冨嶽三十六景日本を代表する北斎の浮世絵
冨嶽三十六景
日本の浮世絵は国内外で人気ですが、なかでも浮世絵師・葛飾北斎の描いた『冨嶽三十六景』は日本のアイコンといっても過言ではない超名作です。特に『神奈川沖浪裏』はパスポートや千円札の図案にも使われており、目にしたことがない日本人はほぼいないのではないでしょうか。今回は江戸時代を代表する稀代の浮世絵師・北斎の描いた冨嶽三十六景について解説していきます。
冨嶽三十六景とは?実は四十六景!?
『冨嶽三十六景』は浮世絵師・葛飾北斎が描いた富士山をテーマにした色鮮やかな錦絵(多色摺りの浮世絵版画)の画集です。『冨嶽三十六景』は北斎の最高傑作と言われており、この一揃いの作品群により北斎は風景画を浮世絵の一ジャンルとして確立させたと言われています。なお、『冨嶽』というのは富士山のこと。現在では『富嶽三十六景』の表記をよく見ますが、出版当時は「富」の異体字である「冨」が使われました。
出版されたのは天保2年(1831年)頃から天保5年(1834年)頃までで、出版当初、北斎はもう72歳でした。最初は三十六景の名の通り36図で終わるはずだったのですが、冨嶽三十六景は爆発的なヒットとなり、次々と増刷されました。
これを受けて版元の西村永寿堂は10図を後に追加することを決定。このため三十六景なのにもかかわらず46図あるという、看板に偽りありなちょっと不可思議な状態になりました。なお、最初の36図については「表富士」、追加の10図については「裏富士」と呼ばれています。
『冨嶽三十六景』については書かれた順番は不明ですが、「表富士」「裏富士」の区別はついています。後で詳しく解説しますが、輪郭線が「藍色」のものが「表富士」、「黒色」のものが「裏富士」です。
冨嶽三十六景を描いた売れっ子浮世絵師・葛飾北斎
大ヒット作品『冨嶽三十六景』を描いた葛飾北斎(1760-1849)。絵師としての活動期間は約70年にも渡りますが、その間画号をコロコロ変えており、総数なんと30以上もあります!面白いエピソードに事欠かない天才肌の人物で、「画狂人」というある意味とってもぴったりな画号を名乗っていたこともあります。
また、北斎は片付けが全くできなかったそうで、散らかるたびに新しい家に移動し、生涯で90回も引っ越ししました。とはいえそんなに遠くに引っ越さなかったようで、ほとんどが現在の東京都墨田区周辺だったようです。
もともと北斎の生まれは本所割下(現東京都墨田区)で、幼い時から絵に親しんでいました。本名は川村鉄蔵で、19歳の時に浮世絵師の勝川春章に弟子入りし、翌年「勝川春朗」としてデビュー。15年ほど勝川派の絵師として活躍し、役者絵や美人画、動植物、黄表紙や洒落本などの挿絵から春画まで、さまざまな絵を手がけました。
その後は狩野派や琳派、オランダの風景画など幅広くさまざまな絵画の技法を学び、独自の様式を確立していきます。寛政7年(1795年)には琳派の流れをくむ俵屋宗理を継いで「宗理」と号しました。
その後、寛政10年(1798年)に「宗理」を門人に譲って「北斎辰政」として独立し、文化2年(1805年)から文化6年(1809年)は「葛飾北斎」と号しました。このころ曲亭馬琴や十辺舎一九などのベストセラー作家と組んで読み本の挿絵を手がけています。
一時期はなんと弟子を200名も抱えていたという北斎。弟子の教育のため、数々の「絵手本」(絵の指南書)を残しています。文化11年(1814年)にはさまざまなモチーフをいろいろな角度や構図で描いた図案集『北斎漫画』の初編が出版されていますが、こちらも絵手本の性格を備えていました。
文政3年(1820年)から天保4年(1833年)までは「為一」の画号で活動し、72歳の時に『冨嶽三十六景』の刊行がスタート。天保5年(1834年)の75歳の時にはさらに富士山にフォーカスした『冨嶽百景』を発表しています。
晩年は肉筆画の傑作を発表し続けており、なんと油絵にも興味を持っていたそうです。嘉永2年(1849年)に90歳で病に倒れるまで作品を書き続け、死期を察した際は「天我をして5年の命を保たしめば真正の画工となるを得べし」、つまり「あと5年命があれば真の絵描きになれたのに」という言葉を残しています。晩年に至っても自分の絵に満足せず走り続ける北斎は、まさに「生涯現役」を体現する人物と言えるでしょう。
