異国船打払令「鎖国」維持に向けた幕末の対外政策
異国船打払令
江戸時代の後期になり外国船の来航が増えるなか、幕府が文政8年(1825年)に発布したのが「異国船打払令」です。日本沿岸に近づく異国船をすべて打ち払うようにと命じたものですが、これによりさまざまな事件が発生しました。今回はそんな異国船打払令について、発布されるまでの経緯や内容などを分かりやすく解説していきます。
江戸幕府による「鎖国」
異国船打払令が出された当時、江戸幕府は海外との外交や交易を制限する「鎖国」をおこなっていました。江戸幕府が開かれた当初は中国(明)や朝鮮、東南アジアやヨーロッパなどとの諸外国と貿易をしており、徳川家康もキリスト教は黙認していました。スペインやポルトガルといったカトリック教国は貿易とキリスト教の布教をセットにしており、こうした国々との貿易を重視していたからです。
一方で徳川家康はキリスト教の布教を伴わないオランダなどのプロテスタント国との貿易を実施し関係を深めていきました。そして慶長14年(1609年)、キリシタンの岡本大八がキリシタン大名の有馬晴信から金世をだまし取った詐欺事件「岡本大八事件」が起こります。これを受けた幕府は慶長17年(1612年)3月21日、キリスト教禁止令を発布。以降、歴代将軍はキリスト教を禁じるお触れを出し、キリスト教は弾圧されていきます。
加えて寛永14年(1637年)10月から翌寛永15年(1638年)2月まで起こった「島原の乱」が発生。キリスト教徒たちの反乱にさらなる危機感を抱いた幕府は寛永16年(1639年)、ポルトガル船の来航を禁じ、キリスト教徒への罰則を明記した「第五次鎖国令」を出し、「鎖国」体制を完成させました。
ただし、幕府は実際には国を完全に閉ざしたわけではありません。海外との窓口として「四つの口」と呼ばれる長崎口・対馬口・薩摩口・松前口(蝦夷口)を例外的に開き続け、オランダ・中国、朝鮮、琉球王国、蝦夷(北海道全島、樺太島、千島列島など)のアイヌやアイヌ経由でのロシア・アムール川下流域の住民たちとの交易がそれぞれ実施されていました。
外国船の来航と「異国船取扱令」
長らく「鎖国」状態だった日本ですが、18世紀後半になると、ロシアやフランス、英国、アメリカなどの各国の船が日本を訪れ、外交や通商を求めるようになります。なかでもロシアからは元文4年(1739年)、ベーリングの第2次探検隊の分隊の船が仙台湾や房総半島にたどりついたほか、安永7年(1778年)に商人のオチエレデンが根室市のノツカマップに上陸し、食糧不足から日本との交易を求めるなど、さまざまな船が来航しています。
外国船の漂流などが増えていることを踏まえ、幕府は寛政3年(1791年)9月、「異国船取扱令」を出しました。異国船取扱令では異国船が見つかり次第筆談役や見分の者を派遣して臨検するとともに、保護して長崎に送るか幕府に伺いを立てるようにとしています。
そして臨検を拒否するなど指示に従わない異国船については「船をも人をも打ち砕き」、船員を切り捨てても召し捕らえてもやむを得ない。さらにその場合は大筒(大砲)や火矢を使うことも「勝手次第」としています。
外国船とのトラブル①ラクスマンの来訪
異国船取扱令の翌年・寛政4年(1792年)、ロシア帝国エカチェリーナ2世の使者として、軍人のアダム・ラクスマンが来日します。ラクスマンは伊勢国(三重県)出身の船頭・大黒屋光太夫達を日本に送り届けつつ、幕府に通商を求めました。
しかし、幕府は鎖国中のためいずれも申し出を拒否。ただし、ラクスマンには幕府は長崎への信牌(入港許可証)を与えており、長崎での通商交渉を許可しています。このときの老中は松平定信。ロシアについては「開国やむなし」と考えていたようですが、ラクスマンは長崎によらずロシアに戻りました。
外国船とのトラブル②ニコライ・レザノフと「文化露寇」
対ロシアについては文化元年(1804年)9月、ロシア帝国の外交使節としてニコライ・レザノフが長崎を訪問し、アレクサンドル1世からの親書を手渡すとともにロシアと日本の通商を要求します。ラクスマンの後を引き継ぐ形で外交使節がやってきたというわけですが、幕府側はこの要求を拒否します。
