解体新書(1/2)日本初の翻訳解剖書

解体新書

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事件名
解体新書(1774年)
場所
東京都
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江戸城

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江戸時代中期、日本初の本格的な翻訳医学書が登場します。それがオランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を訳し、安永3年(1774年)に出版した『解体新書』です。歴史の事業でおなじみの『解体新書』ですが、杉田玄白や前野良沢らにより4年近い歳月をかけて翻訳されました。今回は今年で刊行250周年を迎える『解体新書』についてわかりやすく解説します。

『解体新書』とは

『解体新書』は安永3年(1774年)に刊行された日本初の本格的な翻訳医学書です。西洋本のしっかりとした翻訳書としても初めてのもので、それまで中国医学を中心としていた医学界に多大な影響を与えました。

元本となったのはドイツ人医師のヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書『Anatomische Tabellen』(1722年)を、オランダ人医師のヘラルト・ディクテンがオランダ語に訳した『Ontleedkundige tafelen』(1734年)。つまり、原書のオランダ語版をさらに日本語に翻訳したわけです。

『解体新書』は本文4巻+解剖図1巻の計5巻で構成されており、解剖図は平賀源内から洋画を学んだ画家・小田野直武の模写によるものです。本文は漢文で書かれており、杉田玄白とオランダ語が堪能だった前野良沢が中心に翻訳しました。なお、翻訳の際はオランダの解剖書等も参考にしています。

本文には「翼(杉田玄白)按ずるに」と注釈がついており、玄白は医者の立場から独自の注釈をつけています。なお、原本にある莫大な量の注釈は『解体新書』では省かれており、これは翻訳時間を勘案したものだったと推察されます。

内容は、1巻目が解剖学の総論、体の形体や名称、要素、骨格と関節について。2巻目は頭、皮毛、唇、脳髄・神経、目、耳、鼻、舌、3巻目は胸に隔膜、肺、心臓、動静脈、門脈、腹、胃腸、腸間膜・乳糜管、膵臓、4巻目が脾臓や肝臓・胆のう、腎臓、膀胱、生殖器、妊娠に筋肉について書かれています。

『解体新書』の中心人物:杉田玄白と前野良沢

『解体新書』は数人の蘭学者・医者たちによる共同作業でしたが、訳者として最も有名なのが杉田玄白です。杉田玄白は享保18年(1733年)に若狭国小浜藩(現在の福井県小浜市など)の医師・杉田甫仙の三男として江戸で生まれました。江戸で医学を学び、宝暦3年(1753年)に医者として小浜藩の上屋敷に勤務。その後、小浜藩医をしつつ日本橋で町医者として開業します。このころから平賀源内などの蘭学者たちと交流があったようです。明和2年(1765年)には小浜藩の奥医になりました。

一方、もう一人の訳者として知られている前野良沢は、福岡藩(福岡県)の江戸詰藩士の子として生まれますが、幼いころに両親をなくしたため淀藩(京都府京都市伏見区)の医者・宮田全沢に託され養育されます。その後、中津藩(大分県中津市など)の前野家に養子に入って中津藩医になりました。良沢は寛保2年(1743年)頃から蘭学を学び始め、晩年の青木昆陽に師事。とにかく蘭学に注力しており、明和6年(1769年)から明和7年(1770年)にかけては、藩主を説得して長崎留学の許可をもぎ取りオランダ語を学んでいます。そのときに良沢が出会ったのが『ターヘル・アナトミア』でした。

『解体新書』の背景:徳川吉宗と蘭学

江戸時代は「鎖国」のイメージが強いですが、鎖国中もオランダ、中国、朝鮮、アイヌとの交易は続いており、特にオランダとは長崎の出島を通じて交易していました。キリスト教が禁じられるなか、布教と交易を分ける方針のプロテスタント国・オランダは西洋諸国の中で唯一の交易を許された国だったのです。

『解体新書』が書かれた当時の将軍は8代将軍・徳川吉宗。吉宗はもともと天文学や医学、地理学などの実学に強い興味を抱いており、西洋の技術や知識への興味・関心が高かった人物です。吉宗の前の時代には、新井白石がイタリア人宣教師・ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッチを尋問したことなどをもとに研究書『西洋紀聞』や世界地理書『采覧異言』を書き残しており、これを読んだ吉宗が西洋への興味を深めたともいわれています。

吉宗は享保5年(1720年)にキリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入を緩和。さらにサツマイモの普及で有名な儒学者の青木昆陽や植物学者の野呂元丈にオランダ語を学ばせました。青木昆陽は『和蘭語訳』『和蘭文訳』『和蘭文字略考』などオランダ語入門書を記しています。こうした動きが蘭学の振興につながりました。

蘭学者たちは長崎のオランダ人や、江戸参府でやってきた出島和蘭商館の商館長(カピタン)・通詞(通訳)らと交流を持つようになります。そして「蘭学」の広がりを受け、オランダ語で書かれた書物が積極的に翻訳されるようになっていくのです。その始まりの一冊ともいえるのが『解体新書』でした。

『解体新書』はなぜ出版された?杉田玄白らの決意

そもそも、なぜ『解体新書』は出版されることになったのでしょうか。杉田玄白が『解体新書』を手に入れたのは、蘭学者で医者の中川淳庵がきっかけでした。淳庵は明和7年(1770年)に江戸にやってきたカピタン一行から『ターヘル・アナトミア』と『カスパリュス・アナトミア(新解剖学)』の2冊を見せられ、これを同僚だった杉田玄白に見せたのです。

玄白は解剖図の詳しさに驚き、「ぜひ手元に!」と思ったものの先立つものがなかったことから「なんとか購入してほしい」と小浜藩に願い出ました。玄白がのちに記した回顧録『蘭学事始』によれば、家老の岡新左衛門に相談したところ、儒者の倉小左衛門の口添えもあり無事に購入できたそうです。ちなみに玄白はのちに『カスパリュス・アナトミア(新解剖学)』も手に入れ、『解体新書』を訳す際の参考にしています。

同年3月、玄白はかねてから希望していた死体解剖に立ち会うチャンスを得ます。幕府の役人から小塚原刑場(東京都荒川区南千住)で罪人の死体解剖をおこなうとの連絡があったのです。玄白は中川淳庵と前野良沢を誘います。このとき玄白は『ターヘル・アナトミア』を持参したのですが、なんと良沢も長崎で手に入れたという『ターヘル・アナトミア』を持っており、3人は意気投合しました。

3人は死体解剖に立ち会いつつ、解剖内容を『ターヘル・アナトミア』の記述と照らし合わせていきます。これまでの中国の医学書とは異なり、オランダの解剖学書はなんと正しいことか。3人は図の精緻さに感動しつつも、医者ならば人体について正確な様子を知らなければならない!と危機感を持ちます。そして日本の医学界に役立てるため、『ターヘル・アナトミア』の翻訳を決意するのです。

辞書なんてない!大苦戦した翻訳作業

解剖の翌日から、杉田玄白たちは前野良沢の家で翻訳作業を開始します。ところが、当時はオランダ語のまともな辞書などはなく、それなりにオランダ語を学んでいた良沢はともかく、玄白はほとんどオランダ語がわからない状態でした。『蘭学事始』には「誠に艫舵(ろかじ)なき船の大海にのり出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」とあり、何から始めていいのか、見当もつかなかった様子が書かれています。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
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