天明の大飢饉(2/2)江戸時代最大の飢饉

天明の大飢饉

天明の大飢饉

記事カテゴリ
事件簿
事件名
天明の大飢饉(1782年〜1788年)
場所
青森県・岩手県・秋田県・宮城県・山形県・福島県
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江戸城

江戸城

杉田玄白が記した『後見草』によれば、特に被害が大きかったのは津軽地方で、食べるものがなく草木も食べつくし、挙句の果てには死んだ人の肉も食べ、人肉を犬の肉と偽って売り歩いた、ということが記されています。多くの領民が逃亡して「流民」化したものの、どこに行っても食糧難なので1日当たり1000人、2000人の死者が出たほどだったようです。

また、各藩の公式記録や飢饉の犠牲者を供養するための供養塔などの史料によれば、津軽藩(弘前藩)は天明3年9月から4年6月にかけての餓死者が藩の人口の1/3にあたる約8万人にも及びました。八戸藩に至っては天明4年(1784年)4月までに人口の約半分にわたる3万人が死にました。

死者が増えた理由は、飢饉のなかで疫病が流行ったことも大きな要因でした。当時の文献から推察するに、腸チフスや赤痢、マラリヤにインフルエンザなどが各地で流行したようで、仙台藩では天明3年10月以降に餓死者が増えはじめ、餓死者だけで14万人から15万人、合わせて疫病の流行により結果として30万人が死亡したそうです。

仙台藩でこれほど死者が増えた理由の一因は、凶作や飢饉に備えて貯めるはずの備荒蓄米を江戸に輸送して販売する「廻米」を実施し、その利益を商人からの借入の返済などに使っていたからです。天保2年(1782年)は西国が凶作だったことで江戸の米価が高くなっており、各藩は「儲けは大きい!」と農民の貯蔵していた米まで買い上げて江戸に販売していました。藩としても酒造禁止令を出して米価を落ち着かせ飯米の確保に努めるなどの対策を取りましたが、焼け石に水でした。こうした藩はほかにもあり、後に失策が非難されています。

天明の大飢饉を乗り切った米沢藩と白河藩

東北地方を中心に多くの死者を出した天明の飢饉ですが、東北にあるにもかかわらず1人の餓死者も出すことなく乗り切った藩があります。それが米沢藩(山形県)と白河藩(福島県白河市周辺)です。

米沢藩の当時の藩主は「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」で有名な上杉鷹山。藩の財政が破綻状態にあるなか明和4年(1767年)に第9代藩主に就任した鷹山は、自ら実践した大倹約令や、たびたび起こる飢饉に備えた備蓄米の増加、食用植物の栽培奨励や殖産興業などに取り組みました。これは宝暦5年(1755年)から翌年にかけて発生した「宝暦の飢饉」や、何度も発生している東北地方での凶作を踏まえたものでした。さらに天明の大飢饉の際は越後国(新潟県)など比較的米に余裕がある周辺諸国から米を購入。こうした対策により、餓死者0が実現できたとされています。

白河藩は第2代藩主・松平定邦と、天明3年(1783年)10月に跡を継いだ第3代藩主・松平定信が米の確保に乗り出します。白河藩の分領でまだ米に余裕があった越後国から米を輸送するとともに、会津藩(福島県西部など)の藩米と白河藩の江戸扶持米を交換。他藩に先んじて余裕のある藩から米を買い上げ、質素倹約に努めます。このほか飢饉が長引くなか茶の栽培などの農業振興にも取り組み、天明の大飢饉をしのいでいます。

天明の大飢饉で一揆や打ちこわしが発生

天明の大飢饉の期間中、各地では幕府や藩の対応に不満を抱いた庶民による百姓一揆や打ちこわしが乱発しました。百姓一揆は百姓が農村で年貢の減免や夫食米(食糧としての米)の支給を等を求めておこなうもの。打ちこわしは米不足や米価高騰を受け、都市部の町人などが米商人などを襲って家屋を壊す行為を指します。

百姓一揆や打ちこわしは全国規模で発生しましたが、被害が多かった東北地方では天明3年・4年の2年間で実に27件の百姓一揆・打ちこわしが発生しています。

また、江戸や大阪などの都市部でも、米不足や農村部からの流民増による治安の悪化などにより打ちこわしが発生しています。なかでも規模が大きいのは天明7年(1787年)5月に発生した打ちこわしです。職人8人が米殻商に米の施しを求めたことから始まった打ちこわしは江戸中に広がり、なんと3日間に渡って1000軒の米屋と8000軒以上の商家が襲われる大事件になりました。町奉行では鎮圧できず江戸の町は一時は無法地帯になりましたが、火付盗賊改方が出動して見廻ることで徐々に落ち着きを取り戻したそうです。

天明の大飢饉が招いた「寛政の改革」

天明の大飢饉は政治にも影響を与えました。飢饉は政権に対する天罰なのでは?という考えや、幕府の飢饉に対する対応の遅れにより庶民の不満がたまり、政権運営を担っていた田沼意次に非難が集中します。

そして第10代将軍の徳川家治が天明6年(1786年)8月に亡くなると、意次は老中を解任されます。返り咲こうとする意次でしたが、天明7年5月の江戸での大規模な打ちこわしが発生。田沼派の政治が原因とされてしまい、田沼派は失脚します。

代わって老中首座に就任したのが、白河藩主・松平定信です。白河藩の飢饉対策が成功したことで注目を集めていた定信は老中として、倹約と農村の再生、米の備蓄などを「寛政の改革」として取り組んでいくことになるのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.04