ラクスマンの来日からおよそ10年、松平定信は失脚し、幕府は老中・水野忠邦の時代。交渉相手は土井利厚に交代しており、日本の軍事力を過信する利厚はレザノフを待たせ続け、要求を拒絶し、信牌まで取り返す始末。結局レザノフは文化2年(1805年)にカムチャッカに戻りますが、この日本側の心無い対応にかなり腹を立てていたようです。
その後、レザノフは部下のフヴォストフに樺太をはじめとした日本の北方拠点の襲撃を命じます。こうして文化3年〜4年(1806年〜1807年)、樺太や千島列島で日本とロシアが戦う、いわゆる「文化露寇」が起こりました。
文化露寇で幕府はロシアにボロ負けしてしまいます。特に択捉島の中心地のシャナではロシア軍と日本軍が激突したものの、ロシア側からの銃撃や艦砲攻撃に撃ち負け、総崩れになりました。日本軍はシャナを捨てざるを得ず、幕府の会所はロシア兵による略奪を受けて焼失しました。責任者だった箱館奉行支配調役下役の戸田又太夫は途中で自殺してしまいます。この敗退により幕府は内外から大きく非難されることになりました。
ロシア船打払令を発布
文化露寇を経て、幕府は文化4年(1807年)末に「ロシア船打払令」を発布します。実は幕府は文化3年(1806年)に外国船の増加に伴い「文化の薪水給与令」を出し、日本へ来航した外国船に対し、燃料や水、食糧の補給を認めていました。航海に必要な物資に限定して販売を許可していたのです。ところが文化露寇の影響で1年余りで文化の薪水給与令は撤廃され、代わってロシア船を打ち払い、近づいた場合は「召捕又は打捨」するようにと法令を出しました。
実は文化露寇の後、幕府内外からは開国すべきという声が上がっていました。蘭学者の大槻玄沢や杉田玄白に加え、一線を引いていた松平定信もこのとき意見を求められ、4通の意見書を提出。日本の武威を示したうえでロシア側が謝罪すればこちらの慈悲・寛大な措置として通商を許可するように、と提言しています。ただし、通商を認めないと大規模な攻撃を行うというロシアの脅しがあったことについては「通商許可は難しいのでは」との見方も示しています。
こうした意見はありましたが、幕府は「鎖国」を維持するためロシア船打払令の発布を決定しました。
外国船とのトラブル③今度は英国!フェートン号事件
鎖国への姿勢を強くした幕府に対し、文化5年(1808年)8月には英国のフェートン号がオランダ国籍と偽って長崎港に不法侵入した「フェートン号事件」が起こります。当時、英国はフランス革命戦争から続くナポレオン戦争でフランスと敵対中。オランダはフランス・ナポレオンの支配下にありました。このため英国は東アジアにおけるオランダの商圏を奪おうと、オランダ船を次々と拿捕していたのです。
フェートン号はオランダ国旗を掲げて入港したため、オランダ商館員はオランダ船だと思い出迎えのために船に乗り込もうとしました。ところがフェートン号は英国船。商館員は捕らえられて人質になってしまいます。さらにフェートン号は水や食料、薪などを幕府に要求しました。
長崎奉行の松平康英は人質を取り戻そうとするものの失敗。湾内警備を担当していた佐賀藩や福岡藩にフェートン号を抑留、又は焼き討ちするよう命じたものの人手不足で果たせませんでした。結局人質は助かったもののフェートン号は無傷で去り、松平康英は責任を感じて自刃しました。その後、長崎の警備体制は見直され、郊外に台場(砲台)を増築し、有事の際の体制を整えるなど海防強化に努めていくことになります。
異国船打払令①きっかけとなった大津浜事件と宝島事件
外国船の来航はさらに続きます。文政元年(1818年)には英国船のブラザーズ号、文政5年(1822年)には同じく英国の捕鯨船・サラセン号がそれぞれ浦賀に来航します。文政7年(1824年)には常陸大津浜(茨城県北茨城市大津町)にイギリス人12人が上陸。物資を求めての行動だったようで、幕府は12人を捕縛したものの、のちに物資を与えて解放しました。江戸城近くに外国人が上陸したことで、幕府には衝撃が走ります。また、この時の幕府の対応が弱腰として非難されることになりました。
