寛政の改革松平定信の苛烈な改革

寛政の改革

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事件簿
事件名
寛政の改革(1787年〜1793年)
場所
東京都
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江戸城

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江戸時代の三大改革のひとつである「寛政の改革」。幕府の財政難を立て直すため、徳川吉宗の孫にあたる松平定信が天明7年(1787年)から寛政5年(1793年)に実施した改革です。定信は質素倹約に取り組み、綱紀粛正をはかることで一次的に改革を成功させますが、あまりの厳しい改革に人々の不満は高まり、最後には失脚してしまいます。今回はそんな寛政の改革についてわかりやすく解説します。

寛政の改革の原因・天明の大飢饉と田沼意次の失脚

寛政の改革が起こった大きな要因は、天明2年(1782年)から天明8年(1788年)の長期にわたって起きた「天明の大飢饉」です。天明の大飢饉の際に政治を主導していたのは、9代将軍・徳川家重と10代将軍・徳川家治に重用されていた田沼意次でした。

意次は年貢依存型の幕府を改革しようと、商業を重視する重商主義的な政策を次々と打ち出します。商工業者達などの同業者組合である「株仲間」を積極的に公認して税を納めさせたほか、鉱山の開発や利根川から江戸への水運確保を目的とした印旛沼の開拓、殖産興業に長崎貿易の積極化などに取り組みました。

意次の改革により経済は発展し、都市文化が花開きました。一方で改革のメリットを享受できない農民たちは農業の利益の低さから廃農して都市に流れ込み、都市の経済格差の拡大と治安の悪化を招きました。また、賄賂が横行するなどの弊害も起こっています。

意次の改革が進むなか起こったのが冷害による凶作です。冷害は広がり天明の大飢饉にまで発展。さらに天明3年7月8日(1783年8月5日)には浅間山が大噴火し、火山灰が農作物に被害を与えました。

天明の飢饉は農民一揆や都市部での打ちこわしを招き、田沼意次の責任を追及する声が高まります。さらに天明4年(1784年)には、意次の嫡男で若年寄の田沼意知が江戸城内で新番士の佐野政言により斬られ、深手を負い死亡。江戸っ子たちは「にっくき田沼の息子が死んだ!」と大喜びしました。

天明6年(1786年)8月、10代将軍の徳川家治が死亡したことで田沼意次は失脚します。代わって将軍についた11代将軍の徳川家斉は、老中首座に松平定信を起用しました。

寛政の改革を主導した松平定信とは

老中についた松平定信は白河藩の藩主で、8代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物です。実は11代将軍の徳川家斉とは将軍位を争った仲。定信はもともと御三卿の田安徳川家の生まれで、将軍の跡継ぎ候補とされていました。ところが「息子の家斉を将軍にしたい」という一橋治済が田沼意次と共謀し、定信を白河城主・松平定邦の養子に出したのです。

天明3年(1783年)に白河藩主を継いだ定信でしたが、すぐに天明の大飢饉が襲いかかります。しかし、定信は質素倹約に努めるとともに、白河藩の分領でまだ米に余裕があった越後国から米を輸送したほか、余裕のある藩から米を買い上げるなどして飢饉対策を実施。対策は成功し、飢饉による餓死者はなんと0だったといわれています。その手腕は幕府に大いに評価されました。

そんな定信を特に将軍に推したのが、以前将軍位争いの際に対立した一橋治済でした。治済は定信の手腕を評価し、御三家に働きかけて定信を老中につけたのです。定信は治済や御三家の後ろ盾のもと、天明8年(1788年)に将軍補佐役に就任しました。

松平定信は筆頭老中に就任して以降、田沼意次の派閥の人々を罷免し、不正役人たちを罷免し、能吏を登用して改革を進めていきます。例えば年貢の取り立てをはじめとした地方行政を担う代官職については、天明7年(1787年)から寛政6年(1794年)までに、全体のおよそ3/4にあたる44人を新たに任命しています。なかには「名代官」となり後に神として祀られた人物もおり、定信の名差配ぶりがうかがえます。

寛政の改革①倹約令

寛政の改革といえば質素倹約というイメージが強いですが、松平定信は白川藩主時代から倹約に努めており、倹約はお手の物でした。定信の祖父・徳川吉宗による享保の改革の際も出されましたが、定信も倹約令や奢侈禁止令を出しています。

