エレキテル(2/2)平賀源内が静電気発生装置「エレキテル」を復元
エレキテル
模造品はうまく動かなかったようですが、それでも源内は激怒。奉行所に訴状を送って訴えました。この訴えは日本では初めての記録に残る知的財産にかかわる訴訟だといわれています。当時は特許制度などはなかったので、源内はかなり先進的な行動をしていたと言えるでしょう。
なお、弥七は捕らえられたのちに仮牢で死亡。このため訴訟に関する判決は結局出ませんでした。
平賀源内は発明家?西洋画や浄瑠璃も
平賀源内はエレキテル以外にもさまざまな研究をおこない、成果を出しています。たとえば秩父中津川の山中で発見した石綿(アスベスト)をもとに、燃えない布・火浣布を製作。オランダ製のタルモメイトル(寒暖計)の模造に成功したり、日本で初めて量程器(万歩計)を製作したりと、さまざまな分野で活躍しました。
加えて源内は「源内焼」と呼ばれる色鮮やかな陶器を作り、長崎で得た知識をもとに日本で初めて西洋画を描くなど、芸術家としての側面を持っていました。源内は西洋画の技法を小田野直武や秋田藩主の佐竹義敦(曙山)に伝えており、このうち小田野直武は『解体新書』の図版の原画を担当しています。
このほか戯作者、浄瑠璃作家としても活躍しており、戯作としては『根南志具佐』』『風流志道軒伝』など、浄瑠璃としては『神霊矢口渡』等を残しており、神霊矢口渡はのちに歌舞伎にもなりました。
「土用の丑の日」は平賀源内のアイデア!?
有名な通説が、「土用の丑の日」にうなぎを食べるのは平賀源内のアイデアだというもの。もともとうなぎは栄養価の高さから夏に食べられていましたが、夏の土用(立春・立夏・立秋・立冬の直前の約18日間)の丑の日に食べられるようになったのは源内のおかげ、というわけです。ただしこの説を裏付ける文献は見つかっていません。
通説にはいろいろなバージョンがありますが、ざっくりまとめるとうなぎ屋が平賀源内に「夏場はうなぎが売れなくて困る、何とかならないか」と相談したところ、源内は「土用の丑の日はうなぎの日」と店頭に張り紙をして宣伝すれば売れるようになる、と提案。これが大ヒットとなり、他のうなぎ屋も真似をしはじめたことで、現在まで続くブームが訪れたのです。なお、丑の日にした理由としては、当時は丑の日に「う」のつく食べ物を食べると縁起が良い、夏バテしないという習わしがあったためでした。
このほかにも源内は「漱石香」という歯磨き粉の引き札(チラシ)のキャッチコピーを作ったり、PRのための歌を作詞作曲していることから日本初のコピーライターと言われています。土用の丑の日のうなぎはまさに源内にふさわしいエピソードですね。
平賀源内の意外過ぎる死因
さまざまな分野で活躍した平賀源内でしたが、晩年は鉱山事業の失敗などをはじめ、世間に知られた名士とはいえ「山師」扱いもされていました。そんななか源内は安永8年(1779年)に大事件を起こします。なんと自宅で殺傷事件を起こしたのです。
事件については2パターンの説があり、1つは大名の庭普請に関する酒宴の翌日、自宅に泊まっていた町人に庭の設計図や見積もりの書類を盗まれたと勘違いした源内が、町人と言い争いの末、刀で斬りつけたというもの。もう1つは自宅に泊まっていた友人2人と口論した結果、刀で斬りつけて1人を殺したというものです。
源内は自首し、伝馬町の牢に入れられたのち、およそ1か月後の12月18日に獄中死しました。死因は破傷風による病死との説が有力ですが、絶食による自殺説もあるようです。享年51歳でした。
遺体は杉田玄白等の友人たちの手で浅草総泉寺(東京都台東区橋場)に埋葬され、墓の隣は玄白により「ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや」と書かれた墓碑が建てられました。なお、総泉寺は関東大震災の影響で東京都板橋区に移転していますが、平賀源内の墓所は旧寺地に残されています。
ちなみに、源内については実は獄中から脱出し、田沼意次の庇護を得て意次の領国・遠江国相良(静岡県牧之原市)で80歳まで医者として働いていた、といった伝説も残っています。
日本の電気学の元となったエレキテル
平賀源内の死後もエレキテルは存在し続けました。天明7年(1787年)、平賀源内の弟子で医者・蘭学者・戯作者・狂歌師の森島中良が『紅毛雑話』でエレキテルを詳しく解説したことで、エレキテルの作り方は世間に広まりました。
そして源内の死から約30年後の文化8年(1811年)、大阪の蘭方医で蘭学者の橋本宗吉が日本初の電気実験の本『阿蘭陀始制エレキテル究理源』を発表します。オランダ人のヨハン・ボイスが編纂した百科事典の電気学部分を翻訳したもので、宗吉はエレキテルなどでさまざまな実験を行い、百科事典の内容を検証しつつ本としてまとめたのです。
実験として有名なのが、多くの人に直列に手をつながせ、エレキテルで一斉に感電させる「百人赫(ひゃくにんおびえ)」。このほか、エレキテルで焼酎に火をつけたり、静電気で紙人形を踊らせたりする実験なども行っています。
宗吉はエレキテルを実験対象とし、電気を本格的に研究したことから「日本の電気学の祖」とされています。日本の電気は源内のエレキテルから始まり、今も人々の生活のなかで活用されているのです。
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- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。