同年8月8日には、薩摩宝島(鹿児島県鹿児島市泉町)に英国の捕鯨船が来航。船員が牛を奪おうとするなどの被害が発生し、島に派遣されていた役人が銃撃戦の結果英国人1人を射殺し、英国船を追い払うという事件が発生しました(宝島事件)。異国船による人的被害が起こったのです。
この二つの事件は幕府に大きな衝撃を与え、幕府内では何度も異国船対策が話し合われました。このとき儒学者で大学頭の林述斎、大目付の石谷清豊、目付の羽太正養、勘定奉行の遠山景晋、勧請吟味役の館野勝詮、江戸町奉行筒井政憲などが意見を求められています。このうち遠山景晋と筒井政憲は長崎奉行経験者で、外交経験が豊富でした。
異国船打払令②強行的な「打払」
議論の結果、文政8年(1825年)2月、幕府は「異国船打払令」を発布します。その内容は、日本沿海に近づく異国船に対し、一切無差別に砲撃等を加えてことごとく打ち払え、というかなり強腰のもの。異国船打払令は別名「無二念打払令」とも呼ばれますが、これは本文中に「二念無く(あれこれ考えずに)打払いを心掛け図(=機会)を失わざるよう取り計らい」とあることから。漂流船でも漂流民の送還を目的にした船でも、躊躇なく打ち払え、というわけです。
さらにいきりす(=英国)に限らず南蛮や西洋は全てご禁制のキリスト教国であるから、今後はどこの海辺の村においても外国船が乗り寄せるのを発見した場合、その場に居合わせた人々で有無に及ばずすぐに打ち払うように、としています。逃げた場合は追わなくていいが、もし上陸してきたら捕縛し打ち殺しても問題ない、としています。
この異国船打払令はもちろん貿易国は対象外。中国や朝鮮、琉球王国については「見分けがつく」ことから問題ないとしていますが、オランダ船については万が一間違えても「咎めはない」としています。
異国船打払令③モリソン号事件で幕府の脆弱さが露呈
この異国船打払令の被害にあったのが米国船の「モリソン号」です。モリソン号は非武装の商船で、日本人の漂流民7名を助け、彼らを届ける代わりに通商を開こうと浦賀沖に来航しました。これを幕府の砲台が英国船と誤認して砲撃してしまいます。あきらめたモリソン号は今度は薩摩国(鹿児島県)の鹿児島湾を訪問しましたが、物資は受けとれたもののここでも砲撃を受けて撤退しています。
民間の商船を砲撃したことで幕府は非難の対象になります。さらに、今回のモリソン号への砲撃は、砲弾がなんと全く届かず、江戸幕府の軍事力の弱さが露呈してしまったのです。
これを知った高野長英や渡辺崋山といった蘭学者たちは幕府を非難。これに対し、幕府は天保10年(1839年)の「蛮社の獄」で蘭学者を弾圧しています。
アヘン戦争で異国船打払令を廃止、天保の薪水給与令へ
そうこうしているうちに天保11年(1840年)にアヘン戦争が起こり、中国(清)が英国にボロ負けします。このため幕府は危機感を募らせるとともに国防策を強化します。
また、天保13年(1842年)6月、幕府に「英国が日本に通商を求めるようだが、日本側が不当な態度で要求を拒んだ場合は戦争を仕掛ける」という情報が入ります。
こうした情報に基づき、江戸幕府は異国船打払令を廃止。同年7月には遭難した外国船を対象に、燃料や水、食料などを与えて退去させる「天保の薪水給与令」を発布しました。
本文では発布の理由を「仁政を施行しようとする考え」だとしていますが、幕府が諸外国との武力差を実感し、戦争を避けるために発布したものだったことは言うまでもありません。ただし、外国船側が戦いを仕掛けたり反論してきたりする場合はすみやかに打ち払い、臨機応変に対処するようにと命じています。さらに幕府は西洋式砲術など西洋の技術を取り入れつつ、全国的な海防を強化。異国船に備えました。
なお、異国船打払令は嘉永6年(1853年)にペリーが来航するまで、数回復活が検討されましたが、いずれも実現せずに終わり、幕府は開国へと舵を切るのでした。
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。