享保の大飢饉(2/2)200万人を苦しめた大飢饉

享保の大飢饉

享保の大飢饉

記事カテゴリ
事件簿
事件名
享保の大飢饉(1732年)
場所
西日本各地
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江戸城

江戸城

これが享保18年(1733年)の正月に起こった「享保の打ちこわし(高間騒動)」と呼ばれる事件で、なんと1700人以上の人々が参加し、伝兵衛の家を襲って家財道具や米俵を川に投げ入れました。この事件は江戸時代の都市における最初の打ちこわし事件だとされています。

当時は「米高間 壱升弐合を粥にたき 大岡食はぬ たった越前」という狂歌が流行りました。これは米が高く、一升二合しか買えないのでお粥にしたが、多くは食べられなくてたった一膳だけ」という意味で、高い=「高間」伝兵衛、多く=大岡、一膳=越前(大岡越前守忠相)にかけているというわけです。

伝兵衛はもともと上総国周淮郡周南村(千葉県君津市)の出身で、年貢などを担保に貸付をしていました。その後享保年間初期に江戸に進出し、日本橋伊勢町(東京都中央区日本橋)に24棟の米蔵を設ける大商人になります。さらに徳川吉宗に協力し、大岡忠相のもとで米価の調整を行う「米方役」として、享保16年(1731年)から大坂で米価が下落するのを抑えようと米を買い占めていました。こうした飢饉の前の行いがまさかの打ちこわしに繋がってしまったのです。

なお、打ちこわしの時、伝兵衛は周南村の屋敷にいたため無事でした。その後、伝兵衛は高騰した米価を下げて落ち着かせるため、安価で備蓄米2万石を売り出すよう幕府に願い出て許可されています。

享保の大飢饉で広がったさつまいもの栽培

徳川吉宗は享保の大飢饉の後、さつまいも(甘藷)の栽培を推奨していきます。これは大飢饉の際、薩摩藩などさつまいもを栽培していた地域では餓死者がほとんど出ていなかったことを受けてのものでした。

また、さつまいもの栽培に貢献したことで知られているのが、大岡忠相の庇護を受けていた儒学者・農学者の青木昆陽、別名「甘藷先生」です。昆陽は京都で儒学を学んでいる時、さつまいもが救荒作物であることを知りました。そして享保20年(1735年)、救荒作物としてのさつまいもの種類や栽培方法、貯蔵方法などを記した『蕃薯考』を上書し、吉宗にさつまいもの栽培を推奨するよう提言しました。

さつまいもは高温や乾燥、風雨や台風などの自然災害に強く、荒れた土地でも栽培できるのが特徴。でんぷんなどの糖質が主な成分で、ビタミンCや食物繊維も多く含まれているほか、カルシウムやビタミンB1、B2などもとれる、栄養たっぷりの芋です。

もとは中央アメリカからメキシコ周辺が原産であると考えられており、15世紀頃にクリストファー・コロンブスがヨーロッパに持ち帰りました。その後フィリピンから中国、そして17世紀初頭には琉球(沖縄県)に伝わり、琉球経由で薩摩国(鹿児島県西部)に伝わります。

伝来については3つのルートがあり、最も早いものが慶長16年(1611年)に島津家久が琉球に出兵した際に兵士が持ち帰ったというもの。このほか、元禄11年(1698年)に薩摩藩の家臣・種子島久基が琉球王尚貞より取り寄せたルート、宝永2年(1705年)に薩摩山川の漁師・前田利右衛門が琉球から持ち帰ったルートがあったようです。

さつまいもの有用性を理解した吉宗は、青木昆陽を登用するとともに下総国千葉郡馬加村(千葉県千葉市花見川区幕張)、小石川薬園(東京都文京区白山三丁目、現在の小石川植物園)、上総国山辺郡不動堂村(千葉県山武郡九十九里町)でさつまいもを試作するよう命じました。

当初は「さつまいもには毒がある」という流言飛語で反対する人が現れたり、江戸の寒さに種芋が耐え切れず腐ったりすることもありましたが、昆陽はさつまいもの栽培に成功し、徐々に栽培地域が広がっていきます。こうした功績から昆陽は享保21年/元文元年(1736年)に幕府の直臣となり、「薩摩芋御用掛」に就任しています。

享保の大飢饉によりさつまいもの栽培地域が広がり、九州だけでなく関東でもさつまいもが栽培されるようになります。そして「天明の大飢饉」や「天保の大飢饉」の際も餓死者を減らして民を救う役割を果たしたのです。

享保の大飢饉後の江戸幕府

享保の大飢饉は西日本に大きな打撃を与えましたが、幸い翌享保18年(1733年)は豊作だったため、飢饉が長引くことはありませんでした。セジロウンカやトビイロウンカは越冬できないため、ウンカによる害は落ち着いたのです。

しかし、飢饉の救済により、一時立て直していた幕府の財政は悪化。一時期高騰していた米価もまた下落してしまいます。そこで徳川吉宗が取った策が貨幣改鋳でした。金と銀の含有率を減らす「元文の改鋳」により、次第に物価は落ち着き米価も上昇。江戸の経済は長きにわたるデフレからの脱却を果たしたのです。

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栗本 奈央子
執筆者 (ライター) 元旅行業界誌の記者です。子供のころから日本史・世界史問わず歴史が大好き。普段から寺社仏閣、特に神社巡りを楽しんでおり、歴史上の人物をテーマにした「聖地巡礼」をよくしています。好きな武将は石田三成、好きなお城は熊本城、好きなお城跡は萩城。合戦城跡や城跡の石垣を見ると心がときめきます。
日本の城フォトコンテスト.03