため、庶民からは「水野出て 元の田沼と なりにけり」などと皮肉られました。そう、忠成は定信時代に禁じられた賄賂を復活させたのです。忠成は同族の水野忠邦(後の天保の改革の立役者)を引き上げたことでも知られますが、この忠邦もかなりの賄賂をばらまいて出世したことで知られています。
水野忠成が政権を運営する一方で、家斉は側室を次々と娶ります。家斉の子女はなんと55人!側室の人数も多く、大奥の費用はかさむ一方でした。さらに子どもたちを大名の養子に出す費用も馬鹿になりませんでした。さらに家斉本人がぜいたくな生活を好んで浪費を続ける始末。こうした将軍家にまつわる莫大な支出は、幕府の財政の悪化の大きな原因となったのです。
このため忠成は幕府の財政を立て直そうと奔走しました。天保5年(1834年)2月に亡くなるまで、忠成は8回にわたって貨幣を改鋳しています。改鋳により金の品位が低下したため大幅なインフレが発生しましたが、幕府の財政立て直しには成功しています。
一方、庶民たちの間では文化文政年間(1804年〜1830年)を中心にした町人文化「化政文化」が華開きます。江戸を中心に歌舞伎がブームになり、喜多川歌麿、葛飾北斎や歌川広重などによる浮世絵、『東海道中膝栗毛』等の滑稽本が人気を博しました。
そんな贅沢奢侈がもてはやされた時代のなか、突如起こった飢饉が「天保の大飢饉」でした。
天保の大飢饉①原因は天候不順
天保の大飢饉の原因は天候不順による凶作です。天保の大飢饉で被害が大きかったのは東北地方ですが、一大稲作地域だった東北地方の凶作による米不足は全国に影響し、多くの地域で米不足による飢饉が発生しています。
東北地方の凶作は「やませ」と呼ばれる特有の冷たい北東風が原因でした。やませは梅雨の時期から真夏にかけて、海を渡って吹きつけてくる風で、長雨を呼び、低温や日照不足の原因になったのです。特に現在の青森、岩手、宮城県の太平洋側の地帯はかなりの被害を受けています。
天保の飢饉の場合、例えば東北地方の津軽弘前藩(青森県西部)のデータによれば、天保4年(1833年)には低温、大雨による洪水、突然の日照りなどの天候不順で米が凶作になりました。翌天保5年(1834年)は豊作だったことで一息付くことができましたが、天保6年(1835年)は再び天候不順と山瀬の影響で凶作が起こります。
天保6年(1835年)の天候不順については、同年1月20日、中南米のニカラグア西部にあるコシグイーナ火山が大噴火を起こしたことが関係しているとの説があります。仙台・伊達藩の一門で、涌谷城(宮城県遠田郡涌谷町)の城主・伊達安芸に仕えた花井安列の日記によれば、4月1日に「ここ数日は異常な朝焼けが見られ、毎朝霜が降り白くなる」との記述があり、これは噴火の影響だと推察されています。
研究者によれば、火山が噴火すると噴火の際の火山灰やガスなどが地球を覆い、日をさえぎることで地上の気温が下がる「日傘効果」が起こります。この影響は数年程度見られるもので、広域的な寒冷化を招くことが過去の記録や考古学的なデータなどから分かっています。
天保6年も冷夏だったようで、日記には8月1日に盛岡で大霜がおりた事が伝聞として記されています。また、8月末には大洪水が発生し、仙台藩の稲作に大打撃を与えました。
翌天保7年(1836年)も日傘効果は続き、大冷夏が起こります。日記によれば6月〜7月は雨で寒くて合わせや綿入れを着るような気温の日が多く、9月も寒くて綿入れを着ていたようです。研究者によれば天保7年の夏の平均気温は平年と比べると2.8℃低く、この冷夏により、仙台藩の米の収穫量は90%減となっています。
天保の大飢饉②幕府や諸藩の対策は?
こうした長く続いた天候不順は全国的な米不足を招き、各地で飢饉が発生しました。なかでも天保7年には続く全国的な米不足で米価格が高騰し、それを豪商達が買い占めたことで人々からの恨みを買い、打ちこわしや一揆が多発しています。また、江戸では各地の流民が流れ込んだことで治安が悪化しました。
天保の大飢饉に対し、幕府や諸藩はさまざまな対策を講じます。天明2年(1782年)から天明8年(1788年)に天明の大飢饉が起こっていたこともあり、飢饉の対策についてはある程度整っていました。
幕府や諸藩は窮民を「御救い小屋」を設けたり非常時用として蓄えてあった「囲米(備蓄米)」を放出したり、豪農や豪商の持つ余剰米を買い付けたりとさまざまな対策をしました。年貢の減免措置をとるケースもありましたがわずかにとどまり、農民たちにとっては焼け石に水。廃農し流民になり、江戸に流れる人々が増えました。江戸では21棟の御救い小屋が設置されましたが、御救い小屋では収容しきれないほどの窮民が江戸にいました。
また、民間サイドでもさまざまな飢饉対策がされており、例えば天保5年(1834年)には大坂で豪商達が窮民に対して義援金を出し、米の施しをおこなっています。
こうした対策やこれまでの備蓄などもあり最初のうちはなんとかしのいだ藩もあったようですが、飢饉が7年も続くと被害は莫大なものになりました。餓死者や疫病などによる死者は東北地方だけでも10万人前後、全体で20万人から30万人にも及びました。日本の人口は天保4年(1833年)が3198万人だったところ、天保9年(1838年)には3073万人となり、約125万人まで減少しています。
天保の大飢饉③餓死者0の藩があった?
多くの犠牲者をだした天保の大飢饉ですが、餓死者が少なかった、餓死者が0だったと言われる藩もあります。そのひとつが三河国にあった田原藩(愛知県東部・渥美半島)です。
天保の大飢饉のときの藩主は11代目の三宅康直。その家老で儒学者でもあった渡辺崋山は天保4年(1833年)からの飢饉の発生を受け、天保6年(1835年)、康直に備蓄のための義倉「報民倉」の建設を願い出て許可されました。そして天保7年(1836年)、田原藩は風水害で農作物に多くの被害が出ましたが、報民倉の米をお救い米として放出。加えて疫病の防止や田畑の復興などにも努めたことで餓死者は出ませんでした。このため幕府は天保9年(1838年)に田原藩を表彰しています。全国で表彰されたのは田原藩だけでした。
このほか、天明の大飢饉のときも藩主・上杉鷹山の主導で餓死者0で乗り切ったとされる米沢藩(山形県)も、天明の大飢饉の教訓を生かした結果、被害はほとんどありませんでした。鷹山は天明の飢饉の反省により、天明4年(1784年)から20年で籾と麦を約33万俵貯蓄する計画を実施しており、20年では目標達成には至らなかったものの、天保の大飢饉の際はしっかりとした備蓄が確保できたのです。なおかつ計画を進めるなかで窮民の救済システムも確立しており、天保の大飢饉も無事に乗り切れました。
天保の大飢饉⑤大坂で大塩平八郎の乱が発生
天保の大飢饉を何とか乗り切った藩がある一方で、ほとんどの藩では人々は飢えに苦しめられました。幕府や藩は対策したものの飢饉は収まらず、農民たちの不満は爆発。全国で「一揆」や「打ちこわし」が発生します。たとえば甲斐国(山梨県)では天保7年(1836年)8月に「天保騒動」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生しています。
そうしたなかでも有名なものとして知られているのが天保8年(1837年)に大坂で起きた「大塩平八郎の乱」です。大塩平八郎は大坂東町奉行の与力だった人物で、腐敗を嫌い汚職を摘発し、能吏として有名でした。しかし、賄賂が横行する当時の幕府にとっては煙たい存在で、平八郎が汚職事件を摘発しても幕府は役人をかばってうやむやにしました。限界を感じた平八郎は与力をやめて私塾を立ち上げ、陽明学の研究に取り組みました。
そんななかで起こった天保の大飢饉。全国的な米不足は大坂も直撃しており、ひどい時には1日に150人もの死者が出たと伝わっています。平八郎は奉行所に民衆を助けるよう提言しますが幕府はこれを拒否。このため自分の蔵書5万冊を売却し、その資金で人々を救済します。貧しい人々に金一朱と交換できる「施行札」を配布したのです。
しかし大坂町奉行所はこれを「売名行為」と非難しました。さらに町奉行の跡部良弼は、大坂の人々が苦しむなか、豪商から購入した米を徳川家慶就任のお祝いとして江戸に送る始末です。豪商達は変わらず米の買い占めを続けている…ついに平八郎は武装蜂起を決意します。
平八郎たちは大砲や爆薬を購入して準備を進め、2000文字にもわたる檄文を飛ばします。内容は中国の故事などを引き合いに出しながら江戸幕府の政治の腐敗を非難し、役人を討伐し、豪商を成敗することを説明したもの。「天命を奉じて天誅する」、つまりこれは謀反ではなく天に代わって腐敗した役人や豪商達を討伐するものだ、としています。
そして天保8年(1837年)2月19日、平八郎たちはついに決起します。実は前々日から前日にかけて、離反者が大坂奉行所に駆け込んだり密告したりしたため、平八郎の計画は幕府側には事前に漏れていました。このため平八郎は急遽予定を変更します。当初は市内巡検中の西町奉行を襲って爆死させる予定でしたが、自ら屋敷に火をかけて討って出たのです。
大塩一党は農民や大坂町民などを巻き込んで、最大300名規模まで膨れ上がりました。一党は豪商達を襲い、奪った金銀を貧しい人々に配りました。また、大砲や火矢を豪商達の屋敷などに放ちましたが、これが風にあおられて大火事を引き起こします。「大塩焼け」と呼ばれるこの火事で大坂の1/5にあたる2万戸が焼失、270人以上の死者を出しました。
その後、大塩一党は奉行所側の部隊と激突して蹴散らされ、半日で乱は終結しました。首謀者の平八郎は養子の格之助としばらく潜伏しますが、幕府の手が伸びるやいなや、火薬を使って自決しました。幕府が潜伏先に踏み込んだ際は、黒こげの死体2体が残されるのみでした。
大塩平八郎の乱の与えた影響
元幕府の役人による大坂での反乱は世間に激震を走らせました。平八郎の手による檄文は全国に広がり、その影響で乱や一揆が起こったほどです。また、大塩は自決しましたが、死体は顔が分かる状態ではなかったため、「大塩平八郎はまだ生きている」といううわさが流れました。平八郎は庶民の救い主のような存在になったのです。このため幕府は塩漬けにした黒焦げの死体を磔にしています。
こうして幕府への不満はますます高まるなか、老中首座に就いた水野忠邦が天保12年(1841年)から「天保の改革」を実施。倹約令に農村復興、風紀の取り締まりなどに取り組みますが改革は2年で失敗し、幕府への批判はさらに強まりました。この改革に前後する形で各藩でも藩政改革がおこなわれ、長州や薩摩、土佐、肥前のいわゆる「薩長土肥」各藩が改革に成功。幕末の倒幕運動で大きな役割を果たすことになっていくのです。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。