法令は人々の服装の規制、華美な櫛やたばこなどのぜいたく品の禁止、湯屋の混浴禁止などを命じており、人々の生活を締め付けるものでした。このため庶民を中心に不満が徐々に高まります。

定信は幕府についても人員整理や諸経費の削減に取り組み、厳しい緊縮モードを続けました。さらに定信は大奥にもメスを入れます。享保の改革では吉宗が多くの美しい女性約50人をリストラしたことで知られていますが、定信も莫大な経費が必要な大奥の引き締めを行い、人員削減に務めるとともに財政を1/3にまで削減しました。こうした緊縮政策の結果、寛政の改革終了時点で幕府の財政は赤字から黒字に転じており、備蓄金は約20万両貯めることができたそうです。

寛政の改革②棄捐令

寛政の改革の当時、武士たちは札差からの借金に苦しんでいました。札差というのは、旗本や御家人に給料として現物支給される米を手数料を取って買い上げる商人たちで、高利貸しもしていました。

この札差からの借金対策として定信が寛政元年(1789年)に発令したのが「棄捐令」です。棄捐令では6年以上前の借金は棒引き、つまり債権放棄を、それ以降の借金は利子を引き下げるよう命じました。棄捐令により放棄された札差の債権は約118万両にも及んだそうです。

一方的な札差への負担は札差からの怒りを招き、武士への貸し渋りにつながりかねませんが、定信は札差の救済策をきちんと設けていました。それが浅草猿屋町(現東京都台東区浅草橋3丁目)に設置した「猿屋町御貸付金会所」で、札差に年利1割という低利で貸し付けるもの。江戸の主要な豪商10名が勘定所御用達として出資者となり、さらに運営も勘定所御用達が担当していました。このため棄捐令発布当初は武士への貸し渋りが起こっていますが、年内には落ち着いています。

この勘定所御用達たちは米価の調整役も担っており、たとえば米価が高騰すると莫大な資金を活用して米を購入するなど市場に介入しています。寛政の改革の特徴の一つに、こうした豪商たちのかかわりがあげられるのです。

寛政の改革③飢饉対策の囲米制度

松平定信は飢饉対策として米を備蓄する「囲米」制度を実施しました。諸大名に対し、各地に社倉・義倉を設けるとともに領地1万石ごとに50石を毎年備蓄するよう命じています。

また、江戸では「七分積金」を実施。これは各町の運営・維持に必要な経費「町入用」の節約と関係しています。定信は町入用を節減し、減額できた70%分を天災や飢饉などに利用できる資金として町会所に積み立てるよう命令。余ったものは町会所用の米の資金や困窮した地主向けの低利融資などを活用するよう呼びかけました。この七分積金についても勘定所御用達が運用を担当しています。

ちなみに七分賃金は明治維新後まで続いており、後に明治政府が政府の財源にしようともくろみます。しかし、東京府知事・大久保一翁の反対により東京府民のために使われることになり、渋沢栄一がその活用を任されています。

寛政の改革④農村再生のために農民を保護

寛政の改革の時代は天明の大飢饉による農民たちの一揆や打ちこわし、田沼意次時代の負の遺産である廃農の増加・農村の縮小による年貢の減少が起こり、幕府の財政は赤字でした。このため定信は財政再建のため、農業を重視する重農主義的な改革に乗り出します。

まずは農村人口を回復するため、廃農して江戸に移動したものの、仕事や家がなく困窮していた元百姓の帰農・帰村を奨励するため、「旧里帰農令」を発令。幕府から旅費や補助金などを出して帰農を推奨しました。これは農村人口の回復に加え、困窮した元百姓たちを減らして江戸の人口増加をおさえる目的もありました。とはいえあまり効果はなかったようです。

元百姓たちは勘当された町人や軽犯罪者たちとともに「無宿」と呼ばれていました。こうした無宿たちへの支援と江戸の治安維持を目的にしたのが、石川島(現東京都佃2丁目)に設置した職業訓練場所「人足寄場」です。これは火付盗賊改の長谷川平蔵の提案で作られました。

