東海道中膝栗毛江戸時代の大ベストセラー

東海道中膝栗毛

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東海道中膝栗毛(年)
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江戸時代後期は伊勢神宮を参拝する「お伊勢参り」が盛んになり、庶民の間で旅行が一般化しました。さまざまな旅行の指南書や旅行記が出版されましたが、旅行ブームの火付け役となった有名な一冊が十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』です。今回は現代のガイドブックの原点とも言われる『東海道中膝栗毛』について、内容や描かれた背景などを詳しく解説します。

『東海道中膝栗毛』とは?

『東海道中膝栗毛』は戯作者で絵師の十返舎一九による滑稽本です。弥次郎兵衛と喜多八、通称弥次さんと喜多さんの主人公2名が江戸を出発し、東海道を通って伊勢詣をし、京や大坂まで旅する様子が描かれています。浄瑠璃や歌舞伎、狂言や落語、川柳などのネタを交えながらの珍道中は当時の人たちに大ヒットしました。単なる旅行記ではなく、旅先での失敗談や庶民の生活の様子などを中心にしたこともヒットの要因だったようです。

全8編・17冊に上るシリーズは享和2年(1802年)から文化11年(1814年)まで刊行されました。さらに文化7年(1810年)から文政5年(1822年)までは全12編・25冊の続編『続膝栗毛』が刊行されています。本編と続編の刊行時期が重なっているのは、本編の番外編的な最後の一冊『東海道中膝栗毛 発端』が『続膝栗毛』1編目の後に出版されているためです。

なお、タイトルの「膝栗毛」は栗毛の馬の代わりに自分の膝を使って歩く、つまり徒歩での旅行を意味します。とはいえ作中では主人公たちが馬や駕籠に乗っていますが…。

「『東海道中膝栗毛』って江戸時代の本でしょ?今も有名なの?」と思われがちですが、現在に至るまで小説や漫画、ゲームに映画や舞台などさまざまな作品のオマージュになっています。例えばゲーム『モンスターストライク(モンスト)』ではモンスター・ブックマンの1体として「東海道中膝栗毛」というキャラクターが設定されています。

『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九とは

『東海道中膝栗毛』の作者は十返舎一九(じっぺんしゃいっく)。もとは駿河国府中(現静岡県静岡市)の下級武士の子で、若いころに江戸に出て小田切土佐守に仕え、天明3年(1783年)に土佐守の異動とともに大坂に赴任しました。のちに浪人し大坂で浄瑠璃作家になります。この時材木商の家に婿入りしましたが離婚。寛政6年(1794年)に江戸に戻り、大手版元の蔦屋重三郎、通称蔦重の居候となり、黄表紙や洒落本などを次々と発表しました。

ところがあまり売れ行きが良くなく、『東海道中膝栗毛』の1作目にあたる『浮世道中膝栗毛』は蔦屋ではなく村田屋治郎兵衛(栄邑堂)が出版しています。さらに挿絵も版下の清書も十返舎一九が担当しました。

ところがこれが大ヒット!8編で終わるはずが続編の『続膝栗毛』シリーズが書かれることになり、十返舎一九はベストセラー作家として活躍したのでした。十返舎一九は膝栗毛シリーズの取材・執筆に加え、同時並行で作品をどんどん執筆しており、生涯に記した冊数は580冊以上。筆一本で生活できていたことから、日本初の職業作家とも言われています。

晩年は飲酒による体調不良で苦労した十返舎一九でしたが、最期までその洒落た作風は変わりませんでした。天保2年(1831年)年8月7日、66歳(満67歳)でこの世を去りましたが、辞世の句は「此世をば どりやおいとまに せん香と ともにつひには(または煙とともに) 灰左様なら」。「おいとまにせん」と「せん香」、線香の「灰」と自分の遺灰、「はい、さようなら」の「はい」をかけた洒落た句です。

十返舎一九の時代は寺子屋が普及し識字率が向上。緊縮・節約重視の寛政の改革(天明7年(1787年)~寛政5年(1793年))が終わった反動で、文化時代・文政時代(1801~1830年)を中心に町人文化の「化政文化」が花開き、文学に絵画、芸能が盛んでした。文学面では滑稽本や黄表紙が流行しており、そうした背景が『東海道中膝栗毛』の大ヒットの一因だったようです。

