シーボルト事件地図の持ち出しが原因で国に強制送還

シーボルト事件

シーボルト事件

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事件簿
事件名
シーボルト事件(1828年)
場所
長崎県

江戸時代に活躍した医師で博物学者としても有名なシーボルト。日本に西洋医学を広めたことで知られていますが、文政11年(1828年)に国禁の「日本の地図の海外持ち出し」を企てたことが発覚し、翌年に国外追放処分を受けました。関係者約50名が処罰されることにもつながった、いわゆる「シーボルト事件」ですが、なぜ起こってしまったのでしょうか?今回は謎に包まれた事件について、分かりやすく解説します。

シーボルト事件の主人公・シーボルトとは

江戸時代後期にオランダ商館付医師として来日したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(シーボルト)。長崎で私塾「鳴滝塾」を開き、日本人に西洋の医学を伝授したことで知られていますが、そもそも彼はオランダ人ではなく、ドイツ中南部の宗教都市・ヴュルツブルクの出身です。

シーボルトは寛政8年(1796年)に貴族階級の医師の家系に生まれ、ヴュルツブルク大学医学部で医学や動物学・植物学・民族学などを学びました。このときからシーボルトは東洋への興味を抱くようになったと言われています。卒業後に町医者をしていたときもありますが、1822年には「オランダ領東インド陸軍一等外科医少佐」に就任。1823年に来日し、長崎の出島にあるオランダ商館付の医師として働くようになりました。

シーボルトは単なる医者ではなく「外科医少佐」。このためオランダからは日本を調べるようにとの密命を受けていたという説があります。いわゆるスパイです。

シーボルトとオランダの関係は?

シーボルト来日前後のオランダといえば、1814年9月から翌1815年6月にかけて行われたウィーン会議(※日本は文化11年~12年)で「ネーデルラント連合王国」として再独立が認められ、新たな体制で動き出したところでした。ウィーン会議はナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序回復のため、ヨーロッパ諸国が参加して開催された会議です。実はオランダはナポレオン戦争の結果、オランダ領東インド(現インドネシア)とともにフランスに併合されており、オランダという国はしばらくは長崎の出島にしかありませんでした。

何とか独立を果たしたオランダですが、まずは財政の立て直しが急務でした。このためアジアの貿易の見直しを考え、鎖国中で他のヨーロッパ諸国と貿易をしていない日本に目を付けました。日本に西洋医学の知識や技術を提供しつつ、対貿易国としての日本を研究しようと考えたのです。

一方、シーボルトはオランダからバタヴィア(ジャカルタ)に渡り、そこで軍医を務めるとともに東インド自然科学調査官を兼任。滞在中にオランダ領東インド総督に「日本を研究したい」と希望します。こうしてオランダ側の思惑とシーボルトの希望が一致し、シーボルトは日本に向かいます。そして文政6年(1823年)8月に日本に到着し、長崎の出島にあるオランダ商館付きの医師に就任したのです。

実は入国の際、シーボルトのオランダ語は不自然ななまりがあったことから日本人から怪しまれました。しかし、シーボルトは「自分はオランダの山地出身(=山オランダ人)だからなまっている」とごまかして難を逃れました。オランダは海抜0m以下の低地が多くを占めており、山はほぼないのですが、当時の日本人はオランダに詳しくなかったのでうまくごまかせたのです。

日本で活躍するシーボルト

シーボルトは商館付き医師として商館員の健康管理に取り組みますが、やがてすぐれた医師として有名になり、時の長崎奉行・高橋重賢にその名を知られるようになりました。重賢は日本人の医師などがシーボルトに師事するため出島に入ることを許可。シーボルトが出島の外で一般人を診察し、薬草を採取できるようにもしました。

このためシーボルトは多くの日本人に西洋医学を伝えるようになります。シーボルトが伝えた西洋医学は、天然痘の予防ワクチン、ベラドンナを使った白内障の手術など。当時の日本人にとっては驚きの連続だったことでしょう。

ただし、シーボルトはただ西洋医学の知識を伝授していたわけではありません。日本の研究が目的だったシーボルトは、弟子たちから日本の植物をはじめ、日本の情報を入手していました。来日から3か月あまりで『日本博物誌』を記し、出島に薬草園を作って研究に励んでいます。ちなみに文政8年(1825年)には出島に正式に植物園の開業が許され、シーボルト事件で日本を去るまで1400種以上の植物を栽培しています。

