天明大噴火(浅間山)(2/2)大飢饉につながった浅間山の大噴火

天明大噴火(浅間山)

天明大噴火(浅間山)

記事カテゴリ
事件簿
事件名
天明大噴火(浅間山)(1783年)
場所
長野県・群馬県

記録によれば軽石については燃えた軽石が降り注いだことによる火事が発生。さらに屋根に積もった灰や石、砂の重みにより70軒が潰れ、65軒が大破しています。碓氷峠から新町(群馬県高崎市)の間には灰がたくさん降り積もった結果、畑の形すら判別できなくなってしまったそうです。

田畑に降り積もった灰は農作物に甚大な被害を与えました。新たに苗を植えようとしても灰をどかさなければ何もできない始末。さらに火山灰が日光を遮ったことで、無事だった農作物も日照不足になりました。

天明3年の夏といえば、天明の大飢饉の真っ只中。異常低温による大冷夏によりただでさえ大凶作が発生して食糧不足だったなかでの浅間山の大噴火は、天明の大飢饉をさらに長引かせる一因となったのです。

天明大噴火の被害③天明6年の洪水

さらに、浅間山の噴火は思わぬ被害を巻き起こします。それが天明6年(1786年)に利根川水系で発生した「天明の洪水」です。天明大噴火で流れ出た泥流は利根川に入り込んだのは前述のとおりですが、泥流による石や土は利根川の水底に降り積もりました。このため川底があがり、川が氾濫しやすくなってしまったのです。

天明6年は5月ごろから雨がよく降るようになり、7月12日からは大雨が続きました。このため、底が浅くなった利根川流域全体で水量が増え、7月18日の午後に洪水が発生したのです。江戸市中には濁流が流れ込み、千住大橋などの一部の例外を除き、永代橋や新大橋などの橋は次々に破壊されました。

当時の史料によれば水位は1.8mから4.8mで、本所深川など、現在の東京都江東区を中心に大きな被害が出ました。千住は4m近く、浅草付近でも約1.8mまで水位が上がったそうで、番町(東京都千代田区)のような高台でも床上まで浸水しました。

このとき利根川以外でも荒川や多摩川などの河川が氾濫して洪水が発生し、江戸だけでも5000人超の罹災者が出ています。

天明大噴火の与えた影響

天明の大飢饉にも影響を与えた天明大噴火。農作物が壊滅的な被害を受けたことで深刻な食糧難が発生した結果、上野国や信濃国(長野県)では中山道の馬子や人夫、駕籠かきたちが中心となった打ちこわし一揆が発生しました。米屋は百姓たちにより襲撃され、質屋や酒屋も被害にあっています。

また、天明大噴火は当時の政権にも大きな影響を与えました。当時の政権を担っていたのは老中・田沼意次ですが、天明大噴火が一因となった飢饉の結果、幕府に対する不満が高まります。しかも天明の大洪水により、意次が進めていた新田開発が頓挫してしまいます。

田沼意次は飢饉対策の一つとして、印旛沼(千葉県北西部)の新田開発と治水に取り組んでいました。利根川とつながっている印旛沼はたびたび氾濫しており、治水工事が必要でした。意次は下総国平戸村(千葉県八千代市平戸)から検見川村(千葉市花見川区検見川)の海岸までを結ぶ放水路を作り、印旛沼の水を江戸湾に流そうと考えたのです。

天明2年(1782年)から調査が始まった事業は天明大噴火による被害で一時中断したものの、天明4年(1784年)から再開し、作業の2/3までは無事に終了。ところが天明6年(1786年)の天明の洪水で水路が破壊され、工事は失敗してしまいました。

追い打ちをかけるかのように、意次の後ろ盾だった第10代将軍の徳川家治が天明6年(1786年)8月に死亡。意次は老中を解任されてしまいました。代わって老中首座に就任したのが、白河藩主・松平定信です。定信の治めていた白河藩は天明の大飢饉対策が成功し、餓死者0だったといわれています。その手腕が評価されて政権運営を担うことになった定信は、老中として「寛政の改革」を進めていくことになります。

天明大噴火(浅間山)の記事を読みなおす

栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.04