加えて、減税制度として宿場周辺の村などに課していた「助郷」と呼ばれる人馬徴発の負担を軽減。年貢米を幕府の蔵に納入する作業を代行し、手数料ビジネスを展開していた「納宿」を廃止しています。

また、人口が減った地域の子どもの間引きを禁じ、子どもが多い家庭には養育金を支給する制度も開始。寛政2年(1790年)には2人目の子どもの養育費用として金1両を支給しています。

このほか、松平定信は公金貸付も実施。大名や豪商等に利率1割で貸付し、利息分を人口増のための小児養育金や荒廃した耕地の再開発対策、農業用水の整備などといった農村復興・サポートに利用しました。

寛政の改革⑤朱子学以外を禁止

松平定信は寛政の改革で人々に対しさまざまなサポートを実施しましたが、その一方で思想統制や言論弾圧等をおこなっています。その一つが朱子学以外の学問を禁じる「寛政異学の禁」です。

定信は上下関係や身分の秩序を重んじる朱子学を活用し、学問・思想の統制をおこなうことで幕府に忠実な人材を育成しようと考えました。そして寛政2年(1790年)に朱子学を幕府公認の学問に据えるとともに、5代将軍徳川綱吉ゆかりの聖堂学問所(東京都文京区湯島)では朱子学以外を教えることを禁じたのです。

その後学問所は寛政9年(1797年)に幕府直轄の昌平坂学問所となっています。なお、定信は朱子学以外の学問を禁じたわけではありませんが、学問所の全国への影響は大きく、他の学問は弾圧されていくことになります。

さらに、定信は人材登用に向けて試験制度「学問吟味」を実施。もとは幕臣とその子弟を対象に四書五経をはじめとした朱子学の知識を問うものでしたが、成績優秀者が登用されたことで立身出世の糸口になる重要な試験とみなされるようになりました。

寛政の改革⑥出版統制令

松平定信は思想統制に加え、幕府への批判を禁じるための言論統制も実施します。寛政異学の禁と同じ寛政2年(1790年)、風俗を乱す好色本・洒落本、政治批判や時事風刺を含む黄表紙・滑稽本などの出版物を禁じる「出版統制令」が出されました。この際、新刊本の奥書には、作者と版元の実名を入れるよう求めています。

この出版統制令の被害を受けたのが喜多川歌麿や朋誠堂喜三二、恋川春町、山東京伝といったベストセラー作家・絵師たち。ちなみに出版統制令は浮世絵も対象で、一見対象外なのでは?と思われる歌麿の美人画は「風紀を乱す」とさまざまな規制をかけられることになります。

また、2025年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~』の主人公・蔦屋重三郎も被害にあいました。江戸時代のメディア王として有名な重三郎は版元兼本屋として活動していましたが、黄表紙や洒落本を出版し続けたことで奉行所に捕らえられ、寛政3年(1791年)に多額の罰金刑を受けています。

寛政の改革の終焉

寛政の改革でさまざまな取り組みをした松平定信でしたが、厳しい財政改革と質素倹約のための締め付けは経済の停滞や文化の衰退を招き、庶民だけでなく武士からも批判されるようになっていきます。当時の狂歌に「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という歌がありますが、清廉潔白すぎる改革は人々にとって辛いものでした。

加えて定信と大奥の財政面・政治面での対立の深刻化、改革が進むにつれて独裁化していく定信と御三家や一橋治済との対立などで定信の立場は悪化。朝廷とは、光格天皇が「実父の閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を贈りたい」としたところ、これを拒否した事件(尊号事件)で関係にひびが入りました。実は尊号事件の裏側では、徳川家斉から「実父の一橋治済に大御所にしたい」という要望が出ており、治済のこれ以上の政治介入を防ぐ意味もあり、尊号を拒否したようです。これにより家斉との関係も悪化します。

こうして寛政5年(1793年)7月、定信は老中を解任され、政治的に失脚します。実は定信は在任中に何度も辞任願を出し、そのたびに引き留められています。家斉との関係性の確認の意味もあって出されていたようですが、5回目の今回は受理されました。

その後、定信は白河藩の藩政に専念。一方幕府は徳川家斉が実権を握り、12代将軍に徳川家慶が就任してからも大御所として死ぬまで主導権を握り続けることになるのです。

栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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