文政7年(1824年)には長崎奉行に出島外での教育が認められ、長崎郊外に鳴滝塾(長崎県長崎市鳴滝)を開設。ここには日本各地から多くの医者や学者が集いました。代表としては一番弟子で蘭学者の高野長英、後に江戸幕府奥医師まで上り詰めた蘭方医の伊東玄朴、日本初の理学博士・伊藤圭介、シーボルトの娘で日本初の女医(産科医)でもある楠本イネを養育したことで知られる二宮敬作などです。

シーボルト事件①きっかけとなった江戸参府

シーボルト事件のきっかけとなったのが、文政9年(1826年)の江戸訪問でした。シーボルトはオランダ商館長(カピタン)の江戸参府の一行に同行することになったのです。これは商館長が日蘭貿易のお礼をするために江戸を訪れ将軍に謁見するもので、当時は4年に1回行われていました。普段外国人は長崎から出られないので、江戸参府は日本を見て回る絶好の機会でした。

江戸参府は通常90日前後でしたが、シーボルトは日本を調査する目的があったため長期滞在をはたらきかけ、その結果、162回目となる文政9年の江戸参府は2月15日から7月7日まで、なんと歴代最長の143日間かかっています。

旅程は長崎から佐賀、福岡、下関まで陸路で移動し、船に乗って兵庫に上陸。大坂、京都を経て東海道経由で江戸に到着する、というもの。この期間、シーボルトは博物学の研究に没頭しており、自分の駕籠を「宙に浮かんだ研究室」と名付けるほどでした。また、一行には地層学者のビュルガーが書記として、川原慶賀が画家として同行。弟子で医師の高良斎も加わり、シーボルトの研究を助けました。

シーボルトは旅の途中に植物や民具、工芸品や書画など幅広いジャンルのものを採取・収集したほか、緯度や経度、標高高度などの測定を行い、植物・地理・天文などさまざまな分野で日本を調査しました。下関では関門海峡を測量したと手記に記されています。また、道中では多くの日本人に西洋医学の知識を提供しました。

シーボルト事件②江戸でご禁制の日本地図を入手

江戸では将軍徳川家斉に謁見し、医者や学者と交流します。この際、蝦夷地(北海道)探検家の最上徳内からは蝦夷の海と樺太島の略図を秘密裏に渡されて、その後交流を続けていくことになります。また、天文方の高橋景保、蝦夷地や北蝦夷地(樺太・サハリン)を踏査した近藤重蔵や間宮林蔵とも交流しました。

この江戸滞在の際、シーボルトは高橋景保とある取引をおこないます。それが、シーボルトが持つロシア海軍提督で探検家のクルーゼンシュテルンによる『世界周航記』や、オランダ領インドの新しい地図などの文献・地図類と日本の地図を交換することです。当時日本地図を海外に持ち出すことは固く禁じられていましたが、景保は『世界周航記』で樺太の不明点が明確化し、オランダ領インドの地図の入手は国益につながると考えて交換を決意します。

また、高橋景保は日本地図をオランダ本国またはバタヴィアで銅板地図印刷することを計画しており、シーボルトに印刷発注のために地図を見せた、という説を唱える研究者もいます。こちらはオランダ商館長の日記が元になっています。

5月15日、高橋景保は禁制品の日本地図をシーボルトに渡します。シーボルトの手記には「グロビウス(高橋景保のこと)が来て私に日本の美しい地図をみせ」とあります。この時手渡された日本地図が、伊能忠敬による『大日本沿海興地全図』(縮図)と樺太の地図の模写です。このほか、景保はシーボルトの求めに応じ、間宮林蔵の著書なども貸出しています。

こうして江戸での滞在を経て長崎に帰ったシーボルトでしたが、江戸参与で得た収蔵品は莫大な量になりました。こうした収蔵品は秋に長崎から船便でオランダに送られました。

シーボルト事件③帰国直前に事件が発生

文政10年(1827年)シーボルトは来日後に結婚した日本人の妻・楠本滝との間に娘・楠本イネをもうけます。幸せいっぱいのシーボルト夫妻でしたが、9月にオランダ領東インド政庁がシーボルトをバタヴィアに戻すことを決定。シーボルトは文政11年(1828年)にバタヴィアに戻ることになりました。その直前にシーボルトがご禁制の日本地図を海外に持ち出そうとしていることが発覚します。