『東海道中膝栗毛』の主人公・弥次さんと喜多さん

それではいよいよ『東海道中膝栗毛』の内容について触れていきます。主人公は江戸の八丁堀(東京都中央区)に住む弥次郎兵衛と喜多八(北八とも)、通称弥次さんと喜多さんの2名。のちに「弥次喜多」で気軽な漫遊旅行やおどけ者2人を意味するようになるなど、名詞化するほどよく知られるようになりました。

シリーズの最後に書かれた『東海道中膝栗毛 発端』によれば、弥次さんは、作者と同じ駿河国府中出身。商家の生まれでいわゆる金持ちのボンボンで、旅役者の若衆、鼻之助(後の喜多さん)に入れ込んでお金をつぎ込んだ挙句2人で江戸に夜逃げします。

つまり、もともと2人は恋仲だったわけで、『東海道中膝栗毛』がボーイズラブ本、といわれる理由です。なお、江戸時代、男色は普通に扱われており、男性も女性と同様に売春行為をしていました。

その後、鼻之助は元服して喜多八と名を変えて商家に奉公。一方弥次さんはと言えばぐうたら暮らしを続け、所帯を持ったものの結局別れます。同じタイミングで喜多さんも使い込みと女性に言い寄ったことで仕事場を首に。お互いつまらない身の上に嫌気がさし、厄払いにお伊勢参りにいこう、ということで東海道中膝栗毛がスタートするのです。ちなみにこの時点で弥次さんは50歳(満49歳)、喜多さんは30歳(満29歳)です。

『東海道中膝栗毛』の旅のルート①東京・神奈川編

『東海道中膝栗毛』の目的は諸国をめぐって茶飲み話を頭に蓄えること。このため8編にわたってさまざまな場所を歩き、人々と触れ合っています。

メインルートは五街道の一つ・東海道。江戸の日本橋から京の三条大橋まで続いており、宿は53ヶ所。歌川広重の浮世絵で知られる「東海道五十三次」です。また、箱根(神奈川県足柄下郡箱根町)と新居(静岡県湖西市新居町)には関所がありました。

『東海道中膝栗毛』でも弥次さん喜多さんは日本橋からスタート。途中で大名行列と遭遇しつつ、戸塚宿や小田原宿に泊まって箱根を通過します。ここまでが初編です。

小田原宿に泊まった時のエピソードとして有名なのが、五右衛門風呂でやけど事件。五右衛門風呂はかまどの上に鉄の風呂釜をおいて直火で温めたお風呂で、全体が鉄のものと、風呂釜の上に大きな木の水風呂桶を取り付けたものがありますが、『東海道中膝栗毛』では後者です。

お湯に入るときは底が熱いので、浮いている底板を下に沈めてその上に乗って入ります。当時は上方(京都・大坂)で流行っており、江戸暮らしの弥次さんは五右衛門風呂の入り方を知りません。底板をふただと思って外してそのまま片足を突っ込んで大やけど。結局便所のそばにあった下駄をはいて入りました。

続く喜多さんも入り方が分からず、弥次さんに聞いても教えてくれないため途方にくれますが、下駄を発見して下駄ばきのままお湯につかります。ところが下駄で底をがたがた踏み荒らした結果釜の底を踏み抜いてしまい、宿の主人に笑われ修繕代を請求されたのでした…。

『東海道中膝栗毛』の旅のルート②静岡・愛知・三重編

箱根を超えた弥次さん・喜多さんは関所のある新居宿をめざします。箱根宿から新居宿までが二編・三編で、四編目が新居宿から桑名宿(三重県桑名市)までです。桑名宿では名物の焼き蛤を楽しんでいますが、作中にはこのほかにもさまざまな名物料理が登場しており、まるでガイドブックのようです。

旅の七日で泊まった静岡県の日坂宿(静岡県掛川市)では、こんなエピソードが。雨の中旅籠に到着した2人は、そこで出会った老女と娘に母親や女房の霊を口寄せしてもらいました。その夜、娘の巫女に夜這いをしかける2人。

まずは喜多さんが巫女の布団に潜り込んで契りを交わしました。一方の弥次さんは一寝入りした後に巫女のところに向かいます。そして喜多さんを巫女と間違えて唇を嘗め回してあんぐりと嚙みついてしまうのです。

これに喜多さんはびっくり!しかも寝ていた巫女も目を覚まし、「騒がしいから静かにしろ。娘が目を覚ましてしまう!」と叫びました。そう、喜多さんは娘と老女を間違えていたというわけ。喜多さんはこっそり逃げ出します。続いて弥次さんも逃げようとしますが、弥次さんと勘違いした老女につかまってしまいます。

