天明の大飢饉(1/2)江戸時代最大の飢饉

天明の大飢饉

天明の大飢饉

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事件簿
事件名
天明の大飢饉(1782年〜1788年)
場所
青森県・岩手県・秋田県・宮城県・山形県・福島県
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江戸城

江戸城

江戸時代に発生した飢饉のうち、有名なのが「享保の大飢饉」「天明の大飢饉」「天保の大飢饉」の三大飢饉です。このうち東北地方の被害が特に甚大だった「天明の大飢饉」は天明2年(1782年)から天明8年(1788年)と長きにわたって続きました。90万人以上の餓死者を出し、三大飢饉の中で最も被害が大きかったと言われる天明の大飢饉ですが、田沼意次の失脚と松平定信による「寛政の改革」の原因でもあります。今回はそんな天明の大飢饉について、政治的な背景も交えつつ分かりやすく解説していきます。

天明の大飢饉が起きた時代

天明の大飢饉は天明2年(1782年)から天明8年(1788年)にかけて発生した大飢饉です。第10代将軍の徳川家治と第11代将軍の徳川家斉の2代の将軍にわたって続きました。

徳川家治の父・第9代将軍の徳川家重は側用人制度を復活させ、田沼意次を重用します。家重は病弱で、今でいう脳性麻痺だったのではないかと言われている人物です。家重は言葉もはっきりしゃべれず、側近で後に側用人となった大岡忠光のみ言葉を聞き分けることができました。そんな大岡忠光が亡くなると、家重も隠居し、家治に将軍位を譲ります。

家重は引退時、家治に意次を引き続き重んじるよう助言します。家治はそれを受け入れたため、家治の時代も意次は政治の実権を握り続けます。一方、家治は絵画や囲碁などの趣味の世界に没頭していくことになります。

田沼意次というと賄賂をもらって私腹を肥やした悪者のようなイメージがりますが、現在では年貢に依存し赤字だった幕府の財政難の抜本的改革を目指し、商業を重視して新たな財源を生み出そうと重商主義背的な政策を打ち出した政治家として評価されています。

ちなみに賄賂は当時は「手土産」的なごく普通のコミュニケーションツールで、意次だけが賄賂を積極的に受け取っていたというわけではありません。また、基本的に老中など幕府の要職にかかる費用は持ち出しなので、老中の役目を果たす経費として賄賂を使用していました。意次に代わって老中についた松平定信は賄賂を受け取らなかったとされていますが、実は意次に賄賂を贈っていたことが分かっています。

話を意次による改革に戻します。意次は商工業者達などの同業者組合である「株仲間」を積極的に公認しました。商工業者達は株仲間に参加すると仕入れ・販売の独占権などの特権を得ることができます。ただし、その代わりに株仲間のメンバーは幕府に租税の一種である「冥加金」や「運上金」を納めなければなりませんでした。意次は農民殻の年貢だけでなく、商人たちからも積極的に税を徴収しようとしたのです。

そのほか意次は新田開発や治水に加え、利根川から江戸への水運確保を目的とした印旛沼の開拓、殖産興業のための朝鮮人参や白砂糖などの国産化、蝦夷地の開発に長崎貿易の積極化、鉱山の開発などさまざまな改革を行います。

そうした策が功を奏し、江戸幕府の財政は改善していきます。さらに意次の時代は歌舞伎や浮世絵などが盛んになり、江戸の町人文化が花開きました。一方、商人や武士などを中心に賄賂が横行し特定の商人が優遇されたり、賄賂で人事が決まったりと商業的・政治的な混乱が起こりました。また、商人を重視しすぎた弊害で農民が困窮して百姓一揆をおこしたほか、優遇される商人に怒りを覚えた庶民が打ちこわしを実施。農地を放棄した農民が都市部になだれ込み、田畑が荒れ果てるなどの弊害も発生しました。そんななかで起きたのが東北地方を中心とした天明の大飢饉でした。

天明の大飢饉の原因①悪天候による不作

もともと東北地方は冷害による凶作で幾度となく飢饉が発生していました。特に江戸時代は数十年ごとに大凶作による大飢饉が発生しています。

東北での凶作の原因となる冷害の主な要因は、「やませ」と呼ばれる特有の冷たい北東風です。梅雨の時期から真夏にかけて、海を渡って吹きつけてくるやませが長雨を呼び、それにより低温や日照不足が起こり、水稲の大不作が発生するのです。

天明の大飢饉の場合、天明2年(1782年)は雨が多く悪天候が続いていました。さらに天明3年(1783年)は異常低温による大冷夏で、当時の東北の記録によれば寒かったため8月でも冬物の衣料を着て過ごしていたとあります。この冷夏が大凶作を招き、天明の大飢饉につながっていったのです。大凶作は翌年には落ち着くのですが、天明6年(1786年)には洪水や冷害などによりふただび大凶作が起こっています。

天明の大飢饉の原因②浅間山の大噴火

飢饉を悪化させた原因の2つ目は、天明3年7月8日(1783年8月5日)の浅間山の大噴火、「天明の浅間焼け」です。浅間山は現在の群馬県嬬恋村と長野県北佐久郡軽井沢町および御代田町の境にある活火山で、標高は2568m。これまでに何度も噴火しており、『日本書紀』にも奈良時代の噴火の様子が描かれています。

浅間山の活動が活発化したのは天明3年の4月9日からで、激しい爆発とともに噴火が続き、灰が降り注ぎました。途中休止期間を挟みつつも、次第に噴火は激しさを増してゆき、7月7日から8日にかけては大爆発が発生して巨大な噴煙柱があがり、その音は京都まで届いたほどでした。

爆発により繰り返し火砕流が発生しており、7月8日には鎌原土石なだれ(※鎌原火砕流・岩屑なだれ、など諸説あり)が発生し、鎌原村(群馬県嬬恋村)を飲み込み、約450人が死亡。長野原町にあった集落なども埋没し、周辺地域だけでも約55の村で1500名超の死者が出たと言われています。

その後、鎌原土石なだれは吾妻川になだれ込んで天明泥流になり、利根川まで流入して周辺地域に洪水等の被害を与えています。泥流は最終的には江戸川の河口まで達するほどでした。

こうした直接的な影響に加え、浅間山の大噴火による火山灰は広範囲に影響を与えました。火山灰は関東一円を中心に飛散し、農作物に降り積もりました。江戸では3cm程の火山灰が積もったほか、なんと浅間山から約400km以上離れた陸中海岸(岩手県の太平洋側の海岸)まで灰が届きました。さらに、火山灰は日光を遮りました。火山灰により空が真っ黒になり、農作物は日照不足に。加えて火山灰による気温の低下は、さらなる冷害をまねきました。

天明6年(1786年)には降り積もった火山灰と、土石なだれの大量の土砂による河床の上昇が原因で、利根川流域全体で洪水が発生しています(天明の洪水)。江戸市中にも濁流が流れ込みました。

なお、東北地方については、浅間山が噴火する少し前の3月に標高1625mの岩木山(青森県津軽平野の南西部)が大噴火を起こしており、こちらの火山灰も東北地方に大きな被害を与え、飢饉を深刻化させています。

天明の大飢饉で90万人以上が死亡、疫病も流行

天明の大飢饉の期間中の餓死者は90万人以上にも及ぶとされています。江戸時代の人口調査によれば、安永9年(1780年)の人口は2601万人だったところ、天明6年(1786年)にはなんと2509万人まで減少しています。特に東北地方においては、天明3年(1783年)から翌年の2年で約30万人もの餓死者が出ていると推察されています。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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