実はこのことが発覚した理由は諸説あります。これまでの通説では、文政11年9月に発生した大嵐により、オランダに向かって先発した船が難破したことがきっかけで地図の持ち出しがばれたというもの。船から流れ出た積荷の一部が日本の浜に流れ着き、そのなかに幕府禁制の日本地図があったというわけです。幕府はシーボルトに地図返却を要請したもののシーボルトはそれを拒否したため、幕府は出国停止処分とし、最終的にシーボルトは日本から追放されることになったのです。

ところが近年ではこの通説を否定する新説が注目されています。当時の出島オランダ商館長・メイランの日記によれば、座礁した当時、船に積まれていたのは重し(バラスト)としていた積みこまれていた銅約30トンだけで、荷物は積みこまれていなかったというのです。

新説では、間宮林蔵がシーボルトから届いた小包を幕府に密告したのが事件の始まりとされています。探検家のイメージが強い間宮林蔵ですが、実は幕府の御庭番、つまり隠密でした。

事件のきっかけは、シーボルトが高橋景保に対し、景保あての書簡と林蔵宛の書簡・贈り物を送ったこと。シーボルトの書簡の控えによれば、林蔵の持つ蝦夷地の標本目当てに景保に林蔵へのとりなしを願っての行為でした。景保は素直に林蔵に転送したのですが、林蔵は外国人との私的な物品のやり取りは国禁に触れるのでは、と考え幕府の上役に報告。しかし、景保はシーボルトとの関係を幕府に報告しなかったため、2人の密接な関係を不審に思った幕府が調査を開始しました。

景保邸の家宅捜索の結果、クルーゼンステルンの『世界周航記』4冊や銅版和蘭地図が押収されます。さらに景保は逮捕され、シーボルトとの地図の受け渡しが発覚します。

このため幕府は長崎奉行所に命じてシーボルトを尋問するとともに家宅捜索を実施。地図も発見されました。しかし、シーボルトはあくまでも自分の目的は学術調査であるとし、地図の返還を拒否。これに対し幕府はシーボルトに対するスパイ容疑を解かず、地図を没収し、国外追放かつ再渡航禁止を命じました。実はシーボルトは3年後に再来日する予定でしたがそれもかなわなくなり、妻と息子を置いてオランダに戻らなければならなくなったのです。

一方、逮捕された景保は伝馬町牢屋敷に投獄されて文政12年(1829年)3月に獄死しました。なお、死体は塩漬けにされたのちに斬首されています。このほか、幕府は二宮敬作、高良斎ら鳴滝塾の関係者に川原慶賀、さらに通詞たちまで、シーボルトに関係する日本人約50名を逮捕し、処罰しています。シーボルトは彼らの責任を否定し、日本人として帰化して日本に一生とどまってもいいとまで言ってとりなしましたが、幕府は受け入れませんでした。文政12年12月30日、妻と娘を置いて日本を去るのでした。

シーボルト事件のその後:日本地図の出版とシーボルトの再来日

幕府に没収された日本地図ですが、実はシーボルトはこっそり模写を作成していました。天保11年(1840年)にはオランダのライデンで日本地図を発行しており、その写しは近年シーボルトの子孫のもとで発見され話題になりました。

また、日本での滞在やオランダに送った標本をはじめとしたコレクションをもとに天保3年(1832年)から大著『NIPPON』を20年・13冊にわたって分冊配本しています。この『NIPPON』はなんとあのペリー提督も来日の際参考にしたそうです。

オランダに帰ったのちも、シーボルトは妻と手紙のやり取りをしています。さらに、約30年後の安政6年(1859年)8月14日、シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たします。これは前年に結ばれた日蘭修好通商条約で処分が免責されたため。シーボルトは幕府の外交顧問を務めるようになりますが、諸外国に日本の情報を積極的に提供した結果、解任。失意のうちに日本を去りますが、生涯日本への関心は高いままでした。

栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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