こうした宿や遊郭での女遊びをはじめとした、いわゆる下ネタエピソードですが、実は『東海道中膝栗毛』には結構あり、さまざまな場所で登場します。

また、弥次さん、喜多さんが毎回詠む歌もポイント。今回は「いち子ぞと おもふてしのび 北八に 口をよせたる ことぞくやしき」と詠みましたが、「北八」、つまり喜多さんと来た、口寄せと口づけをかけており、作者の十返舎一九の高い教養がわかります。

『東海道中膝栗毛』の旅のルート③伊勢参宮編

5編は3冊構成で、2人は桑名宿から43番目の宿場町・四日市宿(三重県四日市市)まで移動します。そこからは東海道と伊勢街道の分岐点にあたる追分を経て伊勢街道に入ります。

その後、途中で意気投合した上方者と伊勢神宮に向かうのですが、山田町(三重県伊勢市)で江戸の町内の米屋・太郎兵衛と遭遇します。弥次さんは出立するとき米屋の勘定を払わずに来ているので気まずい思いをするのですが、結局同郷のよしみで盛り上がり、太郎兵衛が参加する太太講(伊勢講)の集団に参加することに。

太太講とは伊勢参宮のための信仰集団で、旅費を積み立ててくじで代表者を選んで交代で参拝していました。太太神楽を奉納することでも知られています。弥次さん・喜多さんたちは太郎兵衛と酒盛りで大盛り上がりするのですが、実は隣に別の講の集団もおり、出発の際にバタバタしたことで駕籠に乗った弥次さんだけ別の講のほうに移動してしまい、盗人呼ばわりされてしまいます。

何とか妙見町の藤屋(三重県伊勢市尾上町)で合流し、そのあと古市の妓楼「千束屋」で女遊びを楽しむのですが、見栄っ張りの弥次さんは汚い褌を隠そうと庭に捨ててしまいます。翌朝ふんどしが発見され、弥次さんのとばれてしまうという、弥次さんにとっては散々な一日でした。

そんな珍道中を繰り広げる一行ですが、さすがに伊勢神宮の内宮・外宮には真面目にまじめに参拝した様子が書かれています。そしてここで『東海道中膝栗毛』はひと段落。作者の十返舎一九は「筆を置く」としていますが、あとがきに版元の栄邑堂が「続編が出ますよ」とすぐさま宣伝…。とはいえもともと京・大坂編は予定されていたようですので、これは販促の一環だったのかもしれませんね。

『東海道中膝栗毛』の旅のルート④京・大坂編

6編から8編までは京・大坂漫遊編です。伊勢参宮を済ませた弥次さん・喜多さんは伊勢から大和路に入り、奈良街道を経て宇治(京都府宇治市)、そして伏見まで移動します。このあたりはルートの説明のみです。

船で大坂に向かう予定だった2人ですが、船を乗り間違えて結局京から見物することに。方広寺の大仏を眺め、三十三間堂や清水寺などの観光地を巡って、五条新地の遊郭で夜を楽しみました(例によって事件を起こしてぐるぐる巻きに縛られました…)。その後、祇園で芝居を見物し、八坂神社や北野天満宮などを巡った後、伏見から大坂に移動します。

大坂では日本橋や天満橋、大阪天満宮や道頓堀などを見学。新町の遊郭で遊び、四天王寺や住吉大社を巡った様子が描かれています。そのあとは木曽路をたどり、草津で遊んだ後に善光寺や妙義山などにお参りして江戸に戻った、と簡単にルートが紹介されています。

そして『続膝栗毛』へ

『東海道中膝栗毛』は8編で終了しましたが、版元としては大ヒット作品の続編がほしいところ。8編目の序文で十返舎一九が「この八編に至つて足を洗ひ、引込思案の筆をおくこと」と宣言すると、次のページの「付言」で版元の村田屋治郎兵衛は「ひき続き木曽路の記行をもとむれども、作者固辞して肯はず、こひねがわくは、諸君子(=読者)の催促をまちて、ものせんと(=執筆しようと)の事なれば…」とコメント。つまり読者に催促させようとしています。

結局十返舎一九は文化7年(1810年)から文政5年(1822年)まで約12年間にわたり、全12編・25冊の続編『続膝栗毛』を書きました。弥次さんと喜多さんは香川県の金刀比羅宮にお参りするこんぴら参りを楽しみ、広島県の宮島・厳島神社を訪れ、木曽街道を通って善光寺を経て草津で一休み。そしてようやく江戸に戻ってくることができたのでした。

栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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