冨嶽三十六景①当時大人気だった富士山が題材
話を『冨嶽三十六景』に戻しましょう。『冨嶽三十六景』のモチーフとなった富士山は古来から日本人の信仰の対象であり、日本の文化に大きな影響を与えてきました。富士山をテーマにした多くの芸術作品が作られ続けており、2013年には世界文化遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として登録されています。
葛飾北斎がそんな富士山をモチーフにしたのは、北斎自身が富士山からインスピレーションを得ていたからかもしれませんが、江戸時代の人々の文化や風習、精神性が深く関係していました。
江戸時代、富士山は人々から篤く信仰されていました。昔は噴火を繰り返した富士山ですが、噴火活動の沈静化にともない修験者たちが足を踏み入れるようになり、やがて登山道が整備され、信仰登山の対象になっていきました。その信仰が民衆化・一般化したのが江戸時代初期です。
江戸時代、庶民の間では富士山に集団登山・参拝する「富士講」が盛んになりました。また、江戸を中心に富士山に見立てた山や塚「富士塚」が作られ、富士山が祀られるようにもなっています。この富士講による富士山信仰ブームが、『冨嶽三十六景』の大ヒットの一因だったのです。
冨嶽三十六景②「ベロ藍」の美しい青が魅力
『冨嶽三十六景』のヒットのもう一つの理由は、浮世絵に使われた美しい藍色でした。宝暦2年(1752年)頃、オランダから「ベロ藍(ベルリン藍、プルシアンブルー)」が輸入されたことで、いままでとは異なる透明感のある青が浮世絵に使われるようになったのです。
ベロ藍は「ベルリン藍」の略称で、その名の通りベルリンで発見された絵具です。科学者たちが赤色絵具の製造中に偶然見つけました。「鎖国」中の江戸時代、日本が門戸を開いていた欧州の国はオランダだけだったため、オランダ経由で日本に伝わっています。実は延享4年(1747年)に日本に来ていたのですが、この時はなぜかすべて送り返されてしまったのだとか。
当初は舶来物ということで大変高いベロ藍でしたが、文政年間(1818年〜1830年)の後半になると中国から安いベロ藍が入ってくるようになり、浮世絵に広く使われるようになりました。
実は、ベロ藍以前の青は植物染料がメインでしたが、深い色は出せず、時間の経過とともに色が褪せてしまうという欠点がありました。鉱物由来の青もありましたが、庶民の浮世絵に使うには高価すぎるという欠点があったのです。
ところがベロ藍は比較的安く、色鮮やかな色が保てることに加え、濃淡がつけやすかったので浮世絵師たちは大喜びしました。「藍摺絵」と呼ばれる藍色の濃淡だけで作られた錦絵も生まれたほどです。文政12年(1829年)には浮世絵師・溪斎英泉がベロ藍の団扇絵を発表し、江戸を中心にベロ藍は大流行しました。このブームに乗っかったのが『冨嶽三十六景』だったのです。
『冨嶽三十六景』の広告には「藍摺一枚、一枚に一景づつ追々出板」と書かれており、当初は藍摺絵のシリーズとして計画されていたことが分かります。実際、『冨嶽三十六景』には「甲州石班沢」「常州牛堀」「信州諏訪湖」など10点ほどの藍摺絵が存在します。
また、『冨嶽三十六景』を代表する3図(三役)のひとつである『凱風快晴』(通称「赤富士」)にはなんと藍摺版が存在しており、「青富士」と呼ばれています。世界で数点しか残されていないものですが、いかに藍摺絵が好まれたか分かりますね。
さらに、「表富士」36図については輪郭線や題名、画号などが藍色です。浮世絵は絵師が版画の下絵を担当し、彫師が版木を彫り、摺師が和紙にする形で完成しますが、輪郭線のみを摺った「主版」が藍摺でした。一方「裏富士」10図については墨を使っているので、そのころはブームが落ち着いてきたのかもしれません。
冨嶽三十六景の三役①『神奈川沖浪裏』
『冨嶽三十六景』には代表作、いわゆる三役とされる作品が3図あります。そのうちのひとつが『神奈川沖浪裏』で、海外では「グレート・ウェーブ」の名で親しまれている浮世絵です。神奈川沖近辺の情景を描いたもので、左側に豪快に盛り上がった大きな波が迫力満点に描かれており、中央に富士山が、右側には鮮魚を江戸に届ける三艘の押送船から荷を受け継いだ八丁櫓船が描かれています。
絵は遠近法が活用されているほか、コンパスや定規を使った幾何学的な構図づくりがされているのが特徴です。江戸時代にコンパス?と思うかもしれませんが「ぶんまわし」と呼ばれて活用されていました。北斎はコンパスを活用した絵描きの方法を絵手本で紹介しており、浮世絵を描く際に活用していた様子が分かります。また、大波の曲線が黄金比(1:1.618)から生まれる「黄金螺旋」になっているのも大きな特徴です。
さらに絵は低いところから大波を見上げるような視点と、上から船を見下ろすような視点で描かれており、こうした多視点も『神奈川沖浪裏』に深みを与えています。
なお、この絵の原型といわれているのが、北斎45歳頃に描いた「おしをくり はとう つうせんのづ」と呼ばれる浮世絵。波と船という構図が似ており、西洋画の影響を受けた作品だと言われています。
冨嶽三十六景の三役②『凱風快晴』
『冨嶽三十六景』の代表作として広く知られる『凱風快晴』、通称「赤富士」はどこからの景色を描いたのかはっきりしていません。富士吉田市、富士市、河口湖周辺など、さまざまな説がありますが、いずれにせよ富士山の近くから見た景色であることは間違いなさそうです。
北斎は夏から秋にかけての晴れた朝、富士山が朝日を浴びて赤くかがやくさまを観察して描いたとされています。空一面に広がるいわし雲と赤い富士山、頂上の雪のコントラストが美しい作品ですよ。山のすそ野の部分のぼかしも優美ですね。
冨嶽三十六景の三役③『山下白雨』
三役の残り1図は『山下白雨』と呼ばれる浮世絵で、夏晴れの富士山頂と積乱雲、山麓に降るにわか雨に雷を表現した作品です。『凱風快晴』が「赤富士」と呼ばれるのに対し、こちらは山麓が黒々としているので「黒富士」と呼ばれています。右下の雷も荒々しいですね。
『凱風快晴』と『山下白雨』は構図がほぼ同じ。穏やかでおおらかな『凱風快晴』に比べ、『山下白雨』は頂上は晴れ、雨と、静と動の異なる気象を一枚に巧みに描いています。
海外でも認められた北斎の冨嶽三十六景
葛飾北斎の浮世絵は現在も世界中で愛されています。江戸時代末期、浮世絵は陶器の輸出の際の梱包材として活用されて海外に流失したことはよく知られていますが、その鮮やかな色彩に西洋人は魅了されました。
浮世絵が本格的に知られるようになったのは、慶応3年(1867年)のパリ万博だったといわれていますが、日本は初めて参加したのですが、万博を機に日本の美術工芸品が一大ブームを巻き起こしました。「ジャポニスム」と呼ばれるブームは西洋の芸術家たちにも大きな影響を与えており、例えば『神奈川沖浪裏』こと「グレートウェーブ」はクロード・ドビュッシーの名曲「海」に影響を与えたと言われています。「海」の初版の楽譜の表紙は『神奈川沖浪裏』の波の模写でした。
また、フランスの画家・版画家であるアンリ・リヴィエールは『冨嶽三十六景』をモチーフに『エッフェル塔三十六景』という版画シリーズを製作しています。このほかフィンセント・ファン・ゴッホやエドゥアール・マネ、エミール・ガレなども北斎の影響を大きく受け、作品に反映させました。
北斎の影響力は海外でも評価されており、1998年に米国『ライフ』誌が企画した「この1000年の間に偉大な業績をあげた世界の人物100人」に、北斎は日本人で唯一選ばれました。ちなみにレオナルド・ダ・ヴィンチやパブロ・ピカソ等も選ばれています。
国内外から愛され続ける葛飾北斎と『冨嶽三十六景』。2024年は北斎が亡くなってから175年経ちますが、今も世界中で展覧会が開催され、さまざまなアーティストが北斎の浮世絵をモチーフにした作品を作り続けています。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。