エレキテル(1/2)平賀源内が静電気発生装置「エレキテル」を復元
エレキテル
江戸時代のマルチクリエーターといえば平賀源内!! 摩擦を利用して静電気を発生させる装置「エレキテル」の修理・復元で有名な人物ですが、燃えない布を発明したり、本草学者として博覧会を開いたり、戯作浄瑠璃を書いたり、日本初の西洋画家でもあったりと、多彩な才能を持つ人物でした。今回はそんな平賀源内について、エレキテルを中心に解説していきます。
平賀源内とその時代
平賀源内は享保13年(1728年)、讃岐国志度浦(現在の香川県さぬき市志度)で、高松藩の御米蔵番を務める下級武士の子どもとして生まれました。幼いころから神童として知られており、11歳のときに御神酒を供えると掛け軸の天狗の顔が赤くなるというからくり掛け軸「御神酒天神(おみきてんじん)」を作成。実はこれ、天狗の顔の部分を透明にして、仕掛けの糸を引っ張ると肌色と赤色の紙がスライドするというもの。赤い紙で天神様の顔がお酒を飲んだように赤くなるというわけで、これにより源内は「天狗小僧」と呼ばれるようになったのだとか。
父が教育に熱心だったため、源内は藩医のもとで13歳ころから本草学(中国の薬物学。博物学のような一面も)を、藩に使える儒学者のもとで儒学を学びます。21歳の時に父が亡くなると家督を継ぎ、御蔵藩として出仕。宝暦2年(1752年)から藩の許可を経て長崎に留学します。
下級藩士が長崎留学なんてできるの?と思いますが、当時の高松藩第5代藩主・松平頼恭は高松藩中興の祖といわれた名君で、殖産興業に努めた人物。本草学への興味も高かったため、源内の留学が実現したとされています。
また、当時は第9代将軍の徳川家重の時代。8代将軍の徳川吉宗のころから蘭学は奨励されており、家重に政権が移り変わってからも実権を握った田沼意次が重商主義的政策の観点から蘭学を推奨し続けていたことも大きかったようです。なお、意次はのちに源内と交流を持ち、パトロンのような存在にもなっており、源内の2度目の長崎留学もサポートしていたようです。
留学から戻った源内は宝暦4年(1754年)に藩職を辞すとともに妹の婿養子に平賀家を継がせます。そして江戸で本草学者の田村藍水に弟子入りし、日本で初めての薬品・物産展示会「東都薬品会」を開催します。現在の博覧会のようなもので、第1回は宝暦7年(1757年)に湯島(東京都文京区)で開かれました。会主は田村藍水が務めていますが、実質取り仕切ったのは源内でした。薬品会はその後何度も開催されましたが、そうした会で知り合ったのが後に『解体新書』を世に出す蘭学者の杉田玄白と中川淳庵でした。
その後、源内は高松藩に再度士官したものの、結局辞めて野に下ります。このとき高松藩からは「他藩に士官してはならない」と条件が課せられました。こうして藩のしがらみをなくした源内は、さまざまな分野で幅広く活躍していくことになるのです。
「エレキテル」とは
平賀源内の代名詞的存在なのが「エレキテル」。もともとはオランダから伝わった摩擦を利用した静電気の発生装置、いわゆる摩擦起電機を指します。語源はオランダ語の「electriciteit」です。
エレキテルは源内が「発明」したもの、と誤った記述があるケースがありますが、実際はオランダから渡ってきたエレキテルを「修復・復元」した人物です。
摩擦起電機は1663年にドイツの科学者・オットー・フォン・ゲーリケが発明したものです。ゲーリゲは琥珀を強くこすると電気が発生することから、電気を機械的に生み出す方法を研究し、琥珀の代わりに硫黄球に軸をつけて回転させ、摩擦電気を作り出す装置を作り出しました。摩擦起電機は麻痺などを直す医療用具として、または見世物として使われ、西洋に広まりました。
日本に持ち込まれたのは宝暦元年(1751年)または宝暦13年(1763年)で、幕府に献上されました。明和2年(1765年)には源内と同門の本草学者・後藤利春が『紅毛談(おらんだばなし)』で「えれきてり」として紹介しています。ちなみに『紅毛談』は日本で初めての電気文献として知られています。
平賀源内、エレキテルを修復・復元
平賀源内がエレキテルを手に入れた経緯ははっきりしませんが、明和7年(1770年)、2度目の長崎留学の最中に古道具屋から購入したか、長崎通詞の西善三郎の家にあったものを譲り受けたようです。手に入れた機械は壊れていたため、源内は修理・復元に取り掛かります。
とはいえ、参考になるのは『紅毛談』に載っているあいまいな図のみ。このため源内はオランダ通詞に頼りながらオランダ語の文献を読み解き、修復方法を探っていきます。
そしてついに安永5年(1776年)、江戸深川で復元製造に成功!エレキテルは箱型で、仕組みとしては箱からでたハンドルをぐるぐる回すと、中にあるガラス円筒の回転瓶が回り、金箔と摩擦を起こして静電気が発生。その静電気を蓄電瓶(ライデン瓶)に貯め、上に突き出た銅線を通して外に出して放電させるというものです。銅線に指を近づけると「ばちっ!」という音とともに、火花が散ります。
エレキテルは全部で15台作り出されたと言われていますが、現存しているのはわずか2台。両方とも平賀家に伝わっていたものですが、その後寄贈され、1つは東京都墨田区の東京スカイツリータウン内にある郵政博物館、もう1つは香川県さぬき市の平賀源内記念館(香川県さぬき市)に収蔵されています。
このうち郵政博物館のものは国の重要文化財に指定されており、西洋風の唐草文様で彩られた美しい外装が特徴。実は現存する2つのエレキテルは内部構造が異なっており、郵政博物館のものはベルトで回転瓶を回しますが、平賀源内記念館のものは歯車が設置されており、蓄電瓶がありません。どうやら源内はいろいろな構造を考えて改良していったようです。
エレキテルを見世物化
せっかく修理・復元したエレキテル。平賀源内はどうしたかというと、主に見世物に使いました。火花を散らし、手がびりっと感電するというのはこれまでにない体験で、エレキテルは一大ブームを引き起こします。なんと田沼意次も側室とともに見学したそうです。どの藩にも仕えられない源内は安定した収入がなかったのですが、この見世物で生活・研究費を稼ぐことに成功しました。
ところがこのエレキテル、原始的なものだったこともあり、静電気がなかなか発生しませんでした。静電気は湿気の多い時は起きにくく、冬の乾燥した日は起きやすい、というのはご存じかと思いますが、天気が悪い日はひたすらハンドルをぐるぐる回していた、ということもあったようです。
しかも、一度驚けばもう十分、何度も何度もやらなくてもいいとばかり、エレキテルは時間がたつと徐々に飽きられていきます。源内は電気治療への流用も試みますが、結局普及しないまま終わりました。
エレキテル訴訟発生!?
平賀源内が普及させたエレキテルですが、実は安永7年(1778年)には偽物問題から訴訟騒ぎが起きています。エレキテルの研究を続けていた源内は、制作の際に同じ長屋の職人・弥七の手を借りていました。ところがこの弥七、こっそりエレキテルの模造品を作って高額で販売していたのです。その額なんと6両!
- 執筆者 栗本 